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青い傘

「こんにちは。今日は雨が降るそうですよ。」

右手に傘を二本持った男が声をかけてきた。エレベーターの前に立たれては下へ降りれない。わたしは両手をそれぞれジーンズのポケットにひっかけている。ようするに傘などもっていない。

「こんにちは。そうなんですか、あまりニュースなどはみないので」

確かに曇った朝だ。すこしほこりっぽいにおいもする。だが今日のわたしに傘は要らない。日曜の今日は朝の八時から夜中九時まで田中家で働かなくてはならないからだ。田中家はわたしが住むこのマンションの一階にあるので、もし雨がいままさに降っていたとしてもわたしは傘をささずに出勤できる。

「ならこの傘をお使いなさい。僕は二本も持っている。」

長身の男はにこにこして青い傘を一本わたしにさしだした。断らなければ。面倒はきらいだ。この男に対してこのときまで敵対心はなかったが、男の左手に光るものを見てすぐにわたしは愛想をふくんだ笑みをつくった。

「本当に?ありがとうございます」

声を高くして傘を受け取ったわたしの態度に満足したのか、男は笑顔のまま頷いてわたしの横を通った。背後を歩いていく気配がしたが、どこへ行くかも確認せずにエレベーター横の非常用階段を一気に駆け下りた。頭の中は男の左手にあった、黒い長包丁でいっぱいだった。


 田中家はこのマンションの一階から五階にかけた全二十五室を管理している大家さんだ。一階の五部屋は田中家が使用していて、それを除いた二十部屋には全てひとが住んでいるらしい。駅まで徒歩五分だが周りにも高さのある建物があるためか電車の騒音は少なく、コンビニは近くに二つある。家賃は市内にしてかなり特価の月三万八千円。広さは異なってもどうやら家賃は全室おなじのようだ。広さによって家賃をそれぞれ決めるのが面倒だったのだろう。田中家の主人、隆文さんはそういう人間だ。

 隆文さんの部屋は一階の一○一号室。非常用階段の最後の扉を開いて一番近いドアに赤い鍵を挿し込む。鍵を挿したままノブを廻さずに押してくるりと中に入った。お気に入りの健康サンダルを投げ捨ててタバコのにおいを吸いながら薄暗い部屋に飛び込んだ。部屋は広いワンルームで廊下が無い。大きな窓のカーテンを閉じたままの部屋でいつもの挨拶もなしに叫んだ。

「変質者が!」

「ひどいな、今日はパンツをはいているのに」

 起きていたのか。部屋の端のダブルベッドにひとりでうつぶせになって隆文さんがかすれた声をだした。

「ちがう、隆文さんじゃなくて、男のひとがあたしの五階の部屋の前に立ってて」

「昔の男か」

「ちがうってば。包丁持ってて」

「えっ」

 やっとこっちを向く。

「刺されたの?」

「いや、傘貸してくれた」

「怪我はないの?」 

「うん。でもびっくりしたよ……」

「その傘?いい傘じゃない」

「え……わっ」

 持っていた傘を落とした。

「特注物じゃない?」

 びくびくしながらそれを観察してみる。なるほど、言われて見ればわたしが持っているような一本五百円のものとは違っている。しっかりした太さの柄に光沢のある生地。

 しかし、不審者より傘に興味を示すのは、大家としてどうなのだろう。

 田中隆文、五十八歳。とても年相応とはいえないしっかりした筋肉をしている。パンツ一枚で年頃の女の子の前を寝起き顔であるく様は、紳士ではないが色っぽい。脱ぎ散らかされた衣類およそ一週間分をひとつひとつ拾って歩く。下着と靴下だけでも洗濯籠に入れて欲しいとたのんであるのだが、このおじさんがきくはずがない。わたしは毎週日曜朝八時に一○一号室にきて、洗濯物を片付ける。仕事着であるスーツ類は紙袋に入れて後からクリーニングに出す。他は洗濯機へつっこんで洗う。脱水が終るまでに二人分の朝食をつくる。冷蔵庫にはいつもそこそこに食べ物が入っているので困ることなく料理ができる。味噌がきれた、なんてことはまれだ。今日はネギと豆腐とじゃがいもとワカメの味噌汁、鯵の干物、簡単炊き込みご飯とだしまき卵をつくった。洗濯機がなっているが後回しにして、ジーンズにポロシャツを着た清潔な隆文さんが食卓に着くのを待ってから箸を取った。もう何度目かわからない見慣れた朝。

「モモちゃんほど味噌汁つくるのがうまい女とは、俺は寝たことはない」

「うん、寝た覚えはない」

「最近、玲於奈見ないけど、あいついるの?」

「いるよ。論文の締切り前とかで日曜しか帰ってこないけど」

 父親なら知っとけよ、とは言わない。

「陽子が面倒みてるならいいが」

 奥さんなら先々週から日本にいませんよ、とは言わない。

「そういえば陽子さんに頼まれたんだけど、大介くんの部屋に置くヒーター選んでくれって。予算とかある?領収書もらってくるけど」

「いや、適当なものを選んでやってくれる?モモちゃんに任せるよ。大介のことは僕よりだいぶ詳しいだろう」 

 セックスの後寒い、といってヒーターを親にせがませたのはわたしだ、なんて言えない。

「ごちそうさま」

 きれいに食べ終わると隆文さんはソファにどっかり座って経済新聞を端から端まで読み始める。ちょうど読み終わるころには、わたしは洗濯物を干し終えて掃除機をかけゴミをまとめ、冷蔵庫の足りないものをメモにとりスーツの入った紙袋をそろえているところだった。時計の針はぴったり、正午をさしている。

「なにか他にすること、ある?」

「完璧だ。今週も素晴らしい日曜日を迎えたよ」

「じゃあなにか欲しいものあったらメールしてね。来週持ってくるから」

「ありがとう。じゃあまた日曜に」

 ドアを閉める。オートロックのいいところはドアの内側の人間が鍵をかける音がしないところだ。小雨が降っている。わたしの右手には洗濯物の入った紙袋が、左手には怪しい傘がある。だが今日のわたしは傘は要らない。次の仕事場は一○ニ号室、隆文さんの息子である田中大介の部屋だからだ。

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