プロローグ
『おい! ……おいって!』
『うっっさい、この近所迷惑男! もうあんな家二度と帰らないから!』
追いながら呼び止めようとする男に対し、それよりも二倍程のボリュームで怒鳴りつける女。
ご近所様からみれば、お前の声のほうがよほど近所迷惑だろ、と男は思ったが、それは口には出さなかった。
時刻は夜の10時を回っている。暗闇に反発するかのように灯る街灯の下で男女が言い争っている。
『菜々子っ! どこ行くっつんだよお前は!?』
『あたしの勝手! 付いてこないでっ!』
『彩は……彩はどうすんだよ!? まだ赤ん坊だろ? 連れ回したら可哀想だろ?』
菜々子はその言葉にぴくっと反応した。 彼女は、まだ一歳に満たない赤ん坊を抱いている。二人の争う声、特に菜々子の大声で目を覚ましてしまったらしく、母親に負けず劣らずの大音量で泣いている。
『可哀想ぉ? よくアンタがそんな事言えるわねぇ!? いつも飲み歩いて、ろくに面倒もみないくせに。そんな事言うんだったら、アンタ一人で育てる?』
『なっ?!』
男は色々言いたい事はあったが、少し躊躇してしまった。
『……出来ないくせに。さあ、こんな口だけ男放っておいて、行きましょ。ねぇ、彩ちゃん』
菜々子は彩に顔を向けながら歩きだした。その後ろ姿を見つめながら、男は苦虫を噛んだような表情で声を漏らした。『くっっ……勝手にしろっ』
見上げれば夜空は、男の心を映すかのように雲で覆われ、星ひとつ見えなかった。