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第4話 夢魔の回想

 真っ白い空間に私はいた。右も左も、上も下も、あったのは光をたたえた白。浮いているのか、それとも真白い床に足をつけているのか、私には判断できなかった。

 と、不意に音がした。水中で空気を吐き出すような、そんな音。

 ぞわりと全身が粟立つ。来ては駄目と心の中で警鐘が鳴る。

 しかし望みに反して、音は大きくなっていく。私は思わず耳を塞ぎ、一歩後退した。

 息が荒くなっていく。目も塞ぎたかったが、目線が一点に集中して逸らさせてくれない。そこから何か。

 何かが生まれた。

 私の喉から形容できない悲鳴が上がる。

 何かは黒いものだった。それ以上の形容が思いつかない。いや、私自身それどころではなかった。呼吸が出来ず、思考が全て停止していく。

 それは這い上がるかのように、真白い空間を染め上げる。

『ねぇ』

 耳を塞いでいるはずなのに、誰かに似てるような、全く知らないような声が鮮明に聞こえた。

(違う……!)

 瞬いた顔と声が被ってしまい、否定したいがために頭を振る。

 黒いものが震え、その体から細い影が伸びてきた。腕に影が絡まる。私はそれを手で引き千切り、真白い空間の方へ逃げた。逃げて、逃げて、逃げて。

 そうして、目を覚ました。




 その街は大きさのわりに静かなところだった。小さな部屋がいくつも集まってできているレンガ造りの建物は、密集しいくつもの路地裏を形成しながらも、その細部まで人の気配は薄かった。

 サラは思わず周りを見回し、その建物の一角で主婦が洗濯をしている風景に安堵した。

「人、あんまりいないね」

「ここは旅人や移動商人の集落みたいなところだからね」

 この街のほとんどの人間は外へ行ったきり何年も帰ってこない。一応帰る場所として定めるところ。それから主に王都への通過点として使われるため、人の足もまた、この地には長く留まらない。人が流れていくだけの場所だった。

 ラキアは一休みとして、唯一の広場にある噴水に腰を下ろした。

 子供達の声もして、サラの顔は少しばかり緩くなる。人がいるというのは安心できる対象だ。

 そんなサラにラキアは声を掛けた。

「君を知っている人が、この街で足を止めていればいいね」

「……………」

 サラは複雑な表情を浮かべ俯く。ブーツで石畳を蹴った。

 その姿にラキアは疑問を持つ。いつもなら「そうだね」と笑顔で返ってくるはずなのに。

 まるで記憶が戻るのを、元の生活に帰ることを拒んでいるみたいだ。もしかしてとラキアは思う。

(このまま、2人で旅を続けたい?)

 触れそうな位置にある右手に手を伸ばす。触れる直前で止めた。

 あの言葉が脳内を駆け巡る。

『死神』

 このまま触れてしまったら、サラの手は陶器が割れるがごとく、崩れてしまうのではないかと思ってしまう。まず手にひびが入り、亀裂が腕を伝って、綺麗な顔にまで到達して、そして崩れていく中で呟く。

『死神』

 全く自分に合っている名だ、と心中で苦笑を漏らす。

 触れられなかった。幻想が現実になってしまいそうで……ラキアは結局その手を自分の元へ戻した。

「あっ」

 背後で少女の慌てる声が耳に届く。足元で何かが当たる感覚があった。

「ボール?」

 ラキアの声に反応して、サラも彼の手元を覗く。

 使い込まれた白いボール。

「す、すみませーん」

 さっき声を上げた少女の足音が近づいてくる。ボールを転がしてしまったみたいだ。

 ラキアは返してあげようと少女の方を向き、瞳孔を開かせた。

 黄土色のツインテールの髪が走る彼女と共に揺れる。

 似ていた、あり得ないぐらいに似ていた。あの、呪詛の少女に。

 他人の空似だと自分に言い聞かせ、ラキアは無理矢理に笑顔をつくる。あまりに粗末で不恰好。もはや、笑顔ではなかったかもしれない。

「はい」

 少女に掛けた声は上ずっていた

 彼女はラキアの異常に気づかず、手元に戻ったボールを抱え笑顔になる。

 そして、言ってしまった。その口で、ラキアにとっては禁忌となる言葉を。

 これが全く似てない人だったら、きっと何も起こらなかっただろう。でも、少女は似ていた、生き写しかのように。

 彼女が少女の後ろで不気味に笑う。

 少女の口が言葉を紡いだ。

「ありがとう、お兄ちゃん」

 お兄ちゃん……………

 吐き気がした。思わず口元を押さえ、その場に崩れ落ちる。

 そんなラキアの姿に少女は困惑して、逃げるように友達の方に走っていく。

「ラキア」

 サラが様子を見ながら、恐る恐る肩に触れようとする。

 乾いた音が鳴った。

 時が止まる。

 ラキアは自分のやったことに青ざめ、サラを見た。彼女の黒曜の瞳が揺れている。

 恐ろしくなった。取り返しのつかないことをしてしまったと思った時には、ラキアはサラの元を逃げていた。

 彼女が背後で何かを言うが、ラキアには一句として耳に入らなかった。

 少女の呪詛が耳元で響き渡る。

『お兄ちゃん、貴方の幸せを、赦さない』

 走っているかどうかも分からなくなっていた。






 始まりはきっとここから。悪天の空の下、簡素に作られた墓標が二つ。どちらもさっき建てられたばかりだ。

「両方なんてね」

「どうするあの子達」

「私の家は無理だからね」

 大人達の囁きが少年の鼓膜を震わす。五歳になったばかりの彼でも、彼らが何を言っているのか理解できた。

 可哀想だけど厄介な子供達をどうするか。

 墓標の下で眠るのは、少年とその横で泣きじゃくる妹の父母。もう逢えないと本能的に分かった妹は、葬儀の時から泣き続けていた。兄となる少年の手を強く握る。

 彼の瞳から雫が一筋落ちた。枯れる前の涙。

「貴方お金あるでしょ。引き取りなさいよ」

「無理だ。俺のところは嫁が子供嫌いだ」

「孤児院に連れていくか?」

「やめてよ、一応これでも私、貴族なのよ。名に傷がついちゃうわ」

「じゃあお前が預かればいいじゃないか!」

「やーよ! 子供なんて大嫌い!!」

「いい加減にしろお前ら! ガキ達の前だぞ!」

 身勝手で卑しい者達の声が止まる。がに股でゆるい土を踏みしめながら、男は人々の間をぬって兄妹の背後に立った。大きな掌を二人の頭にのせる。

 少年は驚いて背後を見た。無精髭を生やした熊みたいな大男がにがっと笑う。

「お前ら、俺のところ来るか。きたねぇし、飯は同じものばっかだけど楽しいぞ」

 妹は鼻水をすすりながらしきりに頷く。

 少年は大男の瞳を覗いた。じっと、何かを図るかのように。そして、やがて、頷いた。

 ここで頷かなければよかったと今では後悔している。

 いや、あの流行り病で自分も逝けばよかったのだ。両親の代わりに天へ昇ればよかったのだ。


 木材を打ち付けただけの小屋に少女の鼻歌が弾む。彼女は奥の簡素な台所で、豆を出す作業に精を出していた。小さな手はこれから帰ってくる者達のために絶えず動き続ける。きっとこれを食べて喜んでくれるのだと思いながら。

 外で足音がする。少女は作業の手を止め、玄関へと笑顔を向ける。

「おかえりなさーい」

 大男と彼女の兄が土塗れで帰ってきた。

「今日の夜ご飯は、お豆ごはんだよー」

「お、それは楽しみだ」

 大男は持ち前の、熊が笑ったかのような笑顔で少女を誉め、兄の肩を強く叩いた。

「よし、できる前に水浴びしてくるか」

「はい」

 叩かれた肩は痛んだが、少年は元気に答える。さっきまで使っていた草刈り用の鎌を壁に立てかけ、大男の後を追った。

 扉を閉じる前に妹の鼻歌が聞こえた。一年前まで、母がよく口ずさんでいた歌だ。彼女の心のどこかで引っ掛かっていたのだろう。旋律は寸分違わず、歌っている少女の顔は穏やかだった。

 兄、六歳。妹、四歳。

 穏やかな時間だった。両親の死は悲しいことだったが、拾ってくれたおじさんは優しく、ゆっくりと傷心は癒えていっていた。いつまでも続くと楽観視していた。

 そんなこと、なかったのだ。

「おじさん?」

 目を覚ますと妹がおじさんを揺すっていた。彼はベッドと呼べるか分からない打ち付けの板一枚の上でいつも寝ている。状況はいつもと同じだが、それにしては妙に静かすぎた。

 寝息ひとつ聞こえない。

 胸が動いていない。

「おじさん!」

 少年は飛び起きて熊顔に触れる。青白い顔とない体温に彼が既に故人であると悟るのには容易だった。突然すぎて兄妹はその事実が受け入れられなかった。親の時はまだ病魔に蝕まれ弱っていく身体に幼い心ながら覚悟が出来ていた。しかし今回は違う。

 前日まで普通に生活していたのだ。兄妹の『おやすみなさい』の言葉に特有の笑顔を向けていた。何も変わりない、普通の日だった。

 それが目を覚ませば崩壊していた。原因は分からない。

 どんなに揺らしても、声を掛けても無駄なことは理解していた。それでも兄妹はし続け、妹は嗚咽を漏らした。

 兄は泣けず、静かに哀悼を捧げていた。




 何度目かの移動なのか、もう数えるのをやめた。村から町へ移って、山岳から港へ行って、そして何度も人の死を見てきた。両親、大男のおっさん、娼婦、老婆、まだ若い大黒柱……両の指で数え切れるだろうか。

 ぐるぐると変化する景色の中で新たに見たのは、大きな煉瓦造りの建物達だった。街の中央に時計塔が建ち、道は全て石畳の裕福そうな所。実際、これから行くのは貴族ではないが、金持ちのところだった。

 石畳の舗道に入り、妹の頭が寄り掛かる兄の肩が小刻みに震える。その反動で彼女は目を覚ました。まだ寝ぼけて虚ろな瞳を擦り、馬車の中から流れていく景色を覗く。

「お兄ちゃん、きれいな時計!」

 時計塔で意識が覚醒したらしい。目を輝かせ、しきりに窓を叩く。

 兄はその姿に優しく微笑み掛けた。今の彼にとって、妹の存在は唯一の支えだった。彼女だけは護りたいと思う。

 妹の名を呼ぶと彼女は嬉しそうにこちらに飛びついてきた。黄土色のツインテールが揺れる。兄はそんな頭を撫で、細い身体を抱きしめた。

「お兄ちゃん」

「何?」

 上目遣いで黄土色の双眸が覗く。

「次の人はいなくならないよね? わたしたちのこと愛してくれるかな?」

 兄は見開いた瞳から無理矢理に笑顔をつくる。しかし、うんとは言えなかった。そうだね、も、大丈夫だよ、も。

 きっと言ったところで気休めで、大嘘で、また妹を傷つけるだろう。枯れてしまった自分の涙と違い、妹はまだ一人ひとりの亡き人達に泣ける心がある。

 だから、兄は祈るのだ。誰も死なないでと、妹を傷つけないでと。

 たとえそれが叶わないことでも、自己満足でも。




 周りの建造物に合わせた煉瓦造りの玄関から出てきたのは、線の細い、少し目の死んだ女だった。真っ赤に染まった口紅が目立つ。

「これからお願いします」

 兄が礼をするのを見て、慌てて妹も真似をする。女はそれに少し微笑むだけで返事はしなかった。黙って家の中へ二人を通す。

 中は外観から想像したままの姿だった。ベージュを基調とした内装で、玄関を入ってすぐにゆるい階段があった。女は振り返らずにその階段に足を掛ける。敷かれた沈んだ色の絨毯が足音を吸収した。

 どこか居心地の悪さを感じたのか、妹は兄の裾を引っ張った。彼は不安をほぐすため、いつものように微笑み、頭を撫でてやった。

「ここですよ」

 女が初めて喋った時、その顔は無表情だった。

 兄妹の部屋として用意されていたのは、元からあったゲストルームの一角。並んだベッドの上にぬいぐるみがごっそりと置いてあった。妹の瞳がそれを捉え、きらきらと輝く。

「欲しい物があったら使用人に言って下さい。すぐに用意するようにします。後、食事は決まった時間ですから、その時はリビングに降りてきて下さいね」

 言葉は丁寧で穏やかだが、その中に含みがあることを兄は素早く見抜く。

 その時『は』降りてきてくださいね。

 ということは、それ以外は極力、部屋から出るなと言っている。考え過ぎと思われるかもしれないが、女の言動はどう考えてもその結論にいきつく。

 赤の他人では結局こんなものか。

 兄の口からは溜め息さえ漏れなかった。

 女は奥から出てきた使用人に一声掛けると、素早くその場から離れていった。兄は冷めた目でその背を見送る。と、横で妹の頭が揺れた。

「わぁ!」

 瞳を輝かせ、兄の服から手を放すと、一目散に部屋の中へ駆け出した。ベッドの上で鎮座する大きなテディベアに頬擦りをする。女がいなくなったことで、彼女の気持ちが解かれたのだ。

「お兄ちゃん。かわいい、ふかふかだよぉ」

 細く折れそうな腕をぬいぐるみの胴に巻きつけ、彼女は幸せな笑みを兄に向ける。

 愛として置かれていないぬいぐるみ達。彼女の持っているテディベアもただ形だけの物で、心は入っていない。黒いつぶらな瞳はがらんどうだ。

 それでも彼女は笑っている。空虚な物を愛おしそうに抱えながら微笑んでいる。

 兄は口角を上げた。妹のように笑おうとした。

 できなかった。

 その顔には固い仮面が付いていた。笑みの形で中身がない、妹の周りに置かれているがらんどう達のようなもの。

 そのことに妹は気づかず、テディベアを抱えたまま、兄の手を引く。

 彼の表情はしばらくそのままだった。




 仮面は好きな時に取り出せた。勿論、仮面のない笑みを浮かべることもできたが、自覚してから自分の表情に違和感を覚えた。これは心の底からの気持ちなのか、それとも空虚な幻想なのかと自問することもあった。

 しかしそれもやがて薄れていった。

 今、彼はきょとんとした顔で見上げている。

「君ぐらいの歳になれば、勉学にも勤しまなきゃいけないな」

 髭面の男はそう言って、一冊の本を差し出す。黒の表紙に白くタイトルが書かれたそれは、厚みがありしっかりしていた。

 兄は呆けたまま、素直に受け取る。

 男の顔は上機嫌だ。思えば最初からずっとこの顔だった。何かを期待するかのように。

 何に期待しているのかと思いながらも、兄は問わずに表紙を開く。『勉学』と言ったが、文字の羅列は哲学などではなく、ただの物語だった。しかも、自分ぐらいの歳でも読みやすいようにしたものだ。

「文字は読めるよな?」

「はい、前教えてもらいました。でも難しい言葉は意味が……」

「なら後で辞書もあげよう。どんどん引きなさい。勉強になるぞ」

 男はそう言って愉快そうに笑いながら、兄の頭を撫でた。

 数日後、読み終わったと男に言いにいくと、彼は図書館があると言い、妹と一緒に連れて行ってもらえた。やっぱり顔は上機嫌でどこか期待していた。

 でも兄はそれを気にしていなかった。この体質のせいで学校に行かせてもらえないのは重々分かっていたからこそ、その代わりのように知識を得られる場所を教えてもらえたことに心が向かっていた。

 それから彼は毎日のように通った。妹も共に連れて行ったが、その内に使用人と会話することに楽しさを覚え、付いて来なくなった。

「なぁ、本って楽しいのか?」

 そんな頃に彼は話し掛けてきた。

 丈夫そうな木の枝に跨ぎ乗り、彼は頭上から悪ガキ特有の笑みを向ける。

 兄はぽかんとしてまばたきだけを繰り返す。状況が呑み込めない。

「なぁ、なぁ。どうなんだよ」

 彼は一回転まで見せながら飛び降りると、持っていた本をひったくりぱらぱらと捲った。へーとかほーとか感嘆の声が漏れる。

「よく読めるなお前」

 はいと差し出されて慌てて受けとる。言葉は乱暴だが、本は丁寧に扱っていたことに安堵した。破られたりなどしたら、自分では弁償できない。しかも学ぶ場を失うのだ。嫌だを通り越して悪寒がする。

 そんな彼に少年はくりくりの瞳を近づけ覗きこんだ。

「なぁ、なぁ。何で喋らんの? もしかして口きけんとか」

「そっそんなんじゃないよ、ちょっとびっくりしただけ……」

「なら良かった。なぁ、今度オレを図書館に連れていってくれよ」

 思わぬ申し立てが少年の口から出た。意外だった、外見は本なんて読みそうにもないのに。いや、読まないからこそ、その場所に興味を持つのか。

「何かさ、一人じゃ入りづらくてさ。そしたらお前がよく本を持ってるのを見たから。なぁ、お願いだよ」

「いいけど……」

「やっふぅ! じゃあオレ明日もここにいるから、行く時声かけてくれよ」

 そう言って、彼は疾風のごとく駆けていく。一方的な子だなと思いながら、兄は本に目線を落とした。

「友達……」

 読んでいて良かったと思った。


 ずっと家に引きこもっていればよかったと思った。

 兄は耳を疑った。何かの間違いだと思いたかった。

「死んだ……?」

「死んだと思うわ」

 真っ赤な唇からは否定したい言葉が淀みなく零れる。そこには感情がない。

 あの、少年が死んだらしい。木の上から話し掛けてきた彼、共に図書館に行った友達。

 彼は代わりに木の登り方を教えてくれた。共にあの木で語り合った。その木から彼は滑り落ちたらしい。

「あの時ぐったりしていたし……」

 女はその時の一部始終を見ていた。

「……貴方の友達だったみたいだしね」

 その一言に兄の心は抉れる。

「……嘘だ……」

 頭を抱え、女に否定の言葉を言わせたいために、一歩踏み出す。

「近づかないで!」

 一瞬して女の声に感情がこもる。明らかに恐怖に怯えている。

「あんただったんだわ。人の魂を刈り取っていたのは……あんただったんだ、この化け物!」

 女は座っていた椅子を引っ掴み、勢いよく床に叩きつけた。嫌な音が鳴り、脚が兄の元へ飛ぶ。

 女は完全に畏怖でトチ狂っていた。長い髪を抜け落ちるんじゃないかと思うほど、振り回し掻き乱す。目の前にいる少年は人間として認識できず、まさしく化け物のような姿を瞳に映していた。

 誰もそうなった人間を簡単には止められない。

 兄はどうしていいか分からず、思わず一歩前に出てしまった。

 血走った女の瞳が、その動きを捉える。

「あんたは私も殺す気なんだわ……」

 兄は首を振ったが、女はそれを受け入れるだけの余裕はなかった。




 扉が開いたことに気付いた妹は、がらんどうのぬいぐるみを抱いたままその方向に顔を向けた。大好きな兄が帰ってきた。

 彼女はぬいぐるみの手を引き、ふらりと入ってきた兄の元へ寄る。

「お兄ちゃん」

 黄土色の双眸に歪な笑みを浮かべた顔が映り込んだ。どこか泣きそうな顔、と兄は他人事のように思う。

 妹の手が伸びた。

「口の横、青いよ。どうしたの?」

 触れられた痣が鈍く痛む。兄はその痛みをどこかに無理矢理押しやり、妹を抱擁した。彼女は突然のことに目を白黒させる。

 兄も何故、抱擁したか分からなかった。ただ、人の温もりが欲しかったのかもしれない。自分は人を殺してしまうのに、離れればいいのに、心はどこまでも人の温かさと優しさを求めてしまう。兄はそんな自分が嫌だと思っていたが、どこまでも身体は素直だった。

「お兄ちゃん、痛いの?」

「……ううん、大丈夫」

 妹の一言にやっと手を離す。目の端で使用人が礼をするのが見えた。いたのかと思い、恥ずかしいところを見られたと自覚して彼は赤面する。

 弱いところを赤の他人には見られたくない。それに、これの後だ。

 兄は痣を隠すかのように撫でる。

 きっと主人が何をしたのか分かっている。

 使用人は何も言わず、頼まれた子供達の元へ寄る。そっと兄へ耳打ちをした。

「傷の手当てをしましょう。それから……彼女には聞かせないようにしましたから」

 早々と喋り、顔を自然な動きで離す。自分の耳を両の手で覆った。

 兄は顔が歪むのを必死になって止めた。これ以上弱いところは晒したくない。無言で礼をして妹に気付かれないように謝意を表す。

 使用人に伝わったかどうかは分からないが、彼女は一瞥して部屋から出ていった。

 兄は妹に向かって偽の笑みを浮かべる。

 彼女の心は護られ、純粋で綺麗な表情を見せてくれた。




 何日も姿を見せなかった女は、その日突然ダイニングに現れた。さらに目の死んだ顔ながら、そこに微笑をたたえ、兄妹に椅子へ座るよう促す。テーブルの上には、綺麗にお膳立てされたシチューが湯気をのぼらせていた。

「さぁ、食べましょう」

 女は静かにシチューへ口づける。何の変哲もないその姿に疑問を覚えたが、兄は追求せず女の指示に従った。妹は何かを探していたが、見つからないと分かると、黙々と食べ始めた。

 会話は一切なかった。

 兄は勿論この女と喋る気はなかったし、妹はいつも喋る相手がいない。と、兄はある異変に気がついた。あの妹と親しかった使用人がいないのだ。いつも決まった時間に降りてくると、乏しく笑いながらも席に座らせ、紅茶を入れながら妹と会話する。妹は使用人を探していたのか、と兄は目線を女に向ける。

 女は手を仰ぎながら『もっとお食べなさい』と言うだけだった。

 仕方なく兄は食べる。あの時のように恐怖に駆り立ててはいけない。今は妹の前なのだと兄は手を動かす。

 女は妹の方へ笑顔を向けた。

「どう、美味しい? 私が作ったのよ」

 その言葉を待っていたかのように、兄の口の中で痛みが走った。慌ててシンクに駆け込み、口の中の物を吐き出す。

 真白いシンクに赤が映えた。

 濁りのない真っ赤なそれは口から滴り続ける。

 兄は浅い息を吐き、血の中で光るものを睨みつけた。硬質なガラスの輝きは、明らかな拒絶を彷彿させる。

 唇の血を拭い、彼はテーブルに急いだ。乱暴に妹の持っているシチューを奪い、その中に入っていないかスプーンで掻き回し探した。

 ………入っていなかった。

 完全に自分を殺る気だったのかと兄は確信する。

 ぼそぼそと背後で声がした。

「私はガラス片なんか入れてないわ……貴方の皿にガラス片なんて入れてないわ……事故よ、事故だから殺さないでね私のこと……殺さないでね、私のこと……私はガラス片なんか知らない……知らないから殺さないで……」

 床に手をつき、焦点の合わない瞳で懇願する。その顔はもはや死んでいた。隈が浮き出て、顔面蒼白に真っ赤な唇。

 妹は兄の身体に四肢を回し、強く抱きしめる。彼女の全身は震えていた。

 女の揺れていた眼球が、一点に集中して瞳孔を開かせる。

「私は何もしてない、あんたなんか死んじゃえばよかったのよ、私は死んじゃえ、何もしていない、死ね、あんたなんか、地獄へ、入れてない、死にたくない………」

 唇からもれる言葉は意味をなさず、支離滅裂だった。しかしそれが兄妹に恐怖を駆り立て地獄と化した。

 妹は今すぐにでも泣き出しそうだ。

 兄は終わってくれと願う。妹に害なすものは今すぐ止まってくれ。

 彼の願いが届いたのか、長く続くと思われたそれは突然終わりを告げた。

 彼女の夫となる男が帰ってきたのだ。女は扉の開く音に反応して喚くのをやめる。その場に崩れて嗚咽を漏らした。

 兄は今のうちと妹の手を引き、階段を上る。

 階下で喚き声がまたしたのは、それから数分後のことだった。




「じゃあ、私達は行ってくるからね」

 女は壊れていた。表立って変なことはしなかったが、常に暗い顔で何か呟いたり、突然泣き出したりと心の崩壊は酷かった。

 使用人は全て解雇されたのか、彼女を慰める人も居ず、主人が帰ってくるまで兄妹はそんな声を聞きながら生活するしかなかった。

 そんな中、男は妻と二人で息抜きをすることを思い立つ。そして今日、夫婦は海を見に行った。

 一応二人を見送るため、兄妹は玄関に立ったが、女の姿はもうすでに馬車の中へ消えていた。男だけが上機嫌で兄妹に笑顔を向ける。

 やたら浮き立つその顔に、兄はこれ以上なく違和感を覚えた。

 そして、その正体は帰ってきてから気づかされた。

 あの女は溺死した。崖から足を滑らせたらしい。

 そう男は声を詰まらせながら言う。しかし、兄の眼にはその裏で彼が笑っているように見えた。

 やっと邪魔だった妻が死んだ。

 きっと彼自身が手を掛けたのだろう。妻の体調を良くするなんて毛頭から考えてはいない。

 兄に期待していたのは人を殺す能力だった。だからこそ兄妹を引き取り。笑顔を向け、心中で願っていた。

 そして彼の手で願いは叶った。しかし彼の手だが、元凶は自分がつくったと兄は思った。自分のせいで女はトチ狂った。そしてそれが男の狂気に繋がった。

 やっぱり自分は人を殺す……………




「死神」

 女がヒールを泥に沈めながら兄妹に近づく。爪を黒く塗った手が唸った。

 乾いた音が墓地に響く。

 兄は鈍く痛む頬を押さえようともせず、女を上目遣いで睨みつける。

 新たな墓の前で立ち竦む人々は、そのやり取りをまるで他人事のように見ていた。誰も止めようとしない、意に介さない、ただ起きた事柄。

 妹は俯き、兄の手を強く握る。

「死神!」

 女はもう一度手を振り上げる。兄は逃げようとは思わなかった。罵倒も暴力ももう慣れてしまった。

 手をあげたければ、それでいいと思う。そんなことで気が晴れるなら、目の前で新しくできた墓としての償いは安いものだろう。

 しかしいくら経っても、女の手が振り下ろされることはなかった。手を上げたまま、指先だけを震わせ、やがて諦めたのかすとんと落とす。忌々しげに兄を睨みつけた。

 ヒールに泥をはね付け、兄妹に背を向けた。呪い言葉一つもなしに、女は傍観者の中へと紛れる。その背が消える寸前、兄は口を開いた。

「僕達はもう、貴方達の手を借りません」

 妹の手を強く強く握り返す。もう誰に喋っているのか、兄は考えぬまま、口だけを感情なしに動かした。

「二人だけで生きていきます」

 妹の頭がゆっくり動いて、黄土色の双眸が彼の姿を射抜く。兄は薄い笑みで応じた。

 囁くような声で妹にだけ言葉を紡ぐ。

「絶対、護るから」

 十三歳の決意。

 大人達は誰も彼を褒め称えず、冷たい目で見るばかり。

『死神』

誰かが遠くで呟く。




 紅蓮の炎が闇の空に立ち上る。どこから燃え広がったのか、何が起きたのか、兄には理解できなかった。

 阿鼻叫喚の声と炎に照らされる屍。

 兄妹は何事もなく、二人きりで平和に暮らしていた。

 何事も起きず、平凡な日々を過ごしていたかった。

 兄は妹の手を引き、屍の道を逃げる。紅蓮の炎は道を塞ぎ、時には嫌な音を立て建物を崩落させた。

「お兄ちゃん」

 煙を吸い、咳き込みながらも妹は呼ぶ。心配したその声に、兄はいつもの微笑の代わりとしてほどけないほどに強く繋がった手を握る。

 遠くで刃と刃がぶつかる音がした。そして一人の断末魔が耳にこびりつく。妹が小さく悲鳴を上げた。

 馬の蹄が地を揺らしている。女性の懇願が聞こえたが、それは無残に天へ溶けた。

 何が襲ったのか分からぬまま、蹄は敵と決めつけ音のしない方へ逃げる。もう男達の怒声しか聞こえない。

 この村で生き残った者はいないのかもしれない。

 兄の感情がどろりと脳内に漏れる。

 またやってしまったのだ。どんなに抗ったところで自分には人の死が付きまとうのだ。

 どろりとした負の感情は、そんなことないと言っている自分自身も喰らい尽くし、思考を麻痺させる。それがいけなかった。

「お兄ちゃん!」

 妹の悲鳴がして、手が離れる。

 炎とは違う紅が、視界を襲った。

「……!!」

 妹の名を叫ぶ、その声に男の下劣な笑い声が重なる。

「お涙でも必要な兄弟愛だな」

 鎧に身を包んだ男は、串刺しの妹の身体を兄によく見せるよう晒す。四肢は力なく下がり、丸くなった背からは死臭しかしない。

 男は乱暴に躯と化した妹を剣から引き抜くと、呆然と立ち尽くす兄へ放った。物言わぬ彼女の身体は重く、動かぬ兄はそのままもつれる様に尻餅をついた。震える 指先で髪を避け、その顔を見る。開かれたままの瞳を優しく閉じた。

「しっかし、山賊様は出てこないな。おい、お前知らないか?」

 男が下卑た笑みを浮かべながら問う。

 兄は空っぽの妹をその場に静かに置く。自身も音をたてず立ち上がる。

 前髪で男に表情を隠し、静かに言い放った。

「知らない」

「皆その答えなんだよな。まぁいいや。じゃあ、妹のところへ引導してやるよ」

 血を払い、その切っ先を兄へまっすぐ向けた。甲冑を鳴らし、微動だにしない彼へ襲いかかる。

 兄は紙一重で避け、その場にしゃがみ込んだ。崩れ落ちた瓦礫を掴むと、身を翻し男の頭部へ突き上げた。激しい音が鳴り、反動で兜が外れ宙に舞う。

 男は痺れる頭を押さえながら驚いていた。子供にこんな痛手を喰らうとは、と。それでもと彼を睨みつける。喉の奥で悲鳴が漏れた。

 間近にあった彼の顔に表情はなく、ただ暗い影が横たわっていた。彼の手が振り上げられる。

 守るものを失った男の頭に瓦礫が振り下ろされた。

 男は何もできず、無残に崩れ落ちる。

 兄は血の付いた瓦礫を力なく落とす。ゆっくりと亡霊のように動くと、もう二度と語りかけることはなくなった妹を脇に抱え、炎の中へ消えていった。






「ラキアぁぁぁ!!」

 サラは孤独の中にいた。愛おしい彼は走っていき行方をくらませた。

 どれだけ探してもいない。人のいないこの地では、心も折れそうだった。

「どこなの……ラキア」

 とうとうサラは膝を折り、縮こまってしまう。あの夢に落とされたみたいだった。闇が呑み込む、恐怖だけの世界。

「そんなことない……あの人は見つかる」

 サラは口を真一文字に結び、立ち上がる。浮かんだ涙を拭った。

 また歩き出すと、すぐにその足が止まった。

 近くで少女の悲鳴が聞こえた気がするのだ。

 ラキア……と思ったが、彼女の正義感が勝り、そちらへ足が向いた。明らかにさっきの悲鳴は尋常じゃない。それにこの悲鳴をラキアが聞いていたら、きっと彼も向かうだろう。一つ角を曲がる。

「何をしているんですか!」

 サラの声は男2人を批判した。

 片方が髭面の男であり、もう片方は右頬に裂傷が刻まれていた。その男が露骨に舌を打つ。目線を持っているものから、サラに向けた。

「邪魔すんじゃねぇよ……ははっ」

 言葉の途中で目を見開き、怪しい笑い声をこぼす。口笛を吹き、相方を顎でしゃくった。

「上玉が自分から飛んできたぜ」

「……相手は凄い金を積んでくるかもな……」

 2人してにたりと笑う。その表情はサラに嫌悪感を抱かせた。思わず一歩下がるが、そこで踏み止まり、拳を握り声を荒げた。

「その子を放して下さい!」

「放せだって、ははっ。自分も同じくなるのに放せだってよ」

 傷のある男は手に持った少女を――歳はサラと同じぐらいだろう、ぐったりとして動く気配はない――相方に渡し、舌なめずりした。身体を縮め、ばねのように襲ってきた。

 サラは足元にあった石を投げつける。

 男は軽く払いのけると、サラの間近でにたりと笑った。これ以上ない嫌悪感がサラの内を駆け巡る。身を翻し、間合いを取ろうとしたが、その時には腕を掴まれていた。抵抗してほどこうとするが、男と女では結果が見えていた。

「放して下さい!」

 ずるずると引きずられ、それでもサラは抵抗する。

「あー、はいはい。向こう着いたら放してやるよ」

 男はげらげらと笑い、サラを見下す。その下品な顔に激痛が走った。

 サラが渾身の力を込めて、男の鼻先を殴ったのだ。

 鼻腔から鼻血が垂れる。男は奥歯を噛みしめ拳を振り上げた。

「このやろ……」

 サラは反射的に瞳を閉じる。

 乾いた音が鳴った。

 が、サラにはいつまで経っても痛みが訪れなかった。

 恐る恐る瞼を上げる。彼女は息を呑んだ。

「その手を離せ」

 男の手はがっちりと掴まれ固定されていた。その手の先にはよく見知った顔。

 彼女が探し求めていた人物が立っていた。

「ラキア! ……ラキア?」

 しかし一瞬で喜びは疑念に変わり萎む。

 彼の様子が明らかにおかしかった。

 男の顔が苦痛に歪んでいく。ラキアは無表情のまま、掴んだ腕を変な方向へ曲げていく。

 やがてあまりの痛さに耐えかね、男はサラの腕を放す。それでもラキアは止まらなかった。みしみしと音が聞こえてきそうなその攻撃に、思わずサラはラキアにしがみついた。

「やっやめてあげて! もう十分だよ!」

 ラキアの手が一瞬止まる。サラの方を向いた。

 その顔に表情はなかった。何も見ていない瞳にサラの息が止まる。嫌な音が鳴り響いた。

 男が変な方向に腕を曲げ、泡を吹きながら倒れる。それを見つめるラキアの瞳はどこまでも冷たかった。

「どうしたの……ラキアおかしいよ」

 いつもの彼はどこにもいないとサラは思った。今、目の前にいるのは愛する人を模した悪夢だ。

「ねぇ、戻ってよ、私はもう大丈夫だから……戻してよ……」

 ワンピースの裾を皺になるぐらい掴み、ラキアを見据える。

 彼は、剣を抜き放った。まさかの行動にサラは目を見開いたが、すぐに表情を引き締める。

 斬ればいいと思った。それで彼自身が戻ってくるなら、この身一つ差し出してあげよう。でもできるなら。

(斬った後に抱きしめて……)

 どこか狂った愛なのかもしれない。でもこの気持ちはもう否定できないものだった。サラは両腕を求めるように広げ、瞳を閉じた。

 ラキアは動いた。白銀を煌めかせ、それを切り裂いた。

 男の低い呻き声がサラの鼓膜を震わせ、彼女は瞼をあげる。ラキアの背が眼前にあり、その向こうで髭面の男が利き腕を斬られ顔を歪めていた。忌々しそうに舌打ちをして顔を上げる。攻撃に転じようとしたその動きが止まった。

 首筋に冷たい感覚があった。

 男は半歩下がると、腰を抜かして地に倒れこむ。

 勝敗は決まった。

 が、ラキアは一向に剣をしまわない。

 男は戦意を喪失して青くなっているのに、あろうことかラキアは切っ先を彼の喉に当てた。

 男から悲鳴が上がり、サラは息を呑んだ。

 ラキアは、男を殺そうとしている。

「やめて……」

 サラの悲痛な声が漏れる。

「やめてよラキア……」

 ラキアの剣が振りあがる。

「やめてぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 絶叫がこだまする。彼の刃は。

 振り下ろされなかった。

 乾いた音が鳴り、剣はその手から離れる。ラキアも力をなくし、その場に崩れ落ちた。

「……うわぁぁぁ!!」

 男は化け物から逃げるよう、足をもつれさせながら相方を担ぎ、路地裏の闇に消える。

 サラは膝をつき、ただその背を見送った。

 ラキアは完全に動かず、その意識は真の闇へ堕ちていくところだった。

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