第7話 鍵
それはこちらに覆い被さってくるようだった。
太陽は天頂を過ぎ、顔を上げても眩しくはなかったが、高い壁は眩暈を覚えそうだった。開け放たれた門扉からは、人が、馬車が流れていく。
「人……凄いね……」
大道具を積んだ荷馬車を見送り、サラは呟きながらラキアと同じように煉瓦造りの壁を仰ぐ。その先に街並みは望めない。天を切り裂くそれは、権力の誇示に一役買っていた。
王がこの先にいる。そして貴族もここに集結している。
「サラ……君の居場所がここで見つかったらどうする?」
「えっ!?」
石畳に揺られ、がらがらと音を立てた車輪がラキアの横を通過する。
「僕はサラが貴族じゃないかって思ったんだ」
最初から彼は思っていた。一目見て人々が誤解するほど気品もあり、身に纏っていた黒のドレス、美麗な顔立ち、王族と言われてもラキアは驚かない自信があった。
揺れて見つめるサラの瞳はとても澄んでいた。
「私は……」
宝石に似た、落ちてしまうのではと思ってしまう黒檀は瞼の中に消える。伏せた睫毛は長く、震えていた。
「ラキアと」
一緒にいたい。
吐き出すはずだった言葉は音となる前に飛散する。唇だけが彼女の気持ちを弁解したが、それだけでは到底伝わらない。
サラは半歩先にいるラキアの裾を掴んだ。
この指先を伝って、想いよ届いて、と。声に出す勇気のない私でごめんなさい。
いつか離れてしまうことを二人は知っている。だからこそ言えない。
傍にいて、と。隣で笑っていて、と。
『ずっと一緒にいたい』
気持ちは同じでも交わらない現実なら、記憶が戻る日がこないでと願ってしまう。
「ごめんね……」
こぼれた言葉と共に、ラキアは裾から繋がったサラの手をとる。指先を掴んだだけだが、そこから伝わる体温はとても温かかった。
離れないで、と指先に力を込める。包まれた美しい指先が硬直した後、静かに身を委ねる感覚は、ラキアにとって気のせいだとは思いたくなかった。足元に落としていた目線を上げると、もう目と鼻の先に門扉は立ち塞がっていた。
「じゃあ、行こうか」
何気なさを装って振り返りながら繋がった手を離す、はずだった。しかし指先を緩めた瞬間、今度はサラの細い指がラキアの指に絡んだ。
「人……いっぱい居そうだからいいかな」
向けられた笑顔にラキアは眉をハの字にして頷く。苦しみを呑み込み言うその姿は痛々しく、ラキアにとってあまりさせたくないものだった。
(ありがとう、ごめんね)
握った手の温もりを伝って、ラキアは一人呟いた。
門扉を抜けた先も人の群れだった。ラキアは人々の後頭部を見回しやっぱりと思う。
これだけ人がいても、黒髪の者は一人としていない。王都となれば珍しいと言えど見つかるかと彼は思ったが、その考えは速攻で畳んだ方がよさそうだった。
(黒髪の人がいたら、親族か何かで手掛かりになると思ったけど……)
彼女一人だけが、ここに存在する。
サラは目線に気づいたのか、ラキアの方を振り返る。黒曜の髪が広がり、彼女に華やかさを与えた。
「おぉ、お嬢さん。綺麗な顔立ちしてますね」
彼女の風貌に思わず見惚れていると、横からサラの存在に気づいた男の声が二人の間に割り込んできた。黒の瞳に色とりどりに輝く装飾品が映り込む。
「どうだい、美人に華を添えて見ないかい?」
露天商の男はそう言いながら、自分の売り物を次から次へと紹介していく。その顔は笑っていながらも本気で、この美人が付けてくれればどれほどの宣伝になるものかと皮算用していた。
「これなんかどう? 服とも合うと思うな」
「いえ、あの……結構です」
断りの言葉まで言ったのに、それでもぐいぐいとくる商人に困り果てたサラの手をラキアは引いた。彼女の顔が彼にしか分からないぐらいで明るくなる。
「ありがとう」
間近で呟かれた言葉は幸せに染まっていた。
(手、離してなくて良かった)
ラキアの隣で物珍しくきょろきょろするサラはさっきよりも強く手を握る。冷やかしの商人が二人の姿を見て、ここぞとばかりに大声で囃し立てたが、どちらも離す気はなかった。顔を赤らめながら俯くサラは心底楽しそうだった。
そんな彼女はふらついたかと思うと、慌てて『ごめんなさい』と口走った。ラキアの瞳には誰にも何にもぶつかったように見えなかったのに、サラは空虚に謝り身をこわばらせた。表情に驚きが広がり、まるで何かが見えているように一点を見つめる。
「キメ……さん……?」
呟いた途端、サラは虚空に引き寄せられた。引っ張られるように、彼女の身体は勝手に都の奥へと進んでいく。手を繋いでいたラキアも何か分からないモノに引かれるまま人の間を縫う形になった。
ラキアはサラの先に何がいるのか目を凝らす。
蜃気楼のようなものが見えたかと思うと突然、点と線が繋がった。明確な、とは言い難いが、それでもサラの先に手を引いた人物が現れる。歳がそれほど変わりない青年は見たことがあった。
固く目を瞑り、起きなくなった彼。
キメと呼ばれた青年は幽霊になってしまったのか。
ラキアの中で目まぐるしく回る思考回路は、彼の停止により途切れた。
路地裏には人がいない。煉瓦の壁に遮られ通常より高く見える青空を仰ぎ、キメはにかっと笑ってサラの手をとった。
「お前、俺が見えるのか!」
喜びと安堵が入り混じる声に、サラはこくりと頷く。
「良かった……良かったよかった……」
彼の身体から力が抜け、その場にへたり込んだ。顔を覆い、良かったと繰り返す。
「あの……大丈夫ですか?」
落ち着かせようと伸ばしたサラの手は彼の身体を貫通せず、その肩に触れた。近づいたラキアに困惑した表情を向ける。
「キメさん、あの時は寝てたよね?」
「サラには普通に見えるの?」
ラキアの問いにサラは慌ててキメを凝視した。
「何もおかしいところ……なんてないよ」
言葉が濁ったのはサラにも疑問があるからだ。
彼の身体と別れたのは二日前。荷馬車でメリルの元へ向かったのは知っている。そこから目を覚まし、王都に戻ってきたなど物理的に無理なことだ。それにメリルは早く帰ってきてほしいと願っていた。
婚約者がまだこんなところでふらふらしてしていたら、彼女はぶん殴りにくる……
「ラキアにはどんな風に見えているの……」
「……幽霊……」
呟かれた言葉にキメは恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「幽霊……幽霊か、そうかもな。誰にも見えない、何にも触れられないなんて」
そう言い、近くにあった箱に向かって勢いをつけた腕を振り下ろす。生身の人間と同じく見えていたサラは息を呑んだが、想像した惨事はやはり起こらずするりと抜けた。
「何で……こんなことに」
「俺にも分からない。まぁ、見えなくなった、通り抜けられるようになったって、城とか忍び込んだけど」
さらりとこぼれた言葉にラキアとサラは顔を見合わせた。同じことを想像した。なにやっているのだろうこの人は。地獄の門番の顔と化したメリルが追ってくる。
「しっかし、城に入ったところで王とか見れないんだな。『神』が降臨したとか騒いでる騎士しか見当たらなかった」
サラの胸が波打った。記憶の底で何かがざわめく。
キメのこぼした言葉が脳内で反芻する。
網膜の裏側で映像が弾けた。
地上では見られない、物理的に不可能な天に浮かぶ大きな満月。一点を一心に見つめ祈る人々。鈍く甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐった気がして、頭の芯が麻痺を起こす。
『神』なんてありきたりな単語、教会の前を通れば否応なく耳に入るのに、キメのこぼした言葉には今までにない何かをサラは感じた。これ以上見たくないと頭を振った顔は真っ青だった。
「サラ、大丈夫? どうしたの?」
さすがにサラの異変に気づき、ラキアは彼女の顔を覗いた。キメも言葉を途切れさせ、心配そうな表情を向けている。
(そんなに表情に表れていたの……)
まだ顔は蒼くどことなく気持ち悪かったが、サラは眉をハの字にさせ薄く笑った。
「私は大丈夫だから、それよりも今はキメさんの方が大変でしょ」
気に留めないでほしいと彼女は懇願していた。今追及されれば何かが壊れてしまいそうなのだ。奥底のフラッシュバックした記憶は、きっとサラにとって望むようなものではない。
その顔はひどく後ろ髪を引かれるものだったが、追及したところでいい結果にならないだろうとこの旅で分かってきたラキアは、キメの方へ向き直った。
「大変になる前に言ってね」
さりげない一言はサラにとって嬉しかった。
「いいのか?」
「うん、キメさんを元に戻して、それでも気分が悪そうだったら医師に診てもらうよ」
「何か……ごめんな」
サラは微かに首を振り、少しだけラキアに寄り添った。
「キメさんは幽霊になる前どこで何をしてたの?」
「えっと……村からメリルの……あ、メリル知ってる?」
ラキアに寄り添い、だいぶ落ち着いてきたサラは、首を縦に振った。
「お友達です」
「じゃあ俺を知ったのはメリル経由か……あぁ、うんで、メリルが織った布を買い取り先に渡した帰りに…………かえ……りに……」
サラを気遣って手繰り寄せた記憶を矢継ぎ早に喋る。切れ始めた記憶の先にきっかけがある、とキメは持てる限りの力を使って呼び起こそうとした。眉間に皺が寄り、頭が鋭く痛む。
「…………帰りに……子供を馬車から庇った……」
呟いた瞬間、鮮明にその時の状況が蘇った。
「目の前で子供が走り出したんだよ。なぜかそれが気になって見てたら、よそ見した御者の馬車が向こうから来てよ……あいつ馬鹿じゃねぇの、貴族のご機嫌とりより重要なことがあるじゃねぇか!」
激昂したキメはどこかメリルを彷彿させ、似ているからこそ二人は惹かれあったのかと、体調が回復してきたサラは一人思っていた。
「助けた時、頭でも打った?」
「かもな……それからはこっちになった記憶しかない」
一時的ショックならどうにかなるのではないか、そう思ったラキアに、キメは哀しそうな顔をした。
「でさ、こっから困ってんの。戻ろう戻ろうと思っても駄目でさ、俺って……もしかして死んでる?」
「死んでなんかいません!」
急に弱くなったキメには強烈な一撃だった。声をあらげたサラは、蒼い顔ながらも瞳はしっかりとしていた。
「メリルちゃんが待っているんですよ……絶対戻れます!」
ただの願望でしかないけど、今のサラにとっては唯一の友で、悲しむようなことは一言も言いたくなかった。次に会う時は、二人隣同士で笑っている姿を見たいのだ。
「キメさんの身体は今、メリルさんの近くにあると思います」
ラキアの言葉にサラの中で何かが降ってきた。キメが自分のことを思っても戻れないなら。
「メリルちゃんのことを想ってみませんか」
共に歩むと決めたのなら。私だったらラキアの元へ戻っていきたい。
彼女が目線を上げる先で彼と瞳が合った。
「一回やってみませんか。もしかしたら」
ラキアの言葉はキメを押した。顔を赤らめまんざらでもない表情を浮かべた後、真顔になりこくりと頷いた。
「戻った直後にビンタかな……」
瞳を閉じ、慣れ親しんだ風景を思い浮かべる。今は雪が降っているのだから、きっと彼女は火の入った暖炉の部屋で帰りを待っているのだろう。
「あ……お……?」
今までになかった引かれるような感覚がキメを襲う。
「もしかして戻れるのかも!」
自分のことを何よりも心配してくれた二人をキメは思わずまとめて抱擁した。意識はどんどん彼女の待つ家へ引きずり込まれている。メリルの声が耳元に届いた気がして、こいつらとの別れの時かと少し寂しくなった。
「本当に帰れそうだ、ありがとう。今度はしっかりとした身体で逢おうぜ」
にっと笑った先で光が弾け、キメはその姿を消した。不可思議な空間はいつもの姿へ戻ったみたいだった。
(私が私でなくなったら、貴方のことを想おう)
寄り添い感じる温度は何よりも大切なものだった。
その夜、夢を見た……