つみをつぐなう、やさしいきじん
この世界はゆっくりと腐っていった。
それを知りながら、間近でそうなっていくのを見ながらも止められなかった故に、この世界の人間たちの醜い欲望の被害者たる少女を守らねばならない。
そう決めたのは、あの日、まだあどけない少女が外へ放り出された瞬間のことだった。
「いや、だめ」
その少女の居場所を作るためならば、あの日の笑顔を取り戻せると言うならば。
「お願い、そんなことしないで、こっちへ」
この命、惜しくない。
「や、望んでない、ちがう」
少女はきっと絶望し、悲嘆に暮れるだろう
「い」
けれど私は信じる。少女が幸福を得ることを。それだけを信じて、私は首に当てた刃をひく。
「ぃやあああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
(後は頼みましたよ、シウィー)
暗闇に染まる視界の中、少女を抱きかかえる少年に全てを託した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
私の家はそれなりに繁盛した商家だった。
億万長者とまではいかないが、王都の中心街に邸宅を構え、幾人かの召使を雇い、小さな地区の行商人を束ねていた。裕福であったことは認めるが、この程度の商人はいくらでもいる。対して珍しいことなど無かった。と、幼い頃は思っていた。
私は叔父夫妻に育てられていた。商家を継いだ叔父の姉が私の母であり、私を生んですぐに亡くなっている。未婚のままだった。父親のわからぬ赤ん坊の私を引き取るか否かで随分祖父母と揉めたようだ。一時は里子に出すと言う話まで出たらしい。
それでも何とか叔父は私を手元で育てることを望み、当時まだ婚約者であった義理の叔母も説得したと言う。
一体何故叔父は私を育てることに固執したのか、それは私がもう少し大人になってから知ることとなる。
その叔父夫妻にようやく跡継ぎである男子が生まれたのは私が全寮制の学校に入る歳の頃だった。その男子には姉が二人いたが、どちらも病気と事故で幼くして亡くなっていた。その故に殊更、男子は大層大事に育てられることとなる。
娘たちの相次ぐ死と、それによって私が家の後継者でいつづけたことが気に食わなかったらしい叔母とはその頃から関係が悪くなっていた。幼い頃はわからなかった隠された悪意を明確に感じたのもあって、全寮制の学校に進学することを決めた。叔父は不安げでありながら、どこかほっとしていた。その矢先に生まれた男子だったから、叔父夫妻の中で私の存在は薄れていったように思える。
その後、年に一回実家に戻るか戻らないか程度で、従弟になる跡継ぎとはあまり顔を合わせなかった。叔母の思惑もあったかもしれない。丁度従弟が幼児学校に入る頃、私には付き合っている人間がいたから余計に実家から離れた。後に私の伴侶となる人間だった。
何となく教育に携わりたいと、教員養成学校に入って数年目のことだった。その頃、世界の外れで謎の生命体が確認されたらしい。それがどんなものなのか、王都まで情報が来ることはなかった。
久方ぶりに実家に帰ったので、とりあえず形上だけでも二人に挨拶でもしようかと思ったのだが、丁度叔父と叔母の口論の現場に出くわした。
出くわした、と言っても私は二人の私室の扉をノックしようとした瞬間だったので、二人は私の存在に気づいていなかった。何やら取り込み中のようだと踵を返そうとした時、ふいに聞こえた母の名に、私は再び扉に吸い寄せられるほかなかった。
「あんな相手も碌に考えない女の肩を持つっていうの?!」
「姉さんのことを悪く言うのはよしなさい。あの人だって、悩んで、だからこそ結ばれなかったというのに。同じ女性として何も思わないのか、お前は」
「何も思わない、ですって?思うに決まっているでしょう、そんな身の程知らずの浅はかな恋に溺れた女のことなんて」
「何故そう敵視する?お前の義理の姉であり、あの子の母親だろうが」
「あなたがいつもあの女を庇うからでしょう?いつだって、あの女の味方だからでしょう?」
「わけがわからん、当たり前だろう。たった二人の姉弟だぞ!」
「度が過ぎているのよ。あんな厄介な子供を引き取ろうとしたことだって、可笑しいわ。あの子の出自が世に広まったら、あなたどうするつもりなの?」
「広まらないように手は打ったし、今も注意は払っている。煙さえ見えない火に騒ぎ立てるほど世間は暇じゃない。暇じゃないようにさせることくらい簡単にできる」
「それでもいつか、あの子のことを嗅ぎ付けてくるわ。容姿は母親に似たみたいだけど、いつ綻びが生まれるか、わかったもんじゃない…!」
「あの子が健やかに過ごせるよう、私も彼も細心の注意は払っている。お前が過度に心配することではないだろう」
「そう言ってすぐに私をのけ者にする、大体あなたはいつだって……」
続く口論は他の話題にすり替わっていったので、私はそっと離れることにした。私室に向かう途中、ぐるぐると二人の言葉が頭を巡る。
どうやら母親は随分面倒な相手と恋に落ち、結ばれること叶わず子供だけ産み落としたらしい。その子供は、母の生家にとって不利益を生じさせる可能性がある。だから祖父母が随分反対し、里子に出すことも選択肢として考慮したのだろう。だが弟はそうしなかった。理由は明確にわからないが、母を慕っていたようだ。…と、単純に考えられるほど私も純粋ではない。何らかの私欲があるのだろう。それが何なのかわからないが、母を通すことで『彼』と繋がりを持ちたがっているように思える。母亡き後は、その子供を利用して。
さて、その子供である私が、この会話の後どう動いたのか。
期待外れだろうが、特に何もしなかった。今までどおり、実家では小さくなって過ごし、外では友人たちと他愛もない話に興じ、交際中の恋人とは愛情を育み、学友とは将来を語る。何ら変わらない日々を過ごした。そう、望んだ。
父を知りたいとは思わなかった。
母が諦めた人で、今も私のこの生活が続くように、どこかで見守ってくれている人。
相手が名乗るつもりが無いというのなら、私もそうしようと思った。私は母の私生児であり、叔父夫婦に育てられた子供で、いつかあの家を出て行く存在にすぎない。
知らなくていいならば、知らないままでいい。…多くの人がそう望むなら、自分もそれを演じよう。
私の悪い癖の一つは、ここでついたと言っても過言ではないだろう。
月日は流れ、交際相手と結婚した。
当時はまだお互い学生の身分であったが、子供が腹にいることが発覚したために籍を入れることとなった。私達の結婚の仕方に眉を潜めた人間もいたが、それよりもこの幸せの方が私にとって大事だった。
私だけを見てくれる人が、私の傍にいてくれる。
その事実だけが私に幸福を齎す。私を生んでくれた母も、今もどこかで見守っているらしい父も、私を引き取ってくれた叔父も、誰もそれを与えてくれなかった。与えられてくれなかったから、私は与え返すことがずっとできなかった。
今は互いに愛を確かめ合い、与え、貰うことができる。何て幸せなんだと、私は忙しい中でも幸福に酔いしれた。幸せだった。あの時が、多分一番何もかもが上手くいっていた。
双子の男児が生まれ、見事な二卵性双生児だと友人たちに祝福されて卒業した年だった。
奇獣が、王都に姿を現し始めた。
急激に入ってきた情報は王都を混乱のどん底に突き落とすのは容易く、私は教鞭を振るうことが難しい状況になったのだと気づかされた。若い人材に国が求めるのは、未来を育てる教師ことでなく、未来を守る戦士だった。
伴侶はそれでも文官としての地位を確立していたから、戦場に立つことはなかった。私は、戦術師として戦場に行くことが増えた。だから本当のところ気は進まなかったが、ようやくハイハイし始めた息子たちと伴侶は、実家に住んでもらうことにした。何かよからぬことが起きても、あの家の警備なら何とかなるはずだから。
それがせめて、彼らの傍にいられない私の願いだった。どうか彼らだけでも安全な場所にいて欲しいという、私の浅ましくも切実な願いだった。戦場を目の当たりにして変わった考えだった。
戦場は、酷い有様だった。戦術もくそも無い。ただ、人が喰われるだけだった。その喰われる矛先を、ほんの少し変えることしかできなかった。
それを見る度に、見せつけられる度に、実家で出迎えてくれる家族を抱きしめ泣いた。今日死なせてしまった命と、今ここにいる温かい命の存在に、ただ泣くことしかできなかった。
それでも、彼らがいれば生きていけると、そう信じていた。
それは、呆気なく壊される。
奇獣を恐れた人間は、その矛先を『多少』裕福な人間に向けた。
貴族に牙を向けるのは恐ろしく、奇獣と相対することは死を意味する。
だから丁度良い捌け口として、自分たちよりも少しいい暮らしをしている、私達のような人間を選んだ。
その愚かな真似のせいで、私は全てを失った。
火の海から死に物狂いで見つけ出したのは、私を愛してくれた伴侶の胴体と、幼い息子の頭部。
群衆は家の人間を皆殺しにして、その上で火を放った。奇獣による恐れを、鬱憤を晴らすために、同じ人間を殺すという選択をした。
言葉が、出なかった。涙さえ、流れなかった。
双子の片割れであり、私によく似たもう一人の息子は、最後まで見つからなかった。どこかで生き延びているんじゃないかと探し回ったが、結局見つからなかった。いつしか、探すことができなくなった。探した結果、死んだ証拠を見つけるのが、怖かった。
全てを失い生きる気力さえ失っていた私に、一人の男が声をかけてきた。勝手に話し始めるそれを要約すると、どうやら私が学生であった頃から目をつけていたが、当時はその地位に別の人物がいたために声はかけられなかった。だが最近、奇獣の出現によりその人物が逃げるようにその地位を捨てたので、その穴を埋めて欲しいと。
逃げ出す人物の情けなさと、逃げ出したいほどの地位とは一体何なのかと、半信半疑で男を睨み、けれど結局私は彼についていくことを決めた。
それがまさか、文武の十貴人だと誰が予想できたか。
後々わかったのは、私を推薦したのは、声をかけてきた男であるベッシュ殿と、もう一人いるらしいとのことだった。それが誰だか明確にすることはできなかったが、見当はついた。そしてその人が、何故私を推薦したのかも、何となく感じ取った。であれば、全てが綺麗に繋がっていく。
母が未婚であったことも、叔父がリスクを背負ってでも繋がりを欲した理由も、私を見守るために姿を見せなかったことも、この地位を与えられたその権力の大きさも…何もかも。
母に似て、良かったと思う。
流水のようだと評される髪を一房持ち上げ、ため息をつく。伴侶からは涼しげな表情に、けれど穏やかな雰囲気があるから落ち着けるのだと言われた。叔父から言わせれば、それらは全て母譲りものらしい。
本当に、母に似て良かった。母に似たからこそ、私は今まで幸せな日々を過ごせたのだから。感謝してもしきれない。もしも父に似たらと思うと、ぞっとする。
今は全てを失ったとしても、伴侶の優しい眼差しと温かな想いが、本当の家族の温かみを教えてくれたあの日々が、今の私をそっと支える。
そして私と同じ色合いの髪を受け継いだ息子が生きている『かもしれない』という曖昧な事実が、今の私を何とか繋ぎとめる。
そうして私は、文武の十貴人として王に数年、仕えることとなった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あなた、だれ?」
漆黒の瞳から見えるのは、深い深い絶望だった。あの時の私よりも酷く荒んだ、底の見えない瞳が私を責める。
二週間、彼女は生き延びだ。外の世界で、奇獣に囲まれながらも、死ぬことは無かった。
…死ねなかった。
「ナガヤ様、ですね」
「……じゅっきじん、の、ひと?」
「ええ。こうしてきちんとお会いするのは二度目でしょうか。マルカムラの民にして、王の徒である十貴人、アルタです」
「ある、た」
「そうです、ナガヤ様」
「ど、して」
紡がれるのは、弱々しく覇気を失った声。生きることを諦めつつある者の声そのものだった。
「どして、いる、の」
「…一度は貴女に取り返しのつかないことをした身ではありますが、どうか今一度、貴女を守る役目をお与えください」
「なぜ?わたし、まこと、おうじゃ、ないの、に」
無感情が返って恐ろしく感じた。真の王ではないと、そう皆が断じた瞬間を思い出す。
悲鳴、怒号、罵声、殺意、狂気…。
ひとの醜い感情を、たった十四の少女は一身に浴びた。そうして王の扱いから一片、即座に外の世界へと追放された。王を守るべき存在である、我ら十貴人の手によって、彼女は死を望まれた。
奇獣に無残に食い殺される、その未来を望まれた。
「いいえ、ナガヤ様。私にとって、貴女が真の王であるか否かなど些細なことなのです」
「…?」
「我らは、この世界は救いを求めるばかりで、貴女のことなど何一つ考えていない。貴女が救いの手ではないと知った瞬間、我らは貴女を軽んじた。軽んじ、死さえ願った。貴女は望んでこの世界に来たのではないと言うのに、その事実さえ我らは忘れて…いえ、見ないふりをしている。己にとって利益になる存在だけを求め、そうでないものは簡単に捨てる」
「まちがいじゃ、ないよ。いらないもの、わたしは、このせかいにとって、いらないそんざい」
「いいえ、ひとの価値を決められるほど我らは崇高な存在ではない。ましてこちらの都合で呼んだ異世界の貴女の死を願うなど…おこがまし過ぎる」
「…こうかい、してる、の?」
ようやく少女の瞳に一筋の光が見えた。それは、一度彼女を捨てた私への、労わりによるもの。
一体どこまでこの少女は優しいのだろうか。一体どこまで我らは醜く穢れているのか。
泣きたいのは彼女の方だろうに、私は年甲斐も無く溢れる涙を止めることができなかった。だから、ぼろぼろになった彼女の手を私の両手で包み込み、誓う。
「もう大丈夫です。私が貴女をお守ります、この命に替えても。だから…」
だから、もう。
「貴女は、貴女のためにその御心をお使いください。我らの卑しい願いなどに、希望などに振り回されないでください…お願いします」
この声は、正しく少女に届いただろうか。