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12.魔法のアイテム

 朝8時。駅のホームに進入してきた10両編成の通過電車が風を生みだす。風は、昨日の季節外れの暑さは嘘でしたと言わんばかりの涼しさを運んでくる。というより、少し肌寒い位だ。まあ、この肌寒さは風のせいだけではないが……。

 ふと周りに目を向ける。ある者は新聞を読み経済などの社会情勢に思いを巡らせ、ある者は耳に着けたヘッドホンから流行りの曲を雑音に変換しながらばらまいている。見覚えのあるサラリーマンやOL、学生達がごった返すいつもの風景がそこにある。


 相変わらずの通勤風景……なんの変化も……あるか……。


 左にある鏡に目をやる。白いブラウスにベージュのジャケット、黒いタイトスカートに身を包んだ女性が映っている。


 ……ホントにこんな格好で会社行くのか俺は? ……今ならまだ……いや、もう間に合わないか……。しかし足がさみーな。やっぱり髪切って男の格好で来たほうが良かったよなぁ?


 そんな事を考えながら出勤前の家での出来事を思い起こした。





『……おい。俺は本当にこの格好で会社に行くのか?』全身鏡を前にため息混じりに呟く。

『そうよ、結構似合ってるじゃない? これは会社の男共の視線も釘付けね!』菜々子はさも得意気に胸を張って答えた。自分でコーディネートした俺の服装と化粧に自信があるようだ。

『「釘付けね!」じゃねーよ!これじゃ誰も俺って気が付かねえじゃんか!』

『大丈夫よ。名乗れば』

『全然大丈夫じゃねーですよ! 警察呼ばれた挙げ句に病院に放り込まれるのが落ちだろ! もういい、着替える。髪も切っちまえば男に見えんだろ。今ならまだ間に合う』そう言いながら、着ていた服を脱ごうとした。

『ダメ! その格好で行きなさい!』

『だから、なんでだよ?!』

『危ないからよ! はい、コレもバッグに付けて!』菜々子は何かキーホルダーのようなものを差し出してきた。

『ああ?! なんだこりゃ?』


 手に取るとそれにはハートマークの中に女性と子供が描かれていて、その下に「おなかに赤ちゃんがいます」とかわいい文字で書かれている。


『マタニティーマークよ。コレ付けておけば、周りの人が親切にしてくれる魔法のアイテムよ』


 マタニティーマーク。妊娠初期で外見からは妊娠している事がわかりづらい場合、付けておく事により周りの人達に自分が妊婦だと認識してもらう為のものだ。近年より活用されるようになったもので、存在は知っていたが、菜々子は使っていなかったので実物見るのは初めてだった。俺はマタニティーマークをプラプラと揺らしながら眺めた。


『魔法じゃねーだろ。付けてても相手が気が付かなきゃ効果もありゃしない単なるキーホルダーじゃんか。こんなもんあったってなくたって同じだろ? 妊娠つったって、こんなキーホルダーに頼らなきゃならない程俺の体は弱っちゃいないっつーの。それにまだ産むと決まっがぁっ――』俺は言い終わる前に、飛んできたバッグが額を打ち抜き言葉を遮られた。

『つべこべ言わずにそれ付けて、さっさと会社行け!』





『くっそう、まだおでこが痛えな。アイツは俺の身体を気遣ってんのか気遣ってないのか全然わからん……』

『あのう、大丈夫ですか?』

『へっ?』呼び声に振り向くと、男子校生と女子高生が心配気な顔で、俺の顔を覗き込んできた。

『えっ? だ、大丈夫だけど……?』

『良かった! 頭押さえてらしたので具合でも悪いのかなと思って』と男子校生。

『お大事にして下さいね!』そう言い残すと二人の高校生(カップル?)は仲むつまじそうに去っていった。

『なんだ今のは?』


 程なく電車が到着した。いつも乗っているこの電車は通勤電車にしてはあまり混まないが、それでもいつも座席は埋まっていて、座れる事はあまりない。ドアが開くと乗客が溢れ出てきた。人の流れが止まると今度は時間を巻き戻したように人がドアに吸い込まれていく。俺はいつものようにドア際の隅に陣取ろうとしたが既に先客が居たため、人混みに押されながら車両の奥まで進んだ。もちろん座席にはスペースなど全くない。座っている乗客と向かい合うように立ち、吊り革に掴まり発車を待っていると、不意に声を掛けられた。


『どうぞぉ』


 声は目の前に座っていた若者から発っせられたものだった。立ち上がり、今まで自分が座っていた場所を指している。


『えっ? なんで?』


 なんで俺に席譲るの?


『コレ』彼はそう言うと俺のバッグを指さした。そこには、今朝菜々子に言われて付けたマタニティーマークのキーホルダーがあった。彼は妊婦である俺を気遣ったようだ。


『どうぞぉ』再び席を譲る若者。

『あ、有難うございます』


 驚いた。あり得ないと思った。差別的な表現をしてしまえば、「似合わない」からだ。

 その若者は、髪はオールバック、耳や鼻に数えきれない程のピアスを付けていて、上は柄シャツ、下は今は余り見ないボンタンという出で立ちで、見るからにヤンキーだ。


『キャラじゃないだろキミ?』と言ってしまいたくなる衝動を押さえたが、よく見るとサングラス越しで表情はわからなかったが、耳が真っ赤になっている。


 ゆ、勇気だしたんだね……。


 しかし、逆に彼のような若者の方が人の優しさに敏感で、自らも人に優しく出来る器を持っているのかもしれない。俺は、彼の優しいぬくもりをケツの裏に感じながら心で有難うと呟いた。


 しかしコレ、スゲーなぁ。


 よくよく考えるとホームで声を掛けてきた高校生カップルも、コレを見て俺を妊婦と判断し、頭を押さえていたのを具合が悪いと思ったに違いない。


 マタニティーマーク恐るべし。


 魔法のアイテム、マタニティーマークのおかげで30分の通勤電車はゆとりのあるものとなった。

 気分上々に最寄り駅で下車し、颯爽と改札を抜けた時にふと思い出した。


 俺、何浮かれてんだよ? これから会社行くっつーのに。絶対部長とかビックリするよ。やだなぁ。でも行くしかねーよな。


 急降下していく心に鞭を打ち、重たい足で歩を進める。会社は駅を出るとすぐ見えた。駅前にそびえ立つ高層ビル、の横に申し訳なさげに立つ5階建ての建物がそうだ。建物は小さいが、最近は扱っている商品の売上も良く、会社自体の景気が上がってきている。


 飲みたくない酒を飲んで接待頑張ってる甲斐があるってもんだぜ全く。


 感慨に耽っていると目の前を一人の見覚えのある中年男性が通った。


 ぶ、部長!?


 部長は肥えた体格をものともせず肩で風を切って歩いていく。


 い、今がチャンスだ! ここを逃すと会社に入って皆のいる前で説明しなきゃならなくなる。この場で一対一なら……たとえ俺だと解ってもらえなくても傷は浅くて済む!


 考えている間にも部長は歩を進め、ビルの入り口まできていた。考えがまとまっていないのを余所に、俺は部長を呼び止めた。

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