いのちをたくす、はかないむすめ
ふわりふわりと、雪が舞う。
それは私の掌で、そっと消えていく。
寂しいな、と思う。
どうして私は雪を優しく包み込んであげられないんだろう。
こんなにも綺麗で、愛おしいのに。
脆く、儚く、穢れを知らない白を、私は掴むことができない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
私には父しかいない。母は私を生んですぐに死んでしまった。元々弱っていたのだと、けれど私を生みたいと強く願ったのだと、そう父は静かに教えてくれた。
ずっと旅を続けていたらしい父は、私を連れて一つの場所に家を建てた。世界の端と言われているそこで、私は父と共に静かに時を過ごした。
父は強く、頭も良く、そして何より静かな優しさを持つ人だった。こんなことを言うと誤解されそうだが、非常に出来た人だった。だから沢山の人が首を傾げていた。どうして世界の端に来たのかと。
父はいつだってこう答えていた。
『過剰な依存を避けるためだ』
その言葉は、世界の端を選んだ誰もが思っていることだった。王都にいる女王は世界を救った。その英雄的存在に、多くのマルカムラの人々は酔いしれた。そうして彼らは、いつしか女王を神のように崇めた。
…彼女だって、私達と同じ『ひと』だというのに。
同じ疑問を抱いた人達は、王都をひっそりと離れた。熱狂的な女王信者から、物理的に距離を置いた。例えこの世界の端でもいい。ただ、異常な崇拝をしないように、己の足で立っていけるようにと。
そう考えた人々が集まり、世界の端に幾つかの集落を作った。
世界の端で育ち、幼い頃から体の弱かった私は、けれど良くなることもなく、いつしか世界の端にいる医者から余命を告げられた。
短すぎると誰もが嘆いた。私はその意味をまだ本当に理解できなかった。父はそうかと無表情に頷いた。覚悟していたようだった。
緩やかに、けれど確実に悪化していく体調に、死の足音を感じ取った。それから、父に酷い言葉ばかりを浴びせるようになった。何故自分を生んだのかと、どうして健康に生んでくれなかったのかと。聞くに堪えないものばかりだったというのに、父は黙って受け止めた。何も言わない父に苛立ったことが何度もある。けれど私の不安から、恐怖から、父は一度として逃げることはなかった。
そんな父の静かな、そして深い愛情に気づいてから、私は悲しくなった。私は、父を独り遺して死んでしまう。母に置いて逝かれた父は、更に娘である私にさえ、置いて逝かれるのかと。父が独りになってしまう。そう思うと、涙が止まらなかった。
己の死も怖い、けれど最愛の父を独りにしてしまうことの方が、もっと怖かった。
誰か傍にいてあげて欲しいと願い、けれど父は再婚することもなく、ただ静かに私の看護を続けた。
父に遺してあげられるものは、何もないの?
丁度そんな時だった。一人の旅人に出会ったのは。
若い男性だった。不思議な雰囲気と、柔らかな物腰の彼は、初めて会ったと言うのに私の目を懐かしそうに見て、言った。
「君の願いを叶えよう」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
私は、私の願いが叶うならば何だってよかった。親不孝かもしれないけれど、こうすれば父は独りじゃなくなるから。
私はもう、父の傍にいられない。けれど、この子なら、もう少しだけ父の傍にいてくれる。
お腹に子供がいると知った時、父は一瞬苦い顔をした。それもそうだろう、私の身体では出産はおろか、妊娠さえできないと言われていた。だというのに、あの男性の子供は、確かに私の中に息づいている。
奇跡だと、誰かが言った。けれど私はこれが必然だったと思っている。
きっと出産に耐えられず、私は死ぬだろうと言われていた。怖くないと言ったら嘘になるけれど、父にこの子を託せるのなら耐えられる。だからきっと会うことはほとんどできないこの子の名を、決めておきたかった。
「お父さんは、どんな名前が良いと思う?」
「お前の子だろう。お前が決めなさい」
「一緒に悩んでくれたっていいじゃない。可愛い娘のお願いなんだから」
「そういうところはちゃっかりしているな」
「仕方がないなぁ。じゃあ、女の子の名前は私が考えるから、男の子の名前を考えて?」
「俺に命名のセンスがあるとは思えない」
「思えなくっても頑張って頂戴」
「…わかった。ではお前が男だった場合につけられていた名前にしよう」
「それってお母さんが考えた名前じゃない?」
「いいだろう。お前の名前は俺がつけたのだから」
「そうだったの?」
「ああ」
「私の名前は、どうやって決めたの?」
「聞かない方がいいぞ」
「知りたいよ。きっともう、そんなに時間はないから」
大きなお腹を撫でながら渋りに渋っていた父を説得して、ようやく説得することができた。
「………いのち、と」
父は、私をじっと見る。私が父から受け継いだ、燃えるような色の髪と。
「母さんのところの言葉で、いのち、という意味だ」
この、漆黒の瞳を、父はじっと見ていた。
「命を繋げてほしいと、そう願った。だから、そう名付けたんだ」
「ふふ、じゃあそのとおりになったね。お父さんとお母さんから貰った命を、この子に繋げられる」
「…ミコト」
父の綺麗で、そして静かな金の瞳はいつだって私を励ましてくれた。私はこの瞳が大好きだ。ずっとずっと、私を見守り続けてくれていた瞳。きっとその瞳は、私の最期も映し出す。
…それが金の瞳にとって、新たな命を映す始まりだといいなぁ。
父が私の名を呼んで、私はそれに応える。ずっと名前を呼んでくれていた。命を繋げる、その名をくれたその人の、綺麗な瞳が、滲んだ。
「命を、繋げてくれて、ありがとう」
後にも先にも、父の涙を見たのはこれが最後だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
何となく、わかっていた。私が用意した女の子の名前は必要ないのだと。
生まれたその子につけられたのは、私が男だったらと母が考えてくれていた名前。母の言葉で、とある花の名前だと言う。
元気な泣き声を聴覚が捉えながらも、私の視界は暗くなっていく。だけど最後に、必死になって口を動かす。
言いたいことは沢山あった。
生まれてきてくれてありがとう、でも抱いてあげられなくてごめんね、お父さんがいなくて寂しいよね、だけど最高のおじいちゃんがいるから大丈夫だよ、君は元気で育って欲しいな……
だけど、たった一言、これだけは、ちゃんと言いたかった。
「……レ…」
雪のような、穢れを知らない無垢な愛しい我が子。
ああ、ようやく私は包み込んであげられたんだね。
「私、の、可愛い………レ、ン」
花の名を戴くこの子に、どうか沢山の幸せが咲きますように。