第二章 カミカクシスパイラル 02
「わかっていることは、去年の二〇五四年、三月の卒業間際にハルカは居なくなったって事」
丁度俺が前のサイクルで卒業したのと同じ年だ。ハルカは同級生だったらしい。記憶を掘り起こすように眉間を押さえながら高岡教員は言葉を紡ぐ。
「私は、その子の担任だったの。それにハルカの部活動にも関わっていた……気がする。だから、私は周りの人達よりハルカの事を鮮明に覚えているのかもしれないわ」
「部活って?」
「兼部しているどちらかだとは思うんだけど……」
「そういえば兼部ってどこの顧問なんですか?」
「ああ?ソフト部と化学部だよ」
その言葉に、夏にも関わらず桜が目の前を舞い散ったような気がした。
「へえ、化学部ね」
「だがそっちは本当に名前を貸しているだけで、殆ど私はソフト部のほうに付きっ切り。申し訳ないけど」
高岡教員の指は記憶の底から何かを釣り上げようとするかのようにペットボトルの先をタップしている。
「じゃあ部活の事はまだ不確定情報として、ハルカってのが消えたときの事は?」
「それは……殆ど覚えていない。只、ハルカはその日学校に居て、そう……校舎の外だった筈。私はハルカに……ホットの缶コーヒーを買って渡していた。そう、多分私と約束があったの」
話す内容が詳細になるに連れて、段々と高岡教員の眉根に深い皺が刻まれていく。
「だけど……私が戻ると……缶だけがあって、まだ湯気が…………ハルカは絶対にちゃんと捨てる……」
そこまで言ったところで、高岡教員は頭を抱えた。
「私は……探し回った!警察は取り合ってくれなくて、翌日になって失踪だって騒がれだした!だけどだけどだけど!!また数日するうちに教師も生徒も水を打ったように静まっていった…………違う!忘れていったの!ハルカの事を!」
そこで、彼女は顔を手で覆った。俺と花折は呆気に取られて彼女の豹変ぶりを見ていることしか出来ない。
「ハルカは、卒業できなかった……気づけはハルカが在籍していたという記録さえも消えていた。僅かに記憶をまだ残していたハルカの同級生達は皆卒業して、新しい生徒がまた入学してきた……ハルカは、“神隠し”という曖昧な噂話としてだけ、この学校に残った」
彼女は顔を覆ったまま俺たちを見つめる。指の隙間から覗く彼女の濃い灰色の瞳が、正気と狂気の狭間でゆらゆらと揺れている。
「ねえ、私は何を探しているの?」
花折が、彼女の肩を掴んで起こし、正面から優しく微笑んだ。一切の否定や疑念を含まない、透明な笑顔で。
「高岡先生。きっとあなたの大切な人をです」
高岡教員の雰囲気が次第に和らいでいく。
「ごめんなさい。大分取り乱しちゃったわ」
平静を取り戻した高岡教員はジャージのポケットから携帯端末を取り出し時刻表示を確認して、「そろそろソフト部に戻らないと」と立ち上がった。シンプルを信条とする彼女にしては珍しく、革紐に透明な飾りのついたストラップが端末をしまったポケットから飛び出している。どこかで打ち付けたのか、その飾りは罅割れていた。
「まあ、こんな感じで私の頭の中にしか存在し得ない話だから、そんなに気負わずにやって頂戴」
俺は部室の扉を開けた。通り過ぎようとした高岡教員が、ふとその足を止めて俺に顔を寄せる。
「良かったわね」
「?」
「お前みたいなのは、ああいう子といるのが一番良いよ」
睫毛の一本一本さえも見える距離に、俺の脳内で警告の嵐が巻き起こる。背が高いせいで、普段こんな近くで女の顔を見る事など中々無い。去っていく高岡教員の背中を見つめ警告が静まるのを待ちながら、俺はやっぱり女は苦手だと溜息を付いた。
俺と女性との今の関係はまさに水と油だ。
必要以上に触れたり近づいたりすれば、脳内に不純異星間交遊違反の警告がけたたましく鳴り響き、視界に映る女子全ての顔に赤い【DANGER】アイコンが被さる。
俺は人間的な交友関係構築においては大よそ平均点以下らしく、その評定が上がらない限り所謂恋愛的な人間とのお付き合いは一切させてもらえない。迂闊な事をして正体をばらされたくないという我々側の気持ちは痛いほど分かるが、二十年間Cマイナスからピクリとも評定を動かしてくれないのはどういう事なのか。
「……っで、とりあえずどうする?」
花折は端末上にメモした事を表示させて、小さな背中を丸めて悩んでいる。
「うーん、どうしようかなあ……実在性の証明をした後での不在証明かー。名前しか分からないし厳しいよね。ハルカってのもよく聞く名前だし」
「実在性はさっきの高岡教員の発言でいいんじゃねえの?」
「先生を信じてる僕等からすればね。でもこの場合だとまず先生本人にその“ハルカ”が存在することを証明しなきゃいけなくて、そうすれば先生の話を信じた僕達も……駄目だ、こんがらがってきた」
大丈夫だ、俺の思考領域内でも循環計算ですでにハングオーバーしている。色素の薄い髪をわしゃわしゃと掻き回しながら花折は天井を見上げた。
「しかも……再来週から期末試験!」
自分の言葉に被弾してぐったりと脱力する花折。勉強する気の全くない俺はすっかりその事を忘れていて「はあ」と気の無い返事をしてしまう。
「来週は少なくとも勉強しないとなー……でもそれが終わったらもう夏休み入っちゃうし……」
憂鬱そうな花折の声。
「やっぱり学年上位ともなると大変だな」
「……そうだねー。ちょっと放課後が忙しくなるかな」
首を回して俺のほうにその白い顔だけを向ける。その表情に多少の陰鬱さを見て取って俺は心の中で小首を傾げた。テストの試験の勉強においては、最後に詰込型と普段から蓄積型がいるが、確実に花折は後者だろう。授業での様子を見ていれば分かる。
「とりあえず、噂になっている学校での“神隠し”の話は聞いておきたいな。多分脚色されて何種類かパターン分岐もありそうだけど。それくらいなら休み時間にでもできるし」
「じゃあ俺は図書委員の奴らに聞いてみるわ」
「ありがとう。僕は聞けるのがクラスメイト位しかいないから助かるよ」
曖昧に笑った花折に、俺も曖昧に笑い返すしかない。
「早く先生の愛しのハルカが見つかるといいんだけど……ってどうしたの未散っ!?」
その言葉に反射的に俺は椅子を倒して立ち上がっていた。盛大な音が小さな部室に響く。
「ああああの高岡教員に愛しの……!?」
化粧の一つもせず、ラフ極まる服装で、不良生徒にも物怖じせず檄を飛ばすあの武闘派教師が?
「そんなこと高岡教員は一言も……」
うろたえる俺に、怪しい含み笑いを向ける花折。
「にぶいなー未散は。さっきの話聞いてたらなんとなく察するでしょ」
「いや全く」
毅然とした態度で言い切る。花折は説明することも諦めたのか、それ以上続ける事無く立ち上がった。
「とりあえず今日はここまでだね。そろそろ帰ろう」
俺と花折は鞄を肩に引っ掛けると玄関へと向う。校舎には生徒の姿は殆ど無く、廊下もがらんとしていていつもより広く感じる程だ。
「そういえば、あのオーロラやっぱり噂になってるね」
花折は思い出したようにくすくすと笑っている。
「なんかさ、すごい難しい気象用語で呼ばれてて、吃驚しちゃった。不思議な事は不思議な事で良いのにね」
だって、起こした僕達にも分からないのに、と楽しそうに笑っている。
丁度玄関で上履きを履き替え終えると同時に、バケツの水を引っ繰り返したような雨が降り出す。
「うわぁぁぁぁ……夕立に丁度当たっちゃった……傘なんて持ってきてないよ」
光を水滴で包んだかのように明るく煙る空を見上げて、花折は途方にくれている。
「これ、使えば」
俺は置き傘を取り出して花折に差し出す。
「あっ、ありがとう!」
花折は傘を差して屋外に出た。銃弾のような雨が傘を撃ち、その華奢な骨が水圧に軋む。俺もその後に続く。
「僕も置き傘しとこうかなー」
「そうだな、楽だぞ」
ビーズを撒き散らしたような雨音が響く中、ほとんど怒鳴るように言葉を吐き出して花折は俺を振り返り、そして絶句した。
「みみみ未散!?なんで傘差してないの!?」
「え、だって俺の傘」
そう言って俺は花折の差す、白に大きな水色のドット模様の傘を指差した。そのポップな柄はやっぱり俺より花折のほうが似合っている。
「いやいやいや!未散!僕に傘差して自分は濡れてどうするの!?」
相当動揺しているのかおろおろと傘を振り回して未散は騒ぎ出す。
「いや、花折困ってたから」
自分の外殻は防水仕様なのでどれだけ濡れようが問題無い。防水仕様ではない教育用端末はもちろん教室の机の中に置き勉だ。シャツもズボンも下着までぐしゃぐしゃだが家に帰れば着替えもシャワーもある。俺は唯一気に食わない、水を含んで束となり、視界を覆い隠そうとする長い前髪を手で流した。
見下ろす花折の顔は、何とも言えない困った表情で、俺の方が困惑してしまう。
「なんか駄目だったか?」
「駄目じゃないよ。でもこういう事までしなくていいんだよ」
まるで子供に言い含めるように花折は言った。
「もう、あんまり意味無いかもしれないけど」
花折が傘を高く上げて俺をその下に入れる。持ち手を突き出されて思わず受け取ると、花折は笑って手を振った。
「じゃあ、また明日ね」
そう言って花折は、音を立てて水を跳ね散らしながら走り去っていった。ほんの数歩で肩のラインが分かるほどに濡れていく薄い背中を見送りながら、俺は一度首を傾げた後、もはや何の意味も為さない傘を広げたまま帰路に就く。
そして次の日の朝。携帯に届いた『なかなか酷い風邪引きました』メールを見て、俺は人間とは本当に良く分からない選択をする、とまた首を傾げたのだった。
「加賀君……それ君が間違ってるよ」
珠洲さんは返却図書を分別する手は止めずに、半眼で俺を見つめる。
「そうですか?」
溜息をつく珠洲さん。
「だって考えてみてよ、同じ状況で私が君に傘貸してさ、濡れ鼠になりながら付いて来られたら嫌でしょ?」
「俺は珠洲さんから傘借りたりしないですよ。ってかまず俺風邪引かないし」
「あ~~~~……その何処から来てるのか分からない確信は置いといて……征木君も大変ねー。加賀君がここまでだとは思わなかったわ」
「はあ」
俺は返却遅延の発生している図書の一覧を作成しながら生返事する。
「加賀君ってほんとに友達付き合いっていうか、人付き合いに疎かったんだねー」
「……そうかもしれません」
一覧を元に、貸し出しカードに登録された連絡先アドレスへと催促メールを飛ばす。最後は今回の催促で既にブラックリスト条件に該当してしまった使用者の、貸し出しカードの登録解除だ。
「そういえば話は変わるんですけど、珠洲さんはこの学校で神隠しに遭った“ハルカ”って知ってますか?」
俺がその話題を振った瞬間、珠洲さんの瞳が見開かれて、薄紅色の虹彩が殆ど透明に近い色にまで失われた。
「加賀君っ!」
珠洲さんがそのままの顔でにじり寄ってくる。
「どこで……それを聞いたの?」
「えっと…………ちょっとその手の話が好きな奴から」
その迫力につい高岡教員の事を言いそうになったが、なんとか咽元に留める。
「ちゃんと、聞いた相手が居るのね?」
珠洲さん、距離が近い。俺の視界に【WARNING】の赤い文字。わかってる、わかってるからと、俺は自分の外殻に言い聞かせる。必死に頷くと珠洲さんはやっと離れて隣の席に座った。
「あんまりその話、人にしちゃ駄目だよ」
「すいません」
俺が謝ると、珠洲さんはやっと「言い過ぎたね」と苦笑して緊張感を緩めた。
「去年の卒業式に三年生が消えたって怪談でしょ?私その時一年生だったから、ちょっと話題になったんだよね」
怪談という言葉が引っ掛かった。もはや現実では無い、彼岸の出来事だというカテゴライズ。の割には、直近の出来事過ぎやしないだろうか。
「結構有名な話なんですか?」
「ううん、全然。下の子達には殆ど伝わってないもん。っていうか伝えてない」
「なぜ?」
「――伝えたくないから」
珠洲さんは、珊瑚色の唇を微かに開いて、まるで四方に聞き耳でも立てられているかのような小さな声で囁いた。
「神隠しを大々的に広めたり、周りを巻き込むような調べ方をするとね、自分も神隠しにあっちゃうんだって」
俺は無言でその言葉を咀嚼した。
「実際にあったんですか?」
「それが分からないから怖いんじゃない。だって神隠しにあったら、周りの人たちがその人のことを忘れちゃうんだよ」
そう言って彼女は肩をぎゅっと抱く。
「でも、普通消えても家族だって居るし、学校は生徒情報をデジタルデータで管理してる。そんな簡単に人一人消せる訳がない。でも、神隠しにあったときに在校してた生徒は頑なにそれを人に話さない」
「それは……不思議ですね」
普通なら、面白半分に騒ぎ立てたり調べる人間が居るはずだ。
「…………ああなるほど」
俺はそこで気付いた。
「騒いだ人間や、調べた人間が一切居ない事が逆に不自然なんですね」
「そう。それが神隠しは伝染するっていう噂の信憑性なのよ」
噂が立たないことが噂になって、何時しかタブーと化す。広まることを阻害する要因を持つ、矛盾した噂。
「だから、その頃学校に居なかった筈の、二年生の加賀君がそんな言葉を出したことに吃驚しちゃって」
俺はリストの登録解除を終わらせると「貴重な情報ありがとうございました」と立ち上がった。
「いいよいいよ、もう加賀君知ってたし、まあ知ってる人に言う分にはセーフよね。それにしても本当に加賀君は仕事速いねー」
作成されたデータを確かめて珠洲さんは厄介な仕事が片付いたと喜んでいる。
「今日は貸し出し終了まで入れなくてすいません」
椅子の脇にあった鞄を取り出して中身を確かめる。
「大丈夫だよ、明洛西の図書委員は層が厚いから!加賀君ぐらいできる子は少ないけど」
「ありがとうございます」
俺は笑ったつもりだったが、珠洲さんはそう見えなかったらしい。親のように心配げな目で俺を見た。
「もう……お見舞いくらいで緊張しすぎでしょ」
初めて地球人の家に行く。そのタスクは想像以上に俺に緊張をもたらしているらしい。上手く感情を顔に伝達することが出来ていない。俺は固まる表情パーツを手で解しながら、端末に表示される征木家へと向っていた。
本来なら行くつもりは無かった。だが、終業のホームルーム後に高岡教員に呼び立てられ、今ではあまり見かけなくなった小型記憶媒体を渡された時にやっと、自分が花折を“お見舞い”しなければいけないと知ったのだ。
入っているのは夏前の試験のテスト範囲、校内に居なければ端末にコピーされないデータを、直接持っていってくれという依頼だった。
「俺が、地球人の家に行くことになるなんてな……」
ヒグラシの鳴き声に鼓膜を揺らされながらぽつりと呟く。
それがどんな場所なのかは知っている。地球人の家族が皆で暮らす場所だ。単独で棲みかを持っていた自分たちとは違う“家”というものを、最初は群れなければ生きていけないのかと鼻で笑ったものだった。だが下校途中に空いた窓の隙間から漂ってくる魚を焼く匂いだとか、灯台のように暖かな光を放つ玄関の明かりだとかを何度も何度も見ているうちに、戦いに明け暮れて生死の境目の曖昧な生活をしていた我々と違って、地球人は誰かの待つ家が在っても大丈夫なのだろうなと感じるようになっていた。
「えっと、ここか……」
白い塀に囲まれた、周りの家々と変わらない没個性的な家屋。田舎な事もあり結構な広さで、花の多く咲いている庭には、さらに洗濯物を干すスペースまで用意されている。
頭の中で、地球人の家に入るときのマニュアルを高速再生しながら、俺はとりあえず“①玄関のチャイムを押す”を実行した。
『はい』
女性の声。俺の緊張が極限まで高まる。ええっとなんて言えば良かったのか。俺は限界まで稼動を高める心臓を押さえながら“②自分の名前と用件を告げる”を実行した。
「加賀と申します。花折君のクラスメイトで、学校から配布されるデータを持ってきました」
よし、②の備考に記載されていた、“会いたい相手の名前を折り込むとさらに不審さが薄れ良い”もクリアした。
『あら、今開けますわ』
俺はどきどきしながら玄関の戸が開くのを待つ。
「わざわざごめんなさいね」
扉が開き、一人の女性が姿を見せた。
「どうぞ、入っていらっしゃい」
とても高校生の息子がいるとは思えない、若々しい母親だった。白い陶磁のような肌と、色素の薄い髪が花折の受け継いだ遺伝情報を強く感じさせる。肩の辺りで切り揃えられた髪がふわりと揺れ、光に透けてベールのように彼女の輪郭をおぼろげに暈す。
「おじゃまします」
俺は門扉を押して中へと踏み入った。
「どうぞ、大したものじゃ無いんだけど」
テーブルの上に乗せられたマーマレードタルトとコーヒー。それを前に俺は記憶領域内で“地球人の家に入ってからの振舞い方マニュアル”を高速で展開しながらつっかえつっかえ「ありがとうございます」と手を伸ばした。出されたものは食べたほうがいい、特に学生はという特記事項を参照しながら。
「高校になってから花折の友達が来てくれるのが初めてなの。とっても嬉しいわ……花折が風邪でっていうのが加賀君には申し訳ないんだけど」
花折の母親は柔和な笑みを浮かべながらテーブルの対面に座って俺を眺めている。小首を傾げると同時に、これまた花折とよく似た、白く細い首に掛かった銀のチェーンが氷を擦り合わせたような音を立てた。肌をすべる一筋の水のように華奢な長い鎖がサマーセーターの胸元へと伸びており、ついつい視線を辿らせてしまったことを恥じて俺は視線を慌てて逸らす。
「あの、花折の調子は?」
「一日寝ていたからもう殆ど治っているの。昼過ぎにまた寝ていたから、きっとそろそろ起き出す頃よ」
彼女は壁の掛け時計をちらりと見た。六時前、あまり長居するのも気が引けてくる。
「もし寝てるんなら、学校用の端末さえもらえればデータを入れときます」
「そうね、でももうちょっと加賀君とお話がしたいわ。花折は学校でどう?ちゃんと勉強してる?」
学年五位の成績を誇る息子について、まず勉学への励み具合を聞いて来るとは。俺は内心で多少呆れつつも「花折は真面目ですよ」と返事してコーヒーを一口飲む。
「本当に?あの子最近帰りも遅いし、放課後の塾も殆ど行ってないのよ?」
そこで母親の眉間に僅かに皺がよった。可愛らしい、と年上に表するのは少し不自然な形容詞が似合うお顔のせいで駄々をこねる少女のようだ。
「そうなんですか」
初耳だ、あいつ塾に行っていたのか。母親がさらに続けた塾の名前を聞いてさらに驚く。駅前にある唯一この地域で進学塾と呼べる所だった。
「もう少しで学校の試験もあるのに何してるのかしら……」
段々息子への愚痴へと変わっていく彼女の言葉に、俺はどう答えればいいのか分からないで沈黙を貫く。
「あのね加賀君」
ぽつりと、唐突に花折の母親の声が、温度を失った。
「できれば……これ以上、あの子に関わらないでもらえないかしら?」
花折母の表情は冷たく硬質で、まるで人形のようだった。一瞬だけ背筋に電流が走ったような感覚。酷く懐かしい心の感触に混乱する。
「は……はぁ」
落ち着こうと、俺は目の前に鎮座していたマーマレードタルトを口に含んだ。甘い甘い、そして苦い。
「これから本格的な受験勉強も始めないといけないの。推薦を取ろうと思ったら学校の成績も高い水準を維持しておかないと……加賀君の名前が出るようになってからなのよ、あの子が塾をさぼりだしたのは」
段々と棘を持ち出す言葉に俺は瞠目した。初の地球人お宅訪問が、こんな酷い結果を迎えるなどとは。
「花折は真面目で素直な良い子なの。変な事なんてせずに、高校の間は勉強して良い大学に入れるように努力させたいの」
「そうですか」
何も知らずに呟かれる、それはなんて。
なんて、酷い母性だ。
「だけど、あいつは苦しんでますよ」
「え……?」
彼女のティーカップを持つ手が、僅かに震えた。
「どういうこと?もしかしてあの子いじめられてでもいるの!?」
顔を蒼白にして詰め寄ってくる。親が子を守るのは遺伝子保存の為とは理解できるが、少し過保護すぎやしないか。
「違う。そういうんじゃないんです」
俺は言葉を選ぼうと逡巡し、結局花折の言葉をそのまま伝えた。
「生きていることが、日々を過ごすことがつまらなくて、苦しいって、花折は言っているんです」
机に涙を落としながら、声にならない声で叫んでいたんです。
だが、俺の言葉は見事に失速し墜落した。要は、失敗した。
言葉を発した瞬間に俺は確信し絶望した。その位、彼女の表情の変化は顕著だった。
「まあそんな事。来年になれば大学受験で考える暇も無くなるでしょ」
その素っ気無い反応に、何故か俺の精神は無駄に反発した。
「でも、そういうものが、本当の凶器になりうると思いませんか?」
「なぜ?思春期の子がよく持つ感傷でしょう?あぁ貴方も同じ年頃だから分からないかしら?凶器っていうのはボタン一つで、意思一つで相手を爆破したり、壊したり、停止させたりするものでしょう?そうでしょう?」
彼女は本当に不思議そうに、少女のように可憐な表情で瞳を瞬かせる。長い睫毛に縁取られたその瞳は本当に花折にそっくりだ。俺はまるで花折本人に話しかけているような錯覚を覚える。
「でも少なくとも、この国の人間はそんなものでは死んだりしません。もっと静かで、仄暗くて、空虚なものに殺されてると思いませんか?」
あの日、澄み渡った夏の青空を背景に泣いていた花折は、本当に。
本当に。
本当に。
青空に溶けるように、そのまま死んでしまいそうだったのだ。
「この星の人間は、生きてないと、死んでしまう。そう俺は思います」
会話は平行線で、俺も花折の母親もやがて黙り込む。するとまるでその沈黙を見計らったかのように、リビングと廊下を隔てる扉が引き開けられた。
「母さん。水が欲しいんだけど――って未散!?」
「お邪魔してます」
目を丸くする花折に俺は微かに笑いかける。
「もう少し寝てなさい」
彼女は水の入ったコップを花折に持たせるとその背を押して自室へと促した。
「でも、せっかく未散が来てるのに……」
「いや元々長居するつもりなんてなかったからよ。データだけ渡したいから後でちょっとだけ部屋に上がらしてもらうわ」
尚も未散は未練がましくこちらを見てきたが、俺が手を振ると諦めたように部屋を出て行った。階段を上る音を確かめた後に、再び彼女は口を開く。
「あの子に試験範囲のデータを渡したら、帰って貰えるかしら?」
あんまりな言葉に聊か驚く。我が子のお勉強に関しては妥協できなかったところも含めて。
そんな俺に向って目を眇め、彼女はまだ中身の入ったカップと皿を流しへと引いた。
「それに……加賀君のその目……申し訳ないけど嫌悪感で吐き気さえ感じるわ」
カチャカチャと陶器が触れ合う音が冷たく響く。彼女の背中が振り向くことは無かった。それ以上会話は続きそうにないと、俺は諦めて二階へと上がる。
「入るぞ」
マナーだからと一応軽めにノックをした後、俺はそっと扉を開けた。
「ごめんね、急に休んじゃって」
ベッドの上で半身を起こし、端末を操作していた花折は俯いていた顔を上げた。
「データ。入れるからそれ貸せ」
端末を取り上げると其処には細かな文字がびっしりと並んでおり、速読で鍛えた俺の目がその文字を反射でスキャンする。民間伝承、天狗、神隠し、拾い上げた単語に俺は嘆息した。
「……花折、風邪引いてるときくらいはちゃんと寝てろよ」
「アハハ……つい気になっちゃって」
「……勉強はいいのかよ?」
微妙に咎めるようなニュアンスが伝わったのか、花折が僅かに目を細めた。
「大丈夫だよ、授業受けてるんだから。母さんが、何か言った?」
「…………別に」
「もう、これだから母さんは」
花折は疲れたように背中を丸めた。下手な嘘しかつけなかった俺は黙っているしかない。それに少なからず花折の母親の言葉に自分自身ショックを受けてもいた。俺は無言でデータを移行させる。
「入れ終わったから、確認しとけ」
俺は手にぶら下げていた端末を花折に渡す。花折はそれを受け取りぎゅっと胸に抱き締めた。
「ありがとう、風邪も治ってるし、明日は学校行くから、そうしたら――」
「しばらく、クラブ活動は止める」
俺の言葉に、花折は葡萄色の瞳を丸くした。
「なんで……?」
「もうそろそろテストだろ。俺だって勉強したい」
「なんでそんな嘘つくの!?」
今まで聞いた中で一番大きな花折の声に、俺の口が一瞬止まる。その隙間を突くように花折が捲くし立てた。ぎらぎらと光る瞳は美しく、そして意外にも、獰猛さすら感じさせた。
「未散勉強なんてしてないでしょ!?いっつも図書室で本ばっかり読んで、テストは答えをなぞるみたい受けてるだけじゃないか!」
驚いた、それが全て当たっているから。
「……未散、誰も自分の事なんて見てないって思ってた?」
目元が赤く染まるのはきっと、泣く合図。俺は瞼を閉じてそれをシャットアウトした。ついでに自分の動揺を推し測られないために。
「どうせ母さんに変な事言われたんだよね?母さんは僕が誰かと仲良くするのが嫌いだから」
「違う」
俯いた花折の頭に、俺は静かに掌を乗せた。
「お前が、愛されているからだ」
そして、きっと俺が危険だからだ。
それは、本心だった。




