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第一章 フシギサークル 02

 鞄を取りに戻った教室を覗き込み、そこにあった光景を見た瞬間、視覚センサーが警告アラートを上げたので俺の外殻ハードウェアは自動的に戸の陰に引っ込んだ。

 教室に、誰かいる。

 ぽつり、と一人で席に力無く座り俯いているクラスメイト。制服は男子生徒のものだった。

 一体何故こんな時間に一人で居るのだろう。表情が見えないために推測が全くできない。

 そのせいで、とても教室に入り辛い。

「おいおい……」

 だが正真正銘鍵っ子の俺は、鞄がないと家に入れない。男子生徒が座っているのは俺の斜め前の席。そんなに近くに座っているのに、全くクラスメイトに興味が無かったので誰なのか分からない。このクラスが始まって四ヵ月弱、適当且つ滞りなく過ごして来たツケが回ってきたのだろうか。

「うーっ……しゃあねえなぁ……」

 俺は自分の席が窓際にあることを恨みながら教室へと踏み入った。無音の教室に思った以上に響いた足音に、ぱっと座っていた人物が顔を上げる。

「あ……!!」

 その目には、涙があった。

 ぽろぽろと零れていく透明な雫。俺は目が釘付けになる。

「あの……わりぃ……」

 謝りながらも俺は目線を外すことができない。

 だって、それは美しかったから。

 その水滴を、綺麗だ、と俺は単純に思った。思ってしまった。

 まるで硝子で出来たビーズのよう。固形であったら一粒貰って帰りたい位だ。

 恥ずかしながらこの星に暮らして二十年、俺は人の涙というものをこんなに間近で見た事がなかった。前髪の隙間から覗く彼の目は、化粧をしているクラスの女子より長い睫毛に縁取られ、大きく見開かれている。そこから止め処なく溢れる涙が白い頬を伝っている。窓から差し込む強い日の光に紫がかって潤んだ瞳が、万華鏡のように刻一刻ときらめきを変化させ続ける。

「お前……どうしたんだ?」

 あぁ、また悪癖だ。

 気付けば彼の前に立ち、俺の手は彼の頬を流れる涙を掬っていた。

 宇宙にいた頃の我々は、触覚しか感覚器官を持たなかった。体の周囲に髪の毛よりも細い無尽蔵の触覚器官ラインを有していて、それで全ての情報を過不足なく得ることを可能としていた。

 今こうして利用している身体とは、そもそもの造りが違うのだ。地球人達が悲鳴を上げて一目散に逃げ出すようなおぞましい姿をしていた俺たちは、降下にあたり止む無く本来の身体を捨て、その内面、精神、魂とも呼ばれるものだけを身体から切り離して生かすことを選んだ。分離した魂は、今の身体――外殻ハードウェアに内蔵された思考領域ソフトウェアへと移行された。捻じ曲がった精神をこんなヤワな殻で覆おうとすること自体狂気の沙汰だと俺は常々思ったものだ。羊の皮を被った狼。傍から見ればさぞ滑稽な事だろう。

 そんな事をコンマ数秒考えている内に、皮膚に触れた涙の情報が思考領域ソフトウェアに書き込まれていく。

 98%の水分と残り2%のナトリウムやカリウムやカルシウムなどの電解質、タンパク質、免疫タンパクなど。この外殻ハードウェアになってからの触覚の精度は酷いものだ。それでも、知りたいと思うと無意識に触れてしまう。分析結果とは言ったものの“など”なんて曖昧な精度でしか解析しかできていない。己の退化しきった感覚器官に知らず俺の口が苦笑に歪んだ。

 当てにならない情報を脳内消去し、改めて俺はこの星で手に入れた視覚を利用して目の前の男子が誰かを照合した。

 出席番号二十三番。柾木花折。泣いていたのは、彼だった。

「ああ、いきなり悪い。調子が悪いのかと思ってよ」

 気まずい空気を振り切って、俺は柾木花折から手を離す。

「ごめん。何でもないんだ」

 柾木花折は涙を拭って、俺に困ったように笑いかけた。そんな困った顔をされても、俺も困る。不用意に人間に関わってはいけない。特に自分の手に負えない事象が絡んだときは。それが我々のルール。こういう時は、厄介事を避けるべくそそくさと退散するに限る。

「何かあったのか?」

 おい俺、何を言ってるんだ。驚愕する精神を余所に俺の顔は気遣うような表情を作り上げていた。何という事だろう、この口は明らかにこの事象に対して首を突っ込もうと、意に反した言葉を吐き続ける。羊の皮一枚隔てた下で、狼がゆるりと嗤う。

「俺で良ければ話ぐらいは聞くぞ」

 この瞬間、地球降下以来初めて俺は、地球人の一個体に関わってしまった。

 俗に言う個の自由意志。関わってはいけない、というのはあくまでも我々の努力義務であって、俺自身は初めて見る涙と、初めて話したこのクラスメイトに衝動的に強い興味を抱いてしまったのだ。しかも、とても物騒な想いを。

「いや、そんな大した事じゃないんだ」 

 柾木花折は俺の言葉に笑うと、紫外線のみを遮断する窓ガラス越しに空を見上げた。頭を支えるには余りに頼りない細い首がすらりと伸びるのを見て、俺の普段から燻っている欲求が何の前触れも無く鎌首を擡げる。

想像してしまう。抱いてしまう。

純粋な殺意を。動機無き破壊衝動を。

 ああ、この白鳥のようなやわな首を掴んで、縊り殺してしまいたいと。


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