10.幻滅した
湿った風を撫でる。助手席のウインドウを全開にし、少し強めに吹き込んでくる風に目を細める。
春になり少し温かくなってきたとはいえ、4月の半ばにしては暑過ぎる。車内から眺める景色には、昨日の昼まで降っていた雨の痕跡は欠片も残っていないが、視覚から消え去ったそれは空気中に溶け込み、肌にまとわりつくような触覚を感じさせる。
『あっつ。なんだこの暑さ?もう梅雨明けか?』
『大袈裟だよ瑞希は。今日は5月下旬の陽気だってさ。明日からまた4月に戻るって言ってたぞ』運転席の隼人が答える。
陽気に似合わない涼しげな顔だ。掛けている銀縁メガネが一層涼しさを醸し出す。
『ふーん』
そりゃ残念だ。
俺は夏が好きだ。夏が近くなるとワクワクしてくる。冬より夏のほうがいい。冬にスキーやスノーボードに行ったりする連中(隼人も毎年行っているらしい)がいるが、気持ちが全く分からない。何故寒い時にもっと寒いところに行くのか? 冬はコタツで丸くなろうよ。俺の前世は犬ではない事は明白だ。
昔は夏になると海水浴行ったり、花火大会行ったり、キャンプに行ったりと、家にいない事が多かった。勿論、菜々子と一緒にだ。だが、結婚して、マンション買って、彩が生まれてと、月日が流れる毎にその回数が減って、去年は何処にも行かなかった。
今年はどっか連れて行きたかったけど……無理だよなぁ。
『はぁ……』思わず漏れる溜め息。
先立つモノがない。
夏になれば彩も少しは歩くようになっているからどっか連れていってやりたいし、菜々子もリフレッシュさせてやりたい。最近特に仕事で時間が無かったとはいえ家族サービス出来てなかったから少しくらいは、と思う。だが、お金がない。
確かに自分の欲しい物も買わず、切り詰めて生活をしているから少し位は貯えと呼ばれるものもあるにはある。つい先日までは、その我が汗と涙の結晶である預金を使い、何処か旅行でもしようかと思ってもいた。が、今となってはそれも無理。
女の身体っておい…………しかも妊娠してるし。
『はぁ……』
『なに溜め息ばっかりついてるのよ!?』後部座席に座っている菜々子が言う。
振り向くと、熟睡した彩を抱きながら眉をひそめた菜々子がこちらを見ている。
『こんな状態で口笛が吹けるかっつーの』
『こんな状態って、どんな状態?』
コイツの鈍感さにも驚きを通り越して呆れが生じる。これだけ人の気持ちを察する能力に欠ける人間は滅多にいない。出会って何年も経って最近は全く気にしなくなっていたが、改めて再確認した。
『どんな状態だってぇ?! …………こんな状態だぁ!』俺は着ていたTシャツの首元を開き、豊かに膨らんだ胸元を見せながら叫んだ。
『ぶっっ』
『『どわぁっっ』』
一瞬、車が蛇行した。
『き、気を付けろ隼人!!』
『いやー、悪い悪い。あまりにも立派に成長してたから』
『アホ。男の胸見て、何興奮してやがる。!……ん? なんかこのやりとり、昨日もあったよな?』
『気のせいじゃないか?』
『つーか、なんでお前が覗いてんだ!? ちゃんと前見て運転しろ!』俺は、隼人の頭を叩きながら安全運転を指示した。
『隼人君、アタシからもお願い』
『あ、はい。わかりました。……それより、香奈ちゃん大丈夫かな? 昨日は彼女泊まっていったんだろ?』
『あ? ……ああ』
香奈は昨日、俺と菜々子を心配して家に来てくれていたが、突然倒れたのだ。朝まで起きなかったが、起きた後は何事もなかったように元気で、倒れた時の状況を本人に説明しても、ゴメンなさいと謝るばかりで何も語ってくれなかった。
『朝起きて、今日は仕事あるからって、帰ったよ。アタシもあんな事初めてでビックリしたけど、どうしたのかな、香奈?』
『わからん。が、倒れる前、なんか言ってたよな?』
『えっ、なんて?』
『いや、なんか胎児がどうとか……』
『お、着いたよ〜!』隼人の知らせが会話を遮った。
目的地に到着したようだ。
比較的新し目のマンションや一軒家が立ち並ぶ住宅地。その中に、古びた外観が一際目立つ瓦屋根の建物。自宅マンションから車で10分ちょいだが、通常であれば、全く用がないので立ち寄る事が皆無な場所。近所ではあるが、来たのはこれが二度目だ。一度目は菜々子と二人で来た。
俺は昔から超常現象などという類いは信じていなかった。が何かの本で、この世界には科学なんぞでは証明出来てないものは数多くあり、その中でも科学者達がさじを投げるようなもの、形而上学的というらしいが、要するにどんなにあがこうが科学で証明出来そうにないものがある、と書いてあったのを読んでから若干ではあるが考え方を改めた。そんな時、菜々子がどうしても此処に来たいと言ったのだ。凄い力を持った石があって、それに触りたいと。「寺」という時点で気乗りはしなかった。寺にはあまり良い思い出がない。ただ、それは妻の頼みだ。断る大きな理由にはならなかった。
妊婦石……ねぇ。そういや、来たな……。
観恩寺。
背の高い塀に囲まれた寺の入り口には一層古びた門があり、上部には寺の名前を掲げた分厚い板が下がっている。
目の前のパーキングに車を停め、外に出る。車を降りると太陽の照りつけが身体を襲う。まだ正午前だというのにこの暑さは堪らない。
『温暖化が日に日に勢いを増してますなぁ。……なんか飲まない?』パーキング内にある自販機を指差す。
『確かに喉乾いた。アタシ買って来るよ。何がいい?』彩を抱っこ紐で抱えあげながら菜々子が聞いてきた。
『いや、俺が行く――』
『いいって! アタシ行くから! 何がいい?!』俺の申し出をあっさりと断り再度聞いてくる。
『ア、アイスコーヒー……隼人もだろ?』
『ん? ああ。でも大丈夫、菜々ちゃん?』
『大丈夫、大丈夫! アイスコーヒーね? 何でもいいよね?』
『ああ』
『りょーかい!』菜々子は敬礼すると自販機に向かって歩きだした。
なんだアイツ? ……まあいいか。
『瑞希、お前身体のほうは大丈……ておい! 何してるんだ!!?』
『ん? 何?』隼人は俺に掴み掛かるかのように身を乗り出してきた。
突然の出来事に驚いた俺は、くわえたタバコを地面に落としてしまった。
『あーーっ! 何すんだよ隼人!? なけなしの一本だぞ! もったいねえなぁ――』隼人に抗議する。
と次の瞬間、俺の背中に衝撃が走った。
『のわぁ! ……ってぇ!』
振り向くと菜々子が殺気を放ち立っていた。正に鬼の形相。彩を抱きながらも、片足で巧い具合にバランスを保っている。その構えから、多分俺の背中に蹴りを食らわせたのだろう。
『……何すんだよっ! 痛てえな!』
『何すんだはこっちのセリフだ!』
『はぁ?』
『それぇ!』叫ぶ菜々子が俺の足下を指差す。
『な、何?』
『タバコ! 吸おうとしてたでしょうが!』
タバコ? は?
『なんだよ? 今に始まった事じゃないだろ?』
『お腹の子供に悪影響だって』隼人が俺の頭を軽く小突いて言う。
『そうだ、そうだ!』
『お腹の子? ……ああ、そうか』
まあ確かにそうか。でも、だったら菜々子も背中蹴んなよ。
『ああ、そうかって、お前ちゃんと産む気あるのか?』
ん? 産む?
『えっ? 俺この子産むのか? 産まなくちゃダメか、やっぱり?』
『『はあ?!』』菜々子と隼人は、頓狂な声をあげ驚いている。
『いや、だって本当に菜々子の腹から移ったんなら、また元に戻るかも知れないじゃん』
『まあそうかも知れんが、でも万が一戻らずに出産迎えたらお前が産むんだぞ? しっかり覚悟だけはしておけよ』
『そうよ、覚悟しておきなさい!』 二人は他人事のように言い放つ。
『つったって、ホントに産めんのか、この身体? 元々は男だぞ?』
『それは病院で確認したんでしょ?!』
いや……確かにしたが……。
『それに、いつ身体が元に戻るかもわからんし』
『それは今から確認しに行くんでしょ?!』
いや……確かに。だけど……
『そ、それに…………』
『それに、何よ?』菜々子は俯き気味の俺の顔を覗き込むように聞いてきた。
『…………いや、あの……なんだ』
『何よ!? はっきり言いなさいよ!』
『いや…………出産て、い……痛いんだろ?』
『……呆れた……なっさけない!』
『な、なんだよ』
だから言いたくなかったんだ。
『なっさけない!』
この野郎、お前が言うなよ隼人。
『アタシが石に祈ったせいで瑞希が女になっちゃったと思ったから、悪いなと思ってたけど、そんな弱っちい事考えてたなんて。なんか幻滅した』
『っ……』
『幻滅したぁ』
だから、お前が言うなよ隼人。
『ほら、ヨワキ、さっさと行くわよ!』菜々子はそう言うと、寺に向かい歩き始めた。
『ほれ、行くぞヨワキ』後に続く隼人。
……コイツら……
『……俺の名前はミズキだ!! ておい、ちょっと待て、おい! 菜々子ぉ、コーヒーどうした!? おいっ!』
俺は落ちているタバコを尻目に、小走りで菜々子達を追いかけた。