人魚の潜む杜
鎮守の杜も、歳を重ねた樹々に囲まれていたが、古くなったり、虚が大きくなった木は倒されてしまい切り株があちこちにあった。
それでもこの辺りでは、ここの木々は、歳経て古く大きい。
騒めく枝葉が、何もかも包んでいて、その下に入ると、幾分冷んやりとするぐらいだった。
その涼しくなった杜の中を風が吹き抜けていく。
人混みに巻き込まれながらも、久々のお祭りは、楽しみだった。
暗闇祭りと神輿の数でこの神社は有名なのだ。
参道を避けるように、傍らに連なる出店も懐かしい。
ここの出店の数はかなり多い。
甲州街道の埃っぽさも、車の喧騒も境内には、無縁の様だった。
赤や黄色の出店のテント。
フワフワと大きな絵でいっぱいのキラキラ光る風船や、串に刺さった照り焼きの肉の匂いが、眼や鼻を刺激する。
ついつい、七味売りの口上につられて人が集まるのを見るのも、心地良い。
昔見た、カラフルなヒヨコ売りやミドリガメの姿はなくなっていた。
代わりに、プラスチックに入ったカブト虫やクワガタの幼虫や見知らぬキャラクター物に、人だかりが出来ていた。
人の波に乗りながら、ユラユラと暮れ行く境内を進むと、板塀が連なる場所が、出店の脇から見えた。
その奥にも、木が生い茂り、その先が見えない。
滲んだような明かりが、ポツポツ見えるので、日差しが所々にさしている様だ。
突然、雑踏の音が消えた。
ああ、そうだ。
あの杜の中には、人魚がいる。
あれはまだ、小学校に上がる前だった。
父と2人、この神社に来たのだった。
ペラペラしたオモチャの刀を買ってもらったのを覚えている。
オモチャながらも、鞘が付いていたので、出したりしまったりしながら、嬉しかった。
人混みだと、危ないからと、出店から外れ、2人で裏に回ったのだ。
思う存分、刀を振り回してみたかったので、少し薄暗くなっていたが、怖くはなかった。
お祭りだったので、そんなわがままに付き合ってくれていたのだろう。
父親が見守ってくれていたので、心強かった。
ヤーとかトーとか、奇声を発して、刀を散々振り回したのは、何処か遠慮がちなせいだった。
散々振り回してから、刀を鞘に納めた時、後ろで何かの軋む音がした。
掛け金の外れている木戸が、開いていたのだ。
一陣の風のいたずらに、わずかに開いた戸口が、鳴ったのだ。
父親と2人、立ちすくんでいたのを覚えている。
「待ってろ、チョッと見て来る。」
そう言うと、父は木戸を押して、黒い木々の中に入って行ったのだ。
待っても待っても、父親は帰って来なかった。
子供だったので、ほんの5分か10分が、長かったのだろう。
開け放たれた木戸が、風で鳴る。
待ってるのも怖い。
いつの間にか、辺りには、黄昏の長い影が、灰色の衣を引きずり、闇を濃くしている。
明かりがポツポツつき始めた屋台の方は、人も多く明るいが、ここは切り取られた様に、暗くなって行ったのを覚えている。
小さな声で、『パパ』と、呼んでみた。
勇気を奮い起こして、2、3回、呼んでみた。
返事は、返ってこなかった。
心細さで、怖くて、独りで待つ事が出来なかった。
刀で、木戸を押すと、嫌な音を立てた。
木戸の中に身を滑らすと、バタンと戸が閉まる。
総毛立ち、鳥肌も立てながら、ソロソロと杜の中を進んだ。
父に買ってもらった、オモチャの刀が頼りだった。
長方形に切り取られた石が、敷いてあり、道がその石の白さで浮き上がり、続いている。
鞘をズボンに挟み、刀を両手で握りながら、歩いて杜の中を進んだのだが、怖さでいっぱいだった。
鴉の羽音で、すくみあがり、しばらくその場に立ち尽くしたのを覚えている。
カーカーと鳴かれたので、鴉だとわかり、ホッとしたのだった。
大きく曲がった石畳の道の先に、人影が現れた。
(パパだ)
もう、声が出せない。
闇雲に、その人影の元に急いだ。
残り日の僅かな光が、そこに集まっていた。
それしか、見えなかった。
後ろを向いてる人影は、近づいても、振り返らない。
灰色の木洩れ日の中に、人魚が寝ていた。
白い腕が伸び、長い髪が広がり、身体の上を覆っている。
人魚なのだから、服は着ておらず、テラテラと光る背中にも、長い茶色の髪が絡まっていた。
そして足は無い。
腰から下は、青黒い鱗につつまれ、変にキラキラしていたのを覚えている。
あの時、全ての光が、そこに降り注いでいた。
暮れ行く明かりの中で、白い肌は何故か濡れて見え、長い髪も水から上がったばかりの様で、あちこちに鱗が、飛び散っているかの様で、煌めきは、魚の尻尾まで続いていたのだった。
その先にあるはずのヒラヒラしてるだろう、尾の鰭は、土に埋まって、見えなかった。
大きなスコップが、キラリと光った。
人ではないのだから、立つ事も歩く事も出来はしない。
「さかな、、、。」
思わず出た声に、振り向いたのは、誰だったのだろう。
暗くなっていて、振り向いた人の顔は影に覆われて、見えなかった。
その人影が、足を一歩出したのは、わかった。
「、パパ、なの、、、、。」
返答が無い。
ザワッと風が2人の間を駆けた。
クルリと踵を返すと、あの木戸に向かって、走った。
逃げずにいられなかったのだ。
多分、泣いていたのだと思う。
気づくと、迷子センターの白いテントの中にで、パイプ椅子に座らされていた。
握りしめていたはずの刀も、腰につけていたはずの鞘も、無くなっていて、それが悲しかった。
親の事を聞かれたが、頭を振るばかり。
魚が杜にいたのだ。
魚は立って歩けない。
白い肩から、腕が伸びていた。
だからあれは、人魚だ。
幾ら待っても、お父さんは来なかった。
優しそうなお姉さんに、名前を言った。
住んでる場所も聞かれた。
上手く言えない。
でも、隣に畳屋さんがあったのを思い出した。
それから、1時間、お母さんが、来た。
お父さんは、居ない。
居ないまま、今日になっていた。
今になったのだ。
木戸は、直ぐに見つかった。
忘れていたのだろか。
人魚がいた事。
父が消えた事。
どれだけ、そこに佇んでいたのだろう。
すっかり辺りは暗くなってしまった。
明日は神輿が出る。
何十基もの神輿が、担がれ、街を練り歩くのだ。
警察も交通整理だけでも、大変だろう。
誰もこの板塀の中を気にする者など居ないはず。
明日だ。
そう思い、引き詰められた砂利を踏みながら、出店と人でにぎわう、明かりの下に、向かった。
何故、忘れていたのだろう。
いや、それより、何故、今、思い出したのか。
そもそも、父親と母親はその頃、離婚していたのだ。
2人目の父は、優しかった。
今日まで、もう1人の父を忘れてしまう程に。
境内に入ると、人の波が、前に前にと進んで行く。
祭りはまだまだ続くのだ。
翌日。
ホームセンターに向かった。
一睡もしていないが。
変に冴えている。
野菜用の支柱を買った。
胡瓜の絵が、袋に書いてある。
大きめの園芸用シャベルも。
これなら、スコップよりも目立たないだろう。
支柱を持って歩くだけでも、かなりだが。
何気なく側の、花の種も。
見知らぬ花が、袋いっぱいに咲いてる絵が描かれていた。
それらを持ち、神社に向かった。
駅に着いた頃には、もう人混みが出来ていた。
石の鳥居が見える。
昼間の明るい境内は、肩透かしを喰らうほどに、平和で明るい。
だが、人の群れから外れてると、雑踏が遠ざかる。
まるで、蝉の声を聞いているようだ。
サワサワと静かな風が吹いていた。
木戸は直ぐに見つかった。
大人の背より幾分高い、塀の中に埋まるように、その木戸は、壊れた掛け金をぶら下げていた。
押すと、雨風に晒された金属の、軋む音がした。
足元には、白い長方形の石が、道を作っている。
これに沿って、歩いたはずだ。
塀の中は少し湿った匂いがしている。
石畳の脇には、苔むした石や湿った土が、ここが暗い杜だと、教えていた。
自分の足音を聴きながら、ゆっくりと歩いた。
子供の頃とは違い、この奥で杜は途切れ、マンションやビルや高速道路がある事を知っている。
それでも、杜は深く暗い。
足元の白い敷石が、ボウッと照らし出している。
昼間の日差しもここまでは届かないのだ。
見上げると、混んだ枝と葉陰から、暑い日差しが玉の様に、キラキラと空の青を輝かせている。
まるで、海の底だ。
暫く歩くと、曲がり角に出た。
意外と歩いて来ていたらしい。
曲がり角には、大きな切り株があったが、昔の記憶には無い。
あの日、もう、かなり暗かったのを覚えている。
それでは、目印は。
人魚が何年もいるはずもない。
切り株に座ると、眩しい。
空いた枝の間から、強い日差しが差し込んでいるのだ。
あの人魚の上にも、明かりが降り注いでいた。
それで、キラキラ光る背中や青い魚の尾が、わかったのだ。
薄暗い杜の中で、あそこだけ、プリズムの乱反射が、不思議な虹を作っていたのだ。
木が、その上の空を覆う枝が、無かったのだろう。
切り株から、立つと先を急いだ。
暫く歩くと、古い切り株が見えた。
多分あそこだ。
あの人影のいた場所ぐらいまで、急いで歩いた。
子供だったから、距離感が曖昧だったが、多分この辺だろうと、目測して、ホームセンターのカバーを脱がせて、買って来ていた、あの支柱を土に刺した。
硬い。
刺しながら前に進む。
掘り返した場所があれば、硬さが違うはずだ。
ゆっくりと、支柱を、刺しながら進む。
自分の周りに半円を描く様に、刺しては場所を変え、そして一歩、足を出す。
スッと、支柱が土に吸い込まれた。
3分の1程が、埋まる。
そこから、あちこち刺して、大体の大きさを測ってから、その端から、シャベルを刺し入れた。
頭が、横たわっていた辺りだ。
まるで昨日、掘り返したかの様に、サクサクと掘れる。
深さよりも広さをまず掘ってみた。
灰色の物が、土から出て来た。
それは、オモチャの刀だった。
そのオモチャの刀の下から、青いビニールシートの切れ端が出て来た。
それも、ほんの20センチ四方程のが。
その先に、絡まった髪があった。
息を飲んでしばらく、見つめていて、気付いた。
それは、腐りかけのカツラだった。
それっきり、深く掘っても、広げて掘っても、石やゴミが出るばかりだった。
丁寧に、穴を埋め戻した。
随分と熱心に穴掘りをしたのだろう。
身体が痛い。
埋めてしまうと、穴を開けた事など、あったのだろうか、と、思える。
泥のついた手を払い、花の種を蒔く。
芽が出るか出ないかは、時の運だ。
青いビニールシートの切れ端と、オモチャの刀は、ビニール袋に入れた。
カツラは、触る気にならなかった。
支柱は、その場に刺しておいた。
帰ろう。
振り返らず、ここから出よう。
木戸を押して、塀の外に出ると、神輿を担ぐ、賑やかな音が、聴こえて来る。
あの日、人魚はあそこに、横たわっていたのだ。
この鎮守の杜に。
確かに、潜んでいたのだ。
土から掘り起こし、取り返した、オモチャの刀は、ちゃんと鞘に収まっていたのだから。
今は、ここまで。