第三章 レンアイオーパーツ 02
ついに、合間見える時が来た。
真夜中の学校の廊下に俺は一人立っていた。もう高岡教員は家に帰らせている。彼女をこれから起こる事に巻き込ませる訳にはいかなかった。
俺はある部屋の前に立っている。様々な物質の混ざり合った複雑な匂い。俺は取っ手に手を掛けて、スライドドアを勢い良く開く。
「こんばんは」
桜色がかった髪を優雅に風に浮かせ、そいつはアルカイックスマイルを顔に貼り付けて掌を振った。実験台に背を預け、ゆったりとリラックスした姿勢で微笑むのは、魔方陣を手にこの部屋へとやってきた時に出会った上級生、化学部部長南栄。冷房の入っていない部屋にもかかわらず、暑さなど微塵も感じていないような余裕ぶりだった。
「月が綺麗ですね」
彼の背景は、大きな窓枠に切り取られた漆黒の夜空。そこに浮かぶ月は丸々と肥え太り、収穫前の果実を思わせる艶やかな光を放っている。
「花折は、どこだ?」
舞台めいた台詞を切り返しもせずに俺は本題を投げかける。茶番に付き合うのは御免だった。
「まあまあ、まだ生きてますから」
女ならば見惚れるのだろう柔らかな微笑を浮かべながら、一皮剥けば物騒さしか汲み取れない言葉を南栄は紡ぐ。
「なら尚更だ。早く返せ!」
「おぉ、まるであの頃の勇猛さ。全然錆び付いてはいないようですね!ずっとお会いしたかったんです」
化学室で会ったときとは違う、慇懃な態度に苛々させられる。
「高岡教員から大体聞いてる。春過が消えたと同時に、化学室に棲み付いている不届き者がいるってよ」
「あの地球人は何も知らないですよ。大事な事は何も」
「重要な情報だよ。お前が――南栄春過という名前を纏った真赤な偽物って事はな!」
俺の指摘に肩を竦める南栄。
「そんな事、重要でも何でも無いでしょう?」
「俺達にとってはな。だが、高岡教員にとってはそうじゃない」
二年前の卒業式前日、確かに南栄春過は消えた。正しく言えば南栄春過の情報が。
少なくとも学校から、この地上から。消えた、筈だった。
だが、高岡教員は春過の事を覚えていた。
学校の生徒も、教師も、濃い霧に遮られたかのように僅かだったけれど、彼の影を覚えていた、そしてそれは伝播しない怪談としてのみ学校に残った。記憶は消えたが、物語は残った。
全てが中途半端だった。不完全な情報改竄。
白いペンキを塗りたくった壁に、薄っすらと落書きの跡が浮かぶように。
そしてそんな中、高岡教員の前に彼は現れた。
「少なくとも今僕は、南栄春過として此処にいる」
「在校生名簿にも載らず、クラスにも所属せず、化学室だけを棲み処にしてな」
まるで幽霊のように、居場所を限定して存在する生徒。俺は南栄を睨み付ける。
「そんな不自由な存在になってでも、お前は春過になりたかった……自由に我々・comを利用できる存在になるために」
「その通りです!」
乾いた拍手をする南栄の眼前に、俺は教育用タブレット端末の罅割れた画面を突きつけた。そこには俺が我々・comのゴミ箱からサルベージした、ラブコールメールが表示されている。
「ナツ――これは、お前が送ったメッセージだな?」
「そうです。返事が無かったからがっかりしたんですよ。僕、日本中の学校で貴方を探し回っていたんです。巡り巡ってやっと貴方を見つけて、嬉しくて嬉しくてコンタクトを取りたくて送ったんです」
眉を下げる整った顔を問答無用で殴り倒したい衝動に駆られるが、それを何とか耐える。まだ確認していないことがいくつかある。
「てめえ自身のIDで送ってればいい。だがこのナツっていうIDは、春過からお前が乗っ取ったものだろう」
春が過ぎて夏になる。俺のニックネームと同じくらい安直なネーミング。
「ええ、頂いちゃいました。僕の本名は――」
「七尾遠里」
「そこまで調べてくれたんですか!」
あっけらかんと認める南栄――遠里は、嬉しそうに笑ってさえいる。非常に気持ち悪い。
「大変だったんですよ。七尾遠里としてのIDは危険人物リストに登録されて常時監視されているから、Sクラスの貴方にメッセージなんて送れませんもの。だから春過君からIDを剥ぎ取って使わせて貰いました。ちょっと貸してくれるだけで良いって言ってるのに全力で抵抗してくるんですから……結局休眠状態にまで追い込んで、パターンの彫られた指まで採ったんですよ」
それは、我々で言えば半殺しにしたと同義だ。さらに言えば、何時か目覚められるとしても、高岡教員と生きることを選んだ春過からすれば、死ぬことと同じだ。
メッセージを送りたい。
だったそれだけの事のために、目の前の男は仲間を傷付けたのか。
なんて、なんて我々らしい。
溜息を付いて遠里は肩を竦める。
「全ては貴方の為だったんです。わかりませんか?」
「他人の為にって言葉が、免罪符になるなんて思ってねえよな?」
「それ以前に、我々に罪の意識なんてもの無いでしょう?」
演技っぽくゆっくりと頭を振る遠里。
「春過君の中途半端なIDを利用して学校に居座って、貴方の事を見続けてました。なんでメールの返事をくれないのかな、何を思っているのかなって考えながら……だけど貴方が目立った動きをしていなかった理由はすぐに分かりました!貴方もあの汚れたゴミに目を付けていたからだったんですね!」
「は?」
「あれですよ!あっ今持ってきますね」
そう言って遠里は扉続きになっている化学準備室へと駆け足で入って行く。俺は不審な顔をしながらその後に続いた。
化学準備室はきっちりと分厚いカーテンで光を遮られ、蜜を散らすような月光も届かない漆黒だった。暗視センサーがゆっくりと起動し暗闇に濃淡を付けていく。化学室より厳重にロックされた薬品棚に、観察に使うのだろう、人目を憚るような生物のホルマリン漬けがずらりと並んでいた。その部屋の壁際に設置された、業務用の背の高い冷蔵庫。冷気を放つスチール製の取っ手に手を掛けて、遠里は扉を開ける。
ごろん、という鈍い音と共に大きな物が床へと転がり落ちた。
学校指定の半袖シャツ。そこから伸びる魚の腹のように血の気の無いしなやかな腕。庫内灯の冷え冷えとした白い光に照らされる、色素の薄いアンバーの髪。
「花折……」
俺は言葉を失って立ち尽くす。庫内から垂れ流される白い冷気が、黄泉から涌き出る霊気のように花折を包む。
「狭いので、向こうに持って行きますね」
遠里は花折の肩を物でも掴むように持ち上げて化学室へと引き摺っていく。窮屈な姿勢で詰め込まれていたのだろう、皺だらけの黒い制服に包まれた脚が、ずるずると床を擦る。驚愕による硬直から立ち直ってすぐに後を追うのと、遠里が化学室に戻るや否や荷物のように花折を打ち捨てたのは同時だった。
「てめえっ!」
俺は花折に駆け寄ると殺意に煮え滾る瞳で遠里を見上げる。
「ああ、御免なさい。動いて逃げ惑う方が殺し甲斐がありますよね」
何を言っているのかまるで理解できない。狼狽する俺の態度にやっと気付いたのか。王子様のようにふわつく髪を掻き揚げて遠里が目を眇めた。
「なぜ、そんな目をするのですか?」
「なぜって……」
「貴方もこんなものが生まれたという、我々の恥辱を雪ぐためにこれに近づいていたんでしょう?」
遠里の言葉を聞いてやっと理解する。誤解も甚だしいこいつの妄想を。
「これが我々の間でなんと呼ばれているか知っていますか?“希望”ですよ!」
嘲るように顔を歪めて遠里が笑う。
「あの脆弱な地球人と、我々の間に子供?ふざけるのもいい加減にしてください!貴方もそう思っているのでしょう?」
哂う宇宙人。壮絶に美しい顔で、口を三日月形に歪めて遠里は続ける。
「これは僕らの弱さの象徴だ。武器を棄て、戦うことを止めて、そして人に隠れて惨めに生き延びようとする僕らの弱くなってしまった心の体現です!さあ、貴方の手で殺してください!降下の時に最後まで我々たろうとした貴方が是非!さあ!」
足元に転がる花折を遠里が足で小突く。意識の無い花折はまるで死体のようにごろりと転がった。際限の無い花折への蛮行に、俺の思考領域が冷却さえ追い付かないほどに熱暴走していく。
「いい加減にしろ。花折を寄越せ――俺は、こいつを殺す気なんてねえ」
「は……何を仰ってるんですか?」
「だからよ……手前等の主義主張なんてこっちはどうでもいいんだって」
「はい?」
「問題は、なんで、何も知らない花折に、こういうことをしてるんだって事だ!」
俺は怒りのままに遠里に掴みかかろうとする。だが、伸ばした腕は不可視の障壁に簡単に弾かれ、俺の手からは青い血が噴出した。ノスタルジックな光景だった。
弾き飛ばしたのは、目に見えない触覚器官。
「ってえ……挙句に捨て去ったはずの戦闘技術まで使いやがって……!」
「やだなあ、捨て去ったのは日和見主義の年寄り共だけです。僕等は少なくともまだ戦うつもりなので」
聴覚センサーがぎりぎり感知できる振動音。虫の羽音のような。触覚器官を揺らす音。昔我々誰しもが持っていた、唯一無二の感覚器官。
「がっかりですよ。我々の間でその名を知らない者などいない貴方が」
そこで一度言葉を切り、わざとらしく俺をちらりと一瞥して溜息をつく。
「こんな塵芥に想いを寄せているなんて」
遠里が滔々と捲くし立てる声には、何時の間にか狂ったような響きが滲み出す。
「あの頃の貴方はそんなじゃなかったでしょう?意思決定権を持つ中で末席とはいえ第三位に君臨し、我々の在り方を体現するように殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺しまくった!全てを焼き尽くし分子にまで破砕して殲滅した!貴方の駆けた戦場は地表さえも失った!そんな貴方が何故!?」
「……そのせいで、星まで壊した」
俺だけのせいで、とまでは言わないが、あの戦い方で、あの戦闘方法で、目的の有るようで無かったあの戦争で。
俺たちは、あの時壊すためだけに暴れまわっていた。
自らの手で地獄を生み出した。
すべてを本能のせいにして。
純然たる理性を振りかざすかのように狂気をばら撒いて。
正しいとか、正しくないとか、今の我々の末路を見ればそんな事を論じるまでも無い。
「それに、あの選挙で決まっただろう?」
ぴくりと遠里の頬が引き攣った。桜色の瞳孔が細く絞られ、わなわなと震えだす。
「汚らわしい!あんな数の差だけで決まる意思決定など!弱者のための論理です!我々に相応しい方法では無い!」
断固として叫ぶ遠里。
ああ、まるで昔の自分を見ているようだ。俺は思わず微笑んでしまった。
「何を笑っているのですか!?」
「……いやあ、思い出しちゃってさあ、あの時の事」
滅ぼすか、共存かの二択。
その平和さに憧れて、我々が初めて行った選挙は、猿真似もいいところの出来栄えだった。
「ふざけるな!!こんな方法で何を決めるというんだ!?」
俺は怒りのままに触覚器官を激しく振るわせた。その怒りが伝わったのか、円卓に座る隊長たちに動揺が走る。
「あわてるな。お前は我々の種族の本能を信じているのだろう?」
第一位が俺の怒りを押しとどめるように緩やかに揺れる。
「ならば、この選挙という地球人の用いる意思決定法を試しても、結果は変わらんと思うのだが?」
第一位の言葉に第二位が静かに頷く。
「けっ……てめえは一寸前の戦闘で娘が戦死してんだろ。それで日和ってねーか心配してるだけだよ」
「口を慎め!!お前はたかだか第三位だぞ!」
第五位の隊長の一括も受け流し、俺は揶揄するように体を揺らめかせた。
「べっつにーてか俺は今此処で戦って序列を引っ繰り返してもいいんだぜ」
「……埒が明かんな。選挙を開始する。地球に降下後、我々が侵略を行うことに賛成か反対か。反対が過半数を取得し殲滅を行わない場合は、我々は地球人に同化してその生き方に少なくとも数百年は準じる。投票するしないは自由だが、しなければ棄権とみなすからな」
「へいへい」
俺は触覚器官を震わせて渡された珪素化合物に賛成の文字を刻むと箱へ投げた。残り二人も同じ箱へと票を入れる。
「では、開票する」
「ってか、こんなすぐ開けるんだったら口頭でよくね?」
「馬鹿者、口頭だと誰がどちらに票を入れたかがわかってしまうだろう。……今回は票が少ないから効果は発揮せんかもしれんがな」
第一位が触覚器官で箱を撫でると、透過分析が出来なかった箱の側面が、分析可能な物質に変化した。
その結果に、俺は愕然とする。
「そんな……なんでだよ!?」
票は、賛成1:反対2で地球人殲滅は否決されていた。
「どういうことだよ!?なんで!お前まで!!」
俺は第二位に烈火のごとく掴み掛かろうとしたが、周りに控えていた兵隊達によってたかって拘束された。
「いけませんな。自分がどちらに投票したかを分かるような素振りを見せては」
「あくまでもこの結果が我々三人の総意だ」
俺の叫びに二人はやれやれといった顔だ。
「お前等……嵌めやがったな」
母星を自身の手で滅ぼし失った我々。自分達の存在に疑問を持ち出している者が居る事にも気付いていた。だが俺は新しく母星とできる惑星を見つけ、その星を完膚なきまでに侵略し制圧すればそんな杞憂など取り払えると思っていたのだ。
まさか新しく生存できる星まで、滅ぼすことを恐れる者がいるだなんて。
「くっそ――!!この臆病者共が!!我々は戦う種族だ!!滅ぼす種族だ!!他人と馴れ合うような生き方などできないっ!!」
「果たしてそうかのう?」
俺の言葉を遮って、第一位は触覚器官を持ち上げた。
「少なくとも、この円卓にいるものはそうは思っておらぬよ。なんならば、もう一度票数を増やして決を採るか?」
その言葉に並々ならぬ自身と、事前の下準備からくる余裕を感じて、俺の身体はわなわなと震えた。
こんな、こんなもの我々ではない。
謀略を尽くし力を振るわず権力を振るう、こんなやり方。
「どうやら、君は今回の決に対して大きな不満があるようだな」
「困りましたな、彼は一人で地球の半分を殲滅できましょう」
「それでは彼は降下させられない」
「では、彼一人を宇宙に置き去りに?」
「いやそれも不安だ」
勝手に物事が決まっていく。暴力ではなく言葉で、俺の処遇が決められていく。
俺は目の前が真っ暗になっていくのを感じた。理解不能なものに思考を塗り潰されていく恐怖。
触覚器官を振るい何時ものように周り一帯を分子にまで破砕することも出来たが、不思議とその一本さえも自分の意思で動かすことは出来なかった。
「……では、戦闘能力の低いハードウェアに思考を移行して……」
「いや、それでも彼の闘争本能ならあるいは……」
「ならば思考施錠を掛けておけば良い。もしものときの備えにもなろう。例えば……と……の同意が無ければ……」
「おお、それは妙案だ!」
「彼の地球での任務は……まあ書物からの情報収集ぐらいが打倒だな。彼は地球人の事をもっと知るべきだ」
「彼はまだ若い、この星にも訓練所のような所があるのならばそこに通わせて同じ程度の情緒性を持つ地球人達と触れ合うべきだろう」
そこから先は、もう覚えていない。




