くるえないおうさまの、まもりびと
この世界は何かずれている
そう無意識に感じるようになったのは奇獣が現れた頃で、その違和が確信へと繋がったのはあいつに会ってからだった。
ナガヤ・リン
この世界の救い手になるとされ、王族を生贄に召還された異世界の住人。
だが何の手違いか、あいつはベレケを開放できなかった。つまりはずれだって、そう誰もがあいつを責めた。
あまつさえ王都の外、何の守りもない中にあいつを捨てた。
死ねばいいと。最期まで苦しめばいいと。
…まだ十四歳の、異世界からこっちの都合で勝手に連れてきた女の子を、だ。
その噂を聞いたのは王都から遠く離れた地だったが、容易にその場面が想像できた。
正直、かなり胸糞悪かった。
この世界の人間は、どこか人に頼りすぎる癖があるように思える。自分で責任を取れないから相手に頼りきり、その癖裏切られると烈火の如く怒りはじめ、手が付けられなくなる。
同じ世界の人間として、ナガヤ・リンに対する処遇はどうかと思った。だが思うだけで何もしないし、できない。
きっともう、その哀れな迷い人は奇獣に食い殺されているだろうから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「君を見た時、直感が告げたんですよ」
穏やかな表情は小さな炎に照らされて、少し影がついている。その膝元には毛布に丸まり眠るリンの姿があった。
「きっとリン様の味方になってくれる、と」
「だとしたらそれは当たりでも外れでも無かったな。俺はリンの味方でも敵でもない」
この一見優しげに見えて実は全く腹の内が読めない十貴人は、その言葉にくすりと笑う。
「そうでしょうか?」
「ああ。俺の直感が警鐘を鳴らしているんだ。これ以上深入りするなってな」
「本当に野生動物のようですね」
「餓鬼の頃に親も故郷も奇獣に奪われたんでね、野生化したんだろ」
そこまで言うと、相手は少し眉を寄せた。
「そうでしたね。それは大きな不幸でした」
「アルタ、あんただって家族を奪われてるじゃないか。ただし、奇獣を恐れた人間に、だがな」
挑発するように言うが、それでもその表情が変わることはなかった。
「よく知っていますね、そのとおりです。…だからわかるのかもしれません」
これ以上、こいつの話は聞くなと本能が叫んでいる。多分そろそろ、本気で引き返せなくなる。
「理不尽な理由で大切なものを奪われ、けれど悲しみに暮れる間も許されない…私は人々から罵倒されたことはなかったので、まだましかもしれません」
そう言って、優しくリンの頭を撫でる。ん、と僅かに身動ぎするが、覚醒にはほど遠いようだった。
「よく寝てるな」
若干呆れ気味に言うと、首を振られた。
「最近ようやく寝てくれるようになりました。それまで、眠りを極度に恐れて。疲れて意識が落ちても、すぐに悪夢を見て目覚める…正直、まともな精神状態とは言い難い状況でした」
「…」
「それでもこうして私の傍でないと眠れないらしく、一晩中一緒なんですけどね」
苦笑するアルタに俺は何も言わなかった。何も、言えなかった。
口を開けばこう続けてしまいそうだったから。
死なせた方が、こいつの為なんじゃないのか。
人の幸せなんて人によって違う。例え地獄のような世界の中でも、生を望む奴だっている。
だが数日という短い間接しただけの俺でもわかる。
こいつは、生きることを諦めようとしている。
王都から追放された後、アルタが駆けつけるまで二週間が経っていたという。その間、どうやって生きていたのかアルタも知らない。
リンは、その間のことを決して話そうとしない。
アルタは一度聞いたが、思い出せないと言われた上にリンは発狂して意識を失ったそうだ。恐らく自衛のためだろうと、アルタはそう判断し俺も同意した。リンは思い出せないのではなく、思い出したくないのだ。それほどまでの体験を、たった二週間でリンは得たということになる。
真王なら、輝かしい人生を歩むはずだったというのに。
「何でリンは呼ばれたんだ」
「…わかりません。王は真王を呼ぶつもりでした。王とて異世界の人間を呼ぶ重みを知っているはず、むやみに無力な者を連れてくるとは考えにくいのですが」
「だが実際起きた。リンはベレケ開放に全く関係ない、ただ異世界の人間だってことだけだ」
その言葉に、アルタは口を閉ざした。
「なぁアルタ、お前の立場じゃ答えにくいってわかってる。…それでも正直に話してくれ」
そう言って、アルタを見る。無言で、先を促すように頷いた。
「真王は、本当に実在するのか?」
「どういう意味でしょうか」
「本当は言い伝え自体が偽り、もしくはもう不可能なものじゃないのか。ベレケという希望も、王が世界を統治しやすくするための、虚像なんじゃないのか」
その言葉は十貴人のアルタに不敬罪だと、切り捨てられるかもしれない。それでもこれだけは聞いておきたかった。この予想が当たっているなら、あまりにもリンが哀れだった。
「正直なところ、私にもわかりません。いえ、王でさえ、本当かわからなかったはずです」
帰ってきたのは是とも否とも言い難い言葉だった。曖昧な返事に苛立ち、追求する。
「なら召還の儀なんてやるべきじゃなかった。そんな不確定な希望を民に見せるから、リンは悲惨な運命を辿っている」
「…そう、ですね」
「十貴人が聞いて呆れる。夢物語は自分達…少なくてもこの世界の中だけで終わらせるべきだったんだ。異世界の人間にまで押し付けるな」
「君は、本当にリンの為に怒ってくれるんですね」
「……………………いや、第三者から見ての意見だ」
墓穴を掘った。味方でも敵でもないと言いつつ、これではまるっきりリンを擁護している。冷や汗をかきつつ抵抗を試みるが、アルタはくすりと穏やかに笑う。
「この世界で冷静にリンを見られる人間はそういません。やはり私の直感は正しかったようですね」
この後、アルタは俺に文武の稽古を付け始めた。武は元々の能力と才能があったから比較的楽だったが、文の方は全くダメでかなりへこまされた。
「隈ができてるけど大丈夫?」
時折不安げにリンが心配してくるが、この顔を見て大丈夫かと聞くのかと軽く睨む。
「ついでに髪がメデューサみたいになってるけど、指差して笑っていい?」
メデューサというのが誰だか知らないが、とりあえずバカにされていることだけは良くわかったので行動に移す。
「わぁ、シウィーが怒った!」
怖がる振りをしながら楽しそうに笑うリンに舌打をしつつ、だが最近ようやく笑うようになってきた異世界の少女に安堵の念を抱く。人がいる場所ではまだ暗い顔で顔を隠すように下を向いたままのことが多いけれど、それでも三人だけの時は歳相応の明るい表情をするようになってきている。
良い兆候だ。
どこか彼女に対して罪悪感を抱いていた俺にとって、気が軽くなる。そして俺以上にリンを見守っているアルタにとっても吉兆のはずだ。
「くそ、こらリン逃げるな!」
「逃げるに決まってるでしょ!女の子に対して乱暴するなんてサイテーだよ」
「お前が!俺の苦労も知らずに!馬鹿にするからだろうが!!」
とうとう捕まえた。ひぇ、お助けあれー!と冗談交じりに言うリンに、本気で拳骨を与えようかと思った時のことだった。
「シウィー?リン様を怖がらせた上に…まさか手を上げるなど。ただじゃおきませんからね?」
…多少、過保護が過ぎると思うのだが。
リンは元の世界に帰れない。生贄となるべき存在がもういないからだ。
そしてこの世界にリンの居場所は無かった。誰もが真王を望み、そうでなかったリンに悪意を抱く。だから一つの場所に留まれない。リンの素性がばれる前に、人々の下を離れる。
当てのない旅だった。だがそれでも良かった。
あの時はまだ、リンが、笑ってくれていたから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
思い返していたのは、九年ほど前になる記憶だ。
今はあの時から随分状況が変わった。
「…して、この地域の生存者を王都に移動させるには…」
「食糧生産において深刻な不足が予想されており、広大な農地を確保するための案を…」
「…以上が、本日の被害状況です」
国の重鎮達が絶え間なく議論を続ける中、俺は今朝まで抱きしめて眠っていたリンの体調が気になっていた。色味の抜けた顔色は、朝になっても良くならなかった。段々衰弱していっているような気がする。いつか来ると思っていた時が、もう近いのかもしれない。
「心、ここにあらずだね」
この状況で声をかける人間は限られている。隣に座っている十貴人であるベッシュだ。
「聞いたよ。昨日の奇獣掃討、丸一日かかったって」
「ああ」
「おかげでほんの少しだけど土地を取り戻せたみたいだけど。反対に、彼女の衰弱は酷かったようだね」
そうとわかっていても、リンを休ませることはしない。
「今朝の様子はどうだった?」
「変わらない」
端的に述べ、その場を去ろうとする。だがベッシュは俺の腕を掴み引き止める。
「本当に?」
その瞳は、奥底まで見透かすようだった。
ベッシュは、ある意味で俺と同類だった。年若く十貴人となったアルタの師を務めていただけあって、リンに対する評価は公平に近い。だが十貴人の長であり、民の期待を裏切れないためだろう、表立ってリンを擁護できない。
「…表面上は、な。心のうちまでは俺にもわからない」
だが、と言葉を選びながら慎重に伝える。
「少しずつ限界へと向かってる、そんな気がする」
それだけ伝え、再び立ち去ろうとする。
今度はその腕が引き止めることは無かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
十貴人とは、その名の通り十人で構成される王直属の部下だ。
文と武の十貴人はそれぞれ四人いる。その内約として貴族出身が一人、平民出身が一人、貴族・平民を問わない二人で構成される。
文武の十貴人は二人で、それぞれ貴族と平民一人ずつから選ばれる。
アルタは文武の十貴人、そして平民出身だった。平民といっても少々大きな商家だったらしいが。
そしてアルタは己の後続として密かに俺をベッシュに推薦していた。本来であれば王自らが十貴人を選ぶらしいが、アルタは既に己の運命とリンがどうなるかを知っていたのだろう。
アルタの死後、後ろ盾の無い俺がすんなり十貴人になれたのはベッシュが周囲の反対を抑えてくれたからだ。
ただ、ベッシュがアルタの要望を飲んだのはかつての弟子の頼みだからというわけではないだろう。
俺が十貴人になれたのは、偽王と呼ばれながらも王となった少女が壊れたからだった。
ただ一つの支えだった、アルタという存在を失った代償だった。
俺でさえ、今も時折苦しめられる。
リンへの忠誠を示すために、命を賭けても仕えるべき人なのだと世に知らしめるために、アルタは自害した。
…最初からあいつはそうするつもりだったんだ。
リンをこれ以上傷つけないために、この世界で居場所が出来るように。自分が死んだら暫くリンがショックで動けなくなるだろうことだって、わかって準備していた。
だけど、あいつは見誤っていた。…リンが、どれほどアルタに依存しきっていたかってこと。
アルタを失って、落ち込むどころかリンは生きる希望さえ失った。
…そして今もまだ、あいつはアルタの言葉だけを頼りに生きている。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「シアウィス様!!」
十貴人としてやるべきことは山ほどある。奇獣に対抗できるのがリンだけなら、リンが少しでも楽に戦えるように配慮するべきことは数え切れない。
その一つと、つまり超苦手な書物と格闘していた時のことだった。瞬時に顔を上げて立ち上がる。
「何があった」
「偽王様が…偽王様が…」
顔を蒼白にしながら懸命に口を動かすが、その先がでてこないらしい。落ち着け、と短く言ってから鋭く問う。
「どこにいる」
「お部屋にいらっしゃいます…!」
俺は書類の山が崩れるのも気にせず全速力で駆け出した。
「どうしてそんなにおこってるの?ちょっとあそぼうとおもっただけじゃない。おうさまは、そんなあそびも、ゆるされないの?そんなのつまらない。みんなもっとおもしろいこと、してるじゃない」
「偽王よ、窒息死寸前まで侍女の首を絞めることなど、遊びではない!!」
「だいじょうぶよ、わたし、ちゃあんとてかげん、したから。あのこは、ちゃあんといきてるじゃない。こきゅうもあるよ、ちもかよってるよ。なんのもんだいも、ないよね」
「だが泡を吹いて、抵抗する気さえ失っていました。それが遊び、ですか」
世間話をするような声音が一人に対して、二人の声がする。その内の一つはかなり声に力が篭っており…剣を抜く音が、聞こえた。
間に合え、この無駄に長い階段を上りきれば王の私室にたどり着く。
「あれ、いいの?わたし、これでもおうさまだよ。ああ、それともかっこだけかな。そうやって、おどせば、おもいどおりになるとおもってる?ちょっとせいかいかも。わたし、いたいのきらいだもん」
「こういう時だけ王の名を使うのか」
忌々しげに言う男は、そのまま続けようとする。
言うな、と叫びたかった。だが走るために使われる呼吸がそれを許さない。間に合え、間に合えと念じるが、だが届かなかった。
「さすがは偽りの王、というべきでしょう。この世界を救えぬ、人の姿をした化け物が」
「十、貴人、として、その言葉は、どうかと、思うぞ」
間に合わなかった。
肩で息をしながら、それでも二人の十貴人を睨みながらリンの元へと歩み寄る。当のリンはころころと哂っていた。
「そうだよ、わたしはばけものだもん、なにがわるいの。そしてけものいかで、ことばのいみも、もうわからない、おろかなおろかないきもの」
「リン、やめろ」
「でもね、ばけものでも、けものいかでも、このせかいのこと、だぁあいすきなんだよ。たみが、かなしんでくるしんで、なきさけんでしんじゃえばいい、なんておもってないよ?あれ、でもちょっとおもってるかな。うふふ、どっちだろう」
「それが仮にも救い手として現れた者の言葉か!!」
「そうだよ、あなたたちがよんだ、いつわりの、おうさま。おうさまが、おきさきさまが、ちいさなおうじやおうじょが、しんじゃったのに。あぁあ、かわいそう。もっといきてたかっただろうに。このせかいのひとは、たみは、じゅっきじんは、とってもやさしいはずなのに。どうしてそんな、ひどいことしちゃったの?ひどい、ひどい。あぁ、かわいそう」
楽しそうに哂いながら問いかける彼女に、ドクオスはついに切れたらしい。
「王の死を無駄にしたのは偽王だろうが…!」
そのまま刃を向けてもおかしくは無い。緊迫した雰囲気が、その場を支配していた。
「ドクオス、やめなさい」
「ですがイェデ殿…!」
戸惑う男を制し、今まで黙っていたイェデは一歩前に出て頭を下げる。
「偽王、大変申し訳ございません。侍女に不手際があり、あなたを不快にさせたようです。以後、このようなことが無いように我々も全力で務めますのでどうか今回はお怒りをお静めください」
「ふふふ、おもしろいことを、いうね?わたし、おこってないよ。おこってないから、かのじょはいきてるし、あなたたちだってなんのおとがめも、ないでしょう?ほら、おこってない、わたし、ぜーんぜんおこってないよ?ふふ、ちょっとはやとちりだよ」
「そうでしたか。でしたらどうかこちらの過ちもその寛大な心で許していただけると尚良いのですが」
「んー、つぎがあっても、いいよ?わたし、ちょっとおもしろかった。だって、ふふ、あんなにひっしになってもがこうとするひと、はじめてみちゃった。ちょっとふざけてただけなのに、あんなにひっしになれるんだね。おどろいた。またみてみたいなぁ」
少し期待するように言うリンから視線を外し、俺に無言の問いかけをしてくる。眉間に皺がよるのを、どうしても抑えられないが何とか口を開いた。
「俺の心臓に悪い。二度目はないように」
「そうさせてもらいます。…行きますよ、ドクオス」
そういうとイェデは複雑な顔をしているドクオスをつれて階下に向かった。
「何があった」
まだ隣でにこにこ哂っているリンを、真正面に回り顔を覗き込むように見る。
「こわいって、いわれたの。こわいよーって。あのね、さっき、へやできがえをてつだってもらってて、おわってふりむいたら、こわばったひょうじょうの、あのこがいた。だから、どうしたのってわたしはきいたよ。だって、とってもこわいかお、してたから。こわい、きょうふをかんじていたからかな。それでね、ききたいことがあるならどうぞって、わたしちゃぁあんといったよ。そしたら、すごくおそるおそるね、こうきいてきたの。ぎおうさまは、ひとじゃないんでしょうって。ぎおうさまがなにものかわからないけど、でもきじゅうをころせるなら、ひとじゃないって。ふふふ、せいかーいっていったら、けものみたいなこえをあげて、おそいかかってきた」
「何故答えたんだ」
「だって、しんじつをしりたそうだったから。しってる?あのこね、かぞく、きじゅうにころされたの、ぜーいん、あのこのめのまえで。やさしいりょうしんも、かわいいおとうとも。だからね、きじゅうが、ゆるせないんだって。ゆるせなくって、ゆるせなくって、だからわたしのところにきたの。きじゅうをころせる、わたしのもとにきたの。でもね、きてみたら、おかしいなって。ひとじゃないんだって、きづいたみたい。ふふふ、さといね。さといから、くるしんじゃったんだね、かわいそう」
楽しそうに哂い、歌うように話す彼女を、アルタは予想しただろうか。
「そうだよ、かのじょはきづいちゃった。きじゅうをころせるのは、ひとじゃないんだって。ああ、かわいそう。かぞくにいっしむくいるほうほうが、やっとみつかったとおもったのに。ちかづいてみたら、わかっちゃった。ひとじゃないなら、ぎおうはなんだろう。きっとかのじょが、しんじつにたどりつくのは、すぐだろうね。ふふ、そしたらじゅっきじんは、どうするんだろう。かのじょにみはりをつける?ううん、きっとけしちゃったほうが、ずっとらくだよね。しんじつをしっているひとは、そうやってけされていく。たみをまもるはずの、じゅっきじんが、たみをころすって、ひにくだね、わらっちゃう」
「リン」
俺にはかける言葉がわからなかった。だからせめて、傍にいると、そう思って抱きしめる。
「しうぃーも、じゅっきじんだから、いつかそういうこと、やるんだろうね。かわいそう、わたしについてきたばっかりに、こんなばしょに、とじこめられて。あなたはここに、いるべきじゃないのに。あなたがいなくたって、だぁれもこまらないのに。どうしてそうやって、じぶんから、かごにはいりたがるの?そこにはなにもないのに。えさも、みずも、わらいあえるなかまも、だいじないとしいひとも、なんにもないのに。どうして、しうぃーはそれでもここにいるの。じゅっきじんをつづけていられるの。しうぃーは、たまにとってもふしぎ、まかふしぎ。…あなたをたべたら、あなたをりかいできるかしら?」
「俺がここにいるのは大事だと思うお前の傍にいるためだ。食っても俺を理解できない、多少腹は満ちるかもしれないがな」
抱きしめる力は、絶対に緩ませない。ここで手放せば終わりだ。リンは何でもないような、無邪気な振りをして俺を遠ざける。それだけは、絶対にさせない。俺がここに、こんな場所や地位にしがみついているのは、リンのためだけだ。
強制的に世界を超えさせられ、勝手にこの世界の人々に失望され怒りをぶつけられて死を望まれ捨てられ、心を壊す体験をして、挙句、再び人に望まれ大切な人を失って…偽りを強いられる。
偽王、とはよく言ったものだ。偽りの王とも読めるそれは、言い方を変えれば…。
(人の為の王、か…)
未熟な人間たちは、絶望的な世界に対する想いの矛先を偽王に向けた。
怒りを、悲しみを向ける場所さえあれば、心を失わない。それが生きる希望にも繋がる。全てを諦めてしまえば、感情は動かない。どんな感情でも湧き上がるのなら、まだ人は『生きている』。
リンは世界を救えない。だけど人の心は守っている。
だから、人の為の王。真の王にはなれない、偽りの王の正体。
「リン、俺が傍にいる」
すると哂って喋っていたリンは、暫く黙っていた。そして、一度ゆっくりと瞳を閉じる。ゆっくりと深呼吸をして、再び瞳を開けた。嘲笑と狂気の色が消え、理知の輝きが伴っていた。
「…シウィーはずっと、私を信じてくれているね」
「リンがリンである限り、信じ続ける。お前の傍から離れない。ずっと、ずっと一緒だ」
「私は、まだ私かな。私でいられてるかな。私はもう、いないんじゃない?」
言葉が少なくなるのは、リンが本音を話してくれている時の証だった。多言でふざけた言葉を好むのは、そうやって本質から他者を遠ざけようとするリンの癖だ。リンがこの世界で、偽王に祭り上げられてから身に付けた、自己防衛の手段だった。
「いいや、リンはリンのままだ。十一年間、ずっとお前の傍にいた。その時のリンのままだ」
「…じゅう、いちねん…」
俺の腕の中で、もぞりと動くのは、俺と出会った十一年前のか細い少女ではなく、立派な女性だった。けれど、あの時よりずっと苦しそうで、寂しげで、儚い。いつか影も形も無く消えてしまうんじゃないかと、不安で仕方がない。
「そっか、もうそんなに経ったんだ」
「ああ、よく耐えている」
「まだだよ。まだ私は、アルタとの約束を果たせてない」
ぎゅっと、俺の胸を掴むその指は、あまりに細い。小さく振るわせる肩は、この世界を背負わせるにはあまりにか弱い。
「アルタが、アルタが望むなら私、もっと頑張るから」
(もういいんだ、リン。もうこれ以上、傷つくな)
「私を救ってくれたあの人の願いが、私を今ここに立たせてくれるから」
(アルタだってこんなことになるなんて、思ってなかったはずだ)
「だから、私はまだ大丈夫。シウィーが隣にいてくれるなら、まだ続けられる」
(もう、立ち上がらないでくれ)
途方に暮れて泣きそうで、それでも懸命に笑おうとするリンを力強く抱きしめる。こんな細い、か弱い身体で、どうして立っていられるんだ。身勝手な期待と軽蔑、色んな負の感情を一身に受けて、それでも故人との約束のために偽り続ける力強さが、この身体のどこにあるんだ。
「そうか」
(俺に、お前を止める術など無い)
悲鳴を、上げたい。きっとそうしたいのは、リンの方だ。現に何度も狂った悲鳴を上げている。本当には、狂えないのに。
「俺はお前を全力で支える」
いっそのこと、狂ってしまえばいい。狂って、その力で王都の人々全員、食ってしまえばいい。そうすれば、お前を縛るものはもう何も無い。俺さえ食い殺し、お前は好きな場所にいけばいい。この世界で最強は、間違いなくリンなのだから。
(それでも、リンはそうしない)
どんなに不安定に揺れても、最後の最後で踏みとどまるだろう。今までもどんなにリンを悪く言う人間がいても、奇獣の力を振るうことは無かった。あの侍女のように、痛い思いをしても、誰もが生きていた。本質的に、ナガヤ・リンという人間は人を殺せない。それがリンを偽王に留める要因になっている。
「うん、ありがとう。感謝、なんて言葉じゃ言えない位、シウィーにはありがとうって言いたい」
ほんの少し、リンの口角が上がる。けれどあの逃亡劇の中で見せてくれた笑顔には、程遠い。
人に傷つけられて、それでも人の為に人に負わされた奇獣と責任を背負う。それがどれほど重く苦しいことなのか。リンは何も言わない。ただ、哂ってごまかして、泣きそうになって笑うだけだった。ずっとずっと、背負い込み続ける。いつか、本当に限界がくるまで、ずっと。
「礼は言うな。俺がしたいことだから」
本当にしたいことは、リンをここから開放することだ。だがそれはできない。そんな自分が不甲斐なくて、やるせない。どうかこの心が伝わるようにと、リンを抱きしめる腕に力が込められる。
せめて、もうリンが感じなくなっているという温かさが、心に伝わるように。
「ずっと、お前の傍にいる」
ただそれしか言えなかった。
それでもリンは、その身を預けて頷いてくれた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「守るから」
腕の中で、か細い寝息を立てる彼女を抱きしめながら、誓う。
「だから、生きて欲しい」
それはきっと、彼女にとって一番辛い言葉。
「生きて、生き延びて。いつか誰も知らない場所に行こう」
『いつか』が『いつ』やってくるのか、それはわからない。
「そこで、共に生きよう」
声が、震えた。
「それまで、生きてくれ…リン」
一滴の涙が、頬を伝って流れ落ちた。