9.陽性→陰性
俺の腹にいる子が菜々子の子?
『な、何言ってるの菜々子?』
香奈は、菜々子の発言の意味が理解出来ない様子だ。付き合いが長いと言っても、たまに分からなくもなるだろう。相手が菜々子では。
隼人はというと、菜々子のこういう突拍子もない言動が好きらしく、ニコニコ顔で菜々子を眺めている。まるで動物園でレッサーパンダでも観察する子供のように。
俺自身も、菜々子のこういう突発事故的な発言は嫌いじゃない。むしろ格好のツッコミ材料なので大歓迎ではあるが、あいにく今はそんな気分ではないので、あっさり流す事にした。
『……さてと、ハイレベル過ぎて笑い所が見つからない発言をしている頭の弱い子は放っておいて……』
『ちょっと待てぃ! 誰が頭が弱いって!? いいから聞きなさいよ!』
菜々子は、話を打ち切ろうとした俺を止めてくる。
あーあ、せっかく皆からツッコまれて傷口が広がらないうちに、なかった事にしてやろうと思ったのに。
『お前アホか? 妊娠してんのは俺だぞ? なんでお前の子になんだよ!? 保健体育から勉強し直しなさい!』
まあ、授業では男の妊娠については全く触れてなかったが……。
『そうじゃなくて、瑞希とアタシの子どもだって!』
再び意味不明発言。 あんまり沖までいくと、足が着かなくて溺れちゃうぞ?
危なげたっぷりな子を持つ親の気持ちになってきた。笑いの海は溺れやすいのだ。
『わかったわかっ――』
話を終わらせる為の相槌を、菜々子の動作が遮断する。
彼は俺の鼻先に、何か見覚えのある体温計の様な棒を突き出してきた。
『……何の真似だ?』
『いいからよく見なさい!』
『見たいのはやまやまだが、近すぎて見えん』
「あっ、ゴメン」と言いながら菜々子は棒を俺に手渡した。
『ん? コレ妊娠検査薬じゃんか? これがどうしたんだよ?』
『ほら、コレ見てよ』
菜々子は結果表示部を指差した。
香奈と隼人も覗きこんできた。
『……陰性ね?』
『……陰性だね?』
『菜々子、これがどうしたっつーんだよ?!』
『!?』
菜々子は驚愕の表情で俺達を見ている。まるで、「何で、ここまで言ってわかんないの!?」ってカンジだ。
……わかんねーよ。
『おい、いいから教えろ! コレがどうした!?』
香奈&隼人も隣で頷く。
『……実はアタシ妊娠してたんだよ』
『『はぁ!?』』
『ウソー! やったね、菜々ちゃんオメデタ、ギャン!』
うるさい隼人をゲンコツで黙らす。
『妊娠? いつわかったんだ?』
『3、4日前』
『3日って……お前何にも言ってなかった――』
『言えないよ! 瑞希いつも帰り遅いし、帰って来てもケンカばかりだったし……』
菜々子は俺の言葉を遮り不満を口にし、俯いてしまった。
『……そっか…………ゴメンな、菜々子。俺が仕事ばかり優先しちまってたから、なかなかそういう話も出来なかったんだな?』
俺は急に菜々子が愛しくなって、そっと身体を引き寄せ抱きしめた。
『ううん、いいよ。もう過ぎた事だしね』
『何言ってるんだよ、過ぎた事って……』
……アレ?
『あの〜、同性愛はとても結構な事なんですけど、イチャつくのは向こうの部屋でやってもらえませんかぁ?』
隼人が冷やかしてきた。
『うるさいぞ隼人!……おい菜々子。「過ぎた事」ってなんだ? それに、「妊娠してた」って……?』
菜々子の身体を離しながら問い詰める。
『だからぁ……――』
菜々子は、さっき持っていた陰性結果の妊娠検査薬を、再度、俺の鼻先に突き出してきた。
『――この間検査したら陽性だったのに、さっき測ったら陰性だったのよ? で、タイミングよく瑞希が妊娠したって事は、考えられる事はひとつしかないでしょ?』
ニヤリと口角を吊り上げた菜々子は断言する。
『……移動したのよ、胎児が。アタシのお腹から瑞希のお腹にね』
は? 何言ってるんだ?
『お、お前そんなアホな事あるかよ? あり得ないだろ! ひとつって、お前……移動!? なんだそりゃ? ……お前さ、陽性だったのに陰性になったって事は、アレじゃねえか? お前の子はりゅ――』
『瑞希ぃ!』隼人が大声を張り上げた。
……危なかった。隼人が呼んでくれなければ禁句を口に出すところだった。
その時だった。
『移……動した? ……胎児が移動した?!』香奈は喜びとも悲しみとも取れるような響きの声をあげ、その場で膝を折り崩れ落ちるように倒れてしまった。
『えっ?!』
『何? どうした!?』
傍にいた隼人が抱き抱える。香奈に抱かれていた彩も寸でのところで落ちずに済んだが、大泣きしてしまっていた。
『菜々ちゃん!』
『あっ、うん!』
菜々子は隼人に促され、彩を香奈の腕から抱き上げた。香奈は気を失っているようだ。
『瑞希、ベッドに寝かせるから手伝……わなくていいや、やっぱり』
『なんでだよ、手伝うっつーの』
『いい、お前は今身重だからな。重いもの持っちゃダメ。いや、香奈ちゃんは軽いけど』
数十秒の間に三人もの人間に気を遣う隼人。
気ぃ遣い過ぎでハゲるぞ隼人。
香奈を抱き抱えながら寝室へ向かう隼人の後ろを見つめながら、俺は心で呟いた。
『どうしたんだろうな、香奈ちゃん』
『わからん。菜々子、なんか知ってるか? 香奈ちゃんがあんな風になっちまった原因』
『わかんないよぉ。香奈どうしちゃったんだろ? ねぇ、救急車呼ばなくて大丈夫かな?!』
菜々子はかなり心配した様子で寝室を振り返った。
『大丈夫だと思うよ。脈もしっかりしてたし、倒れた時も頭は打たなかったしね。熱もないから、風邪とかでもないと思うけど。さっき見にいったら、静かに寝息たててたから、少ししたら気が付くと思うよ』
薬学部卒と言っても、医療の分野を勉強した隼人は、こういう場面で本当に頼りになる。
『香奈ちゃんの倒れた原因は不明か。そして、俺の身体の変化も原因不明。わからん事だらけだな。はぁ……。』
溜息をつくと幸せが逃げると、昔誰かに言われた気がするが、こんな状況で出ないほうが不思議だ。
『うーん……それなんだが……お前、昨日は確実に男だったんだよな?』
『ん? ああ、完璧に男だった。今朝起きたら大変身だ』
豊かに実った胸の谷間を隼人に見せながら答える。
『き、昨日は何か変わった事なかったか?』
『身体はしこたま怠かったな。風邪引いたみたいに寒気がしたし』
『……それはいつ頃?』
『お前に電話したすぐ後位だから……夜の11時頃だなぁ。』
『ふむ…………菜々ちゃんは?』
『えっ!?』
突然振られた事により菜々子は、ビクッと体を強張らせた。
『……何か変わった事なかった?』
『えっ、あ、えーっとぉ……な、何にも……何にもないよ!』
……まーた何か隠してやがるな……。
『そっかぁ』
隼人は返事をしながら俺を見て、少しニヤついている。隼人も菜々子が何か隠そうとしているのがわかったみたいだ。まあ、あれだけ動揺されてわからないヤツがいたら見てみたいが。
『菜々ちゃんは家出した後何処に行ったの?』
『えっ? ……えーっと、香奈んとこだよ。香奈んとこに真っ直ぐ行ったよ』
「香奈のとこ」だけで十分伝わる内容に余計な単語をつけている。
「真っ直ぐ」行ってないって事か。どこに寄ったんだ?
『えっ? アレ、本当に? さっき茂宮が、昨日の夜11時位に菜々ちゃん見たって行ってたんだけどなぁ?』
隼人がこっちに視線を送る。
『……ああ、言ってたな、そういえば。彩抱いてたからすぐわかったって』
とりあえず話を合わせとくか。
『えっ?! ど、何処で見たって?!』
『ホストクラブ』
『ああ……って行くか! なんで子連れでそんなトコ行くんだ!?』
隣でオモチャで遊ぶ彩を指差しながら猛然と否定する。
『ええ!? でも茂宮言ってたよね?』
隼人、演技巧いね。目が笑ってないぞ。
『言ってたなぁ。確実に菜々子だって言ってた。しかも相当楽しそうだったって』
俺も今、相当楽しいけど。
『人違いだ! 他人の空似だ! アタシはそんなトコ行ってない。その時間は観恩寺にいたんだから』
『『観恩寺?』』
『…………あ』
本当にウソ下手だなコイツは。
『お前、観恩寺で何してたの?』
『……』
そんな三人のやり取りを余所に、彩は犬のぬいぐるみを振り回して遊んでいた。