第3話 隠し事
金物の当たる音と人々の話し声。女将達は忙しそうに動き回り、宿屋と合併した食堂は繁盛していた。
その中で、ラキアとサラは端の席に座った。目ざとく見つけた女将が注文を受けたまわるためにすっ飛んでくる。ほどよく付いた肉が揺れた。
「ハーブティー2つ」
「はいはい、うん?」
伝票に書き込んでいた女将はその手を止め、注文したサラの顔を見た。そして、彼女の服を目線でなぞった。
「令嬢様……じゃないのかい?」
女将は完全に誤解していた。サラを令嬢、ラキアを護衛を兼ねた使いの者と見えていたのだ。確かにサラの容姿ならそう思われても仕方ないとラキアは思った。後、考えられるのが………
「……まぁ、頑張りな」
「はい」
ラキアに目線をやりながら、女将はそそくさと伝票を持って逃げた。返事したサラはきょとんとして首を傾げる。
ラキアは嘆息を吐き出す。もう1つの結論にいきついたみたいだ。
令嬢と平民の駆け落ち。
そんなんじゃないんだけどな、と心中で呟きながらサラに向かって苦笑を漏らす。彼女はただただ無垢な笑みで答えた。
ラキアはざわめきに目線を向ける。数分後、さっきとは別な女将が盆を持ってきた。二人の前にハーブティーを置く。
彼女は意味深げにサラの顔を見ると、二人に向かってある意味でいい笑顔を浮かべ去っていった。
ラキアは女将と自分の考えが完全に一致していたことに再び嘆息を漏らす。普通こういう場所では品物とテーブルを間違えないように同じ者が運びにくる。飲み物だけならなおさら。しかし女将は代わり、後者は意味深げな笑みを投げ掛けた。多分、面倒事を避けたのだろう。あの女将は。
恋人でさえないのに。
ラキアはハーブティーに手を伸ばすと同時に、サラの方を見た。彼女は丁度目線を外すところだった。伏せた顔はやっぱりどこか人形じみて美しかった。
令嬢と言われるのも納得できるとラキアは思った。なら、これから行くのは。
「ラキア」
サラに呼ばれ、ラキアは思考を中断した。彼女の心配そうな瞳はある一点を見ている。
「肩、大丈夫?」
「うん」
ラキアは笑顔で答え、軽く肩を回した。残ってしまった傷跡が張る感覚はあったが、痛みは消えている。応急処置が良かったと医師は言った。今のラキアの目線からは見えないが、サラの服には酷く破れた箇所があった。
「ごめんね、旅を頓挫させちゃって」
「いいよ、それより……」
サラの口がまごついたのに、ラキアもある人物を思い浮かべる。
紅い瞳が印象的だった女性。あんなに綺麗なアルビノなら記憶に残っていてもおかしくないのに全く思い出せない。
彼女の言葉を反芻する。
『………幸せのためだ………』
ラキアの中に不穏な風が流れる。
幸せの為。
あの人はあそこにいたのか。思い出せない。
あの人は僕のことを知っているのか。解らない。
あの人は、僕の、
「ラキア?」
身を震わせ意識を彼女に戻すと黒い双眸と目線が合った。慌てて笑顔を浮かべる。
何かを悟られたくないと表面に浮かべる笑み。前は浮かべると吐き気が襲ってきて気持ち悪かったが今は、慣れた。仮面の下で浮かべる冷笑さえ、自分に向けられるようになった。彼女にあれを悟られる訳には。
サラは喋るのを止め、紅茶に手を伸ばす。ラキアに目線を合わせたまま、その整った唇で軽く口付ける。
「ねぇ、ラキア。次どこに行こっか」
カップが置かれる。彼女は全てを包み込むような、ラキアの隠していることさえ優しく抱擁してくれるような笑みを浮かべた。
「えっあ、うん」
ラキアの仮面がずれた。素っ頓狂な声を上げ、慌てて繕う。
「僕は王都に行こうと思うんだけど、どうかな」
「うん、私はどこでもいいよ」
「じゃあ、王都方面へ進路をとろう。通過点にある村、町は出来る限り聞いて回るでいいかな」
サラは首を縦に振り、同意を示す。
ラキアの仮面はずれたまま。とても、今の状態では直せない。何も悟られないように口付けた紅茶はぬるく、ひどく曖昧な温度を身体に染み込ませた。
「ごめんなさい、知らないわ」
強い香水の残り香をラキアの元に置いて女は去っていった。ごてごてに塗った化粧のせいで、実年齢と玉の輿を狙っているという事がありありと分かってしまう人だった。
ラキアは何度も言われた、知らない、分からないの言葉に軽く溜め息をこぼした。サラも浮かない顔でラキアの元に戻ってくる。
「手がかりないね」
「うん……でも」
「でも? どうかしたの?」
「あ、何でもない」
サラは慌てて首を振り、この旅がずっとずっと続けばいいなんて言葉を呑み込む。そろりと彼の顔を覗き込んだ。
ラキアはサラを不安にさせないように微笑むと、本日泊まる宿へと歩を向ける。
数歩進んだところでラキアは不意に足を止めた。彼女の足音が聞こえない。何か考えているのかな、と思いながら振り返ると、サラの姿はどこにもなかった。
慌てて周りを見回す。サラはある店の前で品物を見ていた。布を手にとっては平置きの台に戻し、また別な物をとる。
近づいていくと段々と彼女が何を見ているかラキアに理解できた。彼女の裂けて太股が覗いている服に目線を送る。
「サラ」
サラは声に鳴らない悲鳴を上げた。
「驚かせてごめん」
「ううん、気にしないで」
サラはラキアに笑顔を浮かべながら、後ろ手で見ていた服を台に隠し戻す。
「宿に行こう」
「服、欲しいの?」
サラの声を遮って、ラキアは問うた。
「ううん、いいのいいの」
ラキアの身体を押し、サラはその場の退散を願う。しかし彼にはそれが届かなかった。サラの細い肢体を避け、店番として機能していない、寝ている老人に声を掛けた。
「気持ちよく寝ているところすみません。服が欲しいんですけど」
軽く揺さぶると、老人は呻きゆっくりと目を開いた。
「服が欲しい……?」
「はい」
「お前さんがかい?」
首の骨を鳴らし、老人は椅子から立ち上がる。関節が鳴っていそうな足取り。
「いえ、僕じゃなくて、こっちの女の子に」
「私いらないよ!」
サラは全身全霊をもって否定したが、ラキアは聞く耳持たずある一点を見つめた。サラはそれに気づき、慌てて手で隠す。
「これは綺麗な子だね……ばあさん、客。客だ」
「あの……私、私」
サラがたじろいでいる内に、店の中から老婆が出てきた。彼女を一目見て驚いた後、心底楽しそうな表情になる。
「この子の服を見繕ってやってくれ」
「こんな綺麗な子をかい。あたしゃ張り切ってやっちゃうよ」
老婆はうきうきを隠さずサラの腕を掴むと、軽い身のこなしで店の中へ連れていく。サラは観念して老婆に引かれるままだったが、その足取りは決して重くなかった。
ラキアは微笑み、その背中を見送る。
「ほっほっほっ、恋人さんへのプレゼントかの」
ラキアの目線の意味を勘違いして、老人は言う。途端に彼の顔は驚きに転じ赤くなった。
「ちっ違いますよ! 恋人じゃありません!」
また、こちらも赤くなっていた。
「違います! そんなんじゃありません!」
おばあさんはその返答に年寄り独特の笑い声で返す。布の塊から一着、服を引き出しては、鏡の前に立つサラに合わせた。
「可愛いね、可愛いね」
合わせた服が可愛いのか、サラの返答が可愛かったのか、どちらともとれる言葉をおばあさんは繰り返す。
サラは赤くなった頬を見ないように、鏡から目線を外した。心がばくばくする。頬は熱を帯びている。
「これなんか、いいんじゃないかい?」
おばあさんの言葉にはっとして、思わず鏡に目線を戻す。色の大人しめなワンピースを着た少女がそこにいた。
サラの口から思わず言葉が漏れる。
「………これなら、ラキアの隣を歩いていても、違和感ないかな………」
彼女は自身の呟いている言葉の意味を理解していなかった。物色しているおばあさんはその言葉をしっかりと聞き、喉の奥で笑う。
「お似合いだよ」
おばあさんの言葉にサラは何を言ってしまったのか気がついた。さっきよりも顔を真っ赤にさせ、思わず頬を手で覆う。持っていたワンピースが板張りの床に落ちた。
「あ、ごめんなさい!」
慌てて拾おうとするサラの横で、おばあさんは物色していた物を置く。靴だった。踵の当たる音でサラは目線を上げる。
「要らないものだから、あんたにあげる。その靴じゃあ道中歩きづらいだろうし、安っぽいこの服じゃ合わないからね」
自重じみた笑みを浮かべる老婆の瞳は、サラの足元を映す。ヒールの高い、黒光りする靴の内側は、靴擦れで赤くなっていた。ラキアの知らないことをおばあさんは一目見ただけで言い当てたのだ。布が乱雑に掛かっている椅子を引っ張り出し、サラを座らせる。靴を脱ぎ、独特の匂いがする軟膏を塗る。少し傷が痛んだ。
「優しそうな彼だから、これぐらい言ってやりな」
「でも……こんなことで心配掛けたくないです」
「なぁに言ってんだい。言わないと別な余計なことまで心配し出すよ」
老婆の微笑を受け、サラは頷き薬の塗られた箇所を触る。走った痛みは軽いもの。サラはラキアの顔を描く。
(心配させないと隠したことには痛みが伴うのね……じゃあ、ラキアは)
彼の笑顔が嘘くさいことに、彼女はとっくに気づいていた。彼の苦悩は何なのか。自分に何か出来ないのか。模索し、結局答えは出ず、他人だということに痛感させられる。そしてただ笑うだけ。
彼の痛みはどれほどのものだろうか。多分、これぐらいの痛みじゃ比にならないのだろう。
(いつか私にそれを教えてくれる?)
瞼が下り、睫毛が震えた。
「薬、痛かったかい?」
おばあさんがその表情を見て、心配そうに声を掛ける。サラは首を振った。
「……言わなきゃ、って思っただけです」
「そうかい、無理はいけないよ。そろそろ着替えてお披露目しようか」
おばあさんは深追いをしなかった。ただ優しくサラの両肩を掴み、朱色に染められた布の中へ通す。
サラはそのおばあさんの優しさをありがたいと思いながら、更衣室となる布の中で頬を叩く。何か決意した表情を彼女は浮かべた。
サラを待っている時間は、老人との会話で潰した。と、言っても、実際は老人が一方的にからかっていただけなのだが。
奥から物音がして、老婆がにたつきながら出てきたのにラキアは気づいた。その後ろから付いて出てくる彼女。
「どっ、どうかな?」
俯きながら訊いてくる姿は普通の少女だった。
「えっと……あの」
ラキアは顔を真っ赤にさせ、視線を彷徨わせながら言葉を探す。何も出てこなかった。おばあさんがサラの後ろで笑っている。
「似合ってるよ……可愛いよ」
出てきた言葉にラキアの顔はこれ以上ないくらいに真っ赤になった。
サラも恥ずかしさに俯く。
「初々しいねぇ」
当人より他者の方が恥ずかしくなる光景だった。
少女が囁いている、呪詛を。暗い双眸が睨んでいる。
『……………、貴方の幸せを、赦さない』
目を覚ますと、そこには蝋燭を持ったサラがいた。揺れている炎が彼女を浮かび上がらせる。
悪夢の続きのような気がした。今までも夢だったが、これも夢。今すぐにでもサラの腕が伸びてきて、自分の首を絞める。そんなことがラキアの中で安易に想像できた。
サラは首を傾げ、燭台を持っていない手を伸ばす。
想像どおりだった。彼女の表情は豹変する。そして呪詛を、自分に『幸せなどない』と……
思わす瞳を閉じた。想像が現実になることが怖かった。
「ラキア」
彼女の手は。
「大丈夫?」
彼の横を通り過ぎた。
ランプの笠を外し、持っていた蝋燭で火を灯す。
ラキアは瞼を開き脱力した。やっと現実であることを実感する。明るくなった部屋で、サラは眉根をひそめ、彼の横に腰を下ろした。
「うなされているみたいで……起こそうと思ったんだけど」
「あぁ……うん、ありがとう。もう大丈夫だよ」
シーツを皺になるまで掴み膝を抱える。顔を見られたくなくて、抱えた膝に埋めた。汗で濡れた前髪が気持ち悪くて鬱陶しい。
サラはじっとしたまま、まるで人形のようにラキアを見ていた。宿屋の時計が時を告げるため、鐘を一回鳴らす。
「あのね」
静かに口を開く。
「言いたいことがあって、来たの」
「………うん」
「ラキア苦しそうだけど、本当にどうしたの」
率直なサラのセリフにラキアは微かに痙攣を起こす。
「別に無理して言わなくていいけど……私は……ラキアのこと」
「ごめん」
少女の呪詛が脳内を駆け巡る。
「今は言えない………」
搾り出すような声だった。
「いつか、その時がきたら……だからごめん」
「私もごめんなさい」
「……………」
ゆっくりと顔を上げる。その顔は凄く醜いものだとラキア自身気づいていた。
まるで彼らの心を体現するかのように、その後三日三晩雨が降り続いた。二人は話し合い、意見が一致して雨が降り止むまで、宿屋に居座ることにした。
ラキアの心情は道中が危ないから。サラの心情は、ラキアが壊れそうだから。
二人の気持ちは少しばかりずれながら、やっと空は晴天を迎えた。
「おはよう」
ラキアは控え目にノックをして扉を開けた。中ではサラが鏡の前に立ち、髪を梳いているところだった。
「やっと晴れたね」
ブラシを鏡台に置いて、サラは微笑む。
二人の中で、あの晩の出来事はほとんどないものとなっていた。次の日から普通に会話し、笑い、どこかカップルのような雰囲気まで周りに見せた。ラキアはそんな雰囲気にどきまぎしたが、それ以上に触れないでくれるサラに感謝した。
お気に入りとなったワンピースを翻し、サラは立ち上がり荷物を肩に掛けた。
「じゃあ、行こっか」
「サラ、荷物持つよ」
「いいよ、この服になってから体軽いし、そんなに気使わないで」
「そ……そっか」
あの日の穴埋めをしようとしたが、あっさり失敗した。
宿屋を出た通りは、久々の晴天に喜んでいた。葉に付いた雨粒が光る中で、サラは両腕を広げその足をまだ見ぬ地へ急かした。
「あ、ラキア。この村出る前に、おじいさんとおばあさんところに挨拶しよ」
サラは自分の提案に満足して、足を服屋に向ける。ラキアはその明るさに救われ続けながら彼女の背を追った。
店先におじいさんは寝ていなかった。物静かな雰囲気が店全体を包んでいる。サラは奥から人を呼ぼうとしたが、その前に張り紙を発見した。
『現在留守』
墨で書いた字はおじいさんのようだった。
「留守か……おばあさんも居なさそうだね」
サラは実に残念そうに、裾を持ち上げては指から離した。
「仕方ないね。またここに来たら、会いに来よう」
「うん、記憶が戻っても」
紙から目線を外して、ラキアに黒い双眸を合わせる。瞳の中に唖然とした彼の顔が映り込んだ。
(そうだ、彼女は記憶が戻ったら………離れてしまうのかもしれない)
今までその結論に至らなかった自分をラキアは複雑に思った。自分にとって別れは……
サラは眉間に皺を寄せ始めたラキアに向かって腕を伸ばした。彼の腕と絡めて、険しい顔をほどくようにその温もりを分ける。ラキアは瞳を見開くと、その顔を切なそうに歪めて、彼女の腕に触れた。そのままの格好で歩み出す。
サラの腕に力が入った。まるで『ずっと一緒にいようね』と言っているみたいに。
ラキアも触れている手に力を入れようとした。
『死神』
サラの腕を振り払っていた。彼女の驚いた顔が瞳いっぱいに広がる。
「………あ……ごめん」
「ううん、大丈夫だよ」
払われた腕を押さえ、彼女は笑う。
自分が嫌になった。彼女にこんなことをするなんて。過去の台詞をこんな時に思い出すなんて……
でも、どうしても、彼には一瞬、サラが。
血にまみれた姿に見えたのだった。
「ラキア、行こう」
サラはもう腕に触れなかった。彼の半歩前を歩き出す。ラキアは力を入れようとした手をサラの背に伸ばしたが、それは触れることなく重力に従い落ちた。
『死神は触れちゃいけないよね、だって………』
少女が耳元で囁く。
彼女が振り返る。
彼の顔には仮面が張り付いていた。
どんな会話をしたかは覚えてない。どんな台詞を吐いたのか、どんな言葉を彼女は紡いだのか、全くと言っていいほど思い出せない。気づけば仮面は剥がれ落ち、影に隠れ、いつもの自分に戻っていた。多分。戻ったとラキアは思いたかった。
村を出てからの道は、剥き出しの土と水溜り。そして左手は崖。安全な方にサラを歩かせ、ラキアは相槌を打っていた。
「……あれって……」
話を中断させ、サラは先を指差す。誰かがふらつきながらも走っていた。折れ曲がった腰、前に出た皺だらけの手、必死な形相。
「おじいさん!!」
「おぉ、お前さん方は」
肩で息をしながらおじいさんは止まる。背後をちらりと見た後、ラキアにすがり付いた。
「ばっばあさんが、崖から落ちた!」
「えっ…それはどこで」
「この先にある大岩の近くだ。お願いだ、助けてくれ!」
「サラ、村に戻って人を呼んで、僕は先に行って降りてるから。おじいさんのことも頼むね」
「うん」
頷いたサラに震えているおじいさんを介抱させ、ラキアは道の先を駆けた。
「……ばあさん」
「とりあえず村に戻りましょう、ね」
「あぁ……染料なんか採りに行くんじゃなかった」
「染料?」
「服に使う花の汁さ……あ」
ぴたりと止まってしまったおじいさんの背をサラは懸命にさする。おじいさんは緩慢な動きで首を動かし、開けるだけ開いた瞳にサラを映りこませると口を動かした。
「ばあさんを追って若者が一人降りていったんだが……大丈夫かね……」
目印となる岩は分かりやすいところに堂々と立っていた。それと連なる小さな岩にラキアはロープをくくり付け、身体に結びつける。足元に気をつけながら崖を降り始めた。
下方で風が駆け抜ける。それに合わせて何かがさらさらと鳴る音。手と足場を確保してから下を覗くと、眼下にあったのは草地だった。草が長そうなことにほっとする。もしかしたらおばあさんはこれがクッションになって怪我をしていないのかもしれない。
右手がずるりと落ちた。欠片が音を立てて落下する。ぞっとした胸を無理矢理落ち着かせ、消えていった欠片の方を見つめる。
こんなところで死ぬ気は……ない。
彼女がまた頭上でくすくす笑っている。ラキアは頭を振るい、離れた手を岩肌に食い込ませた。今は君に構っている暇はない。
慎重に歩を進める。幻想はあっさり消えてくれた。
どれくらい時間が経ったのだろう。気がつけば、足は柔らかい草地を捉えていた。命綱だったロープを外し、その場に垂れさせると辺りを見回した。
(おばあさんは……)
ラキアの目が見開かれ、その瞳にモノクロの者が映る。彼女がゆっくりとこちらを向いた。
「お前は」
印象的な赤い瞳。アルビノの女。
とっさにラキアは剣に手を掛ける。女は丸腰だったが、どんな手を持っているか分からない。あの手練れ、只者じゃない。
「……もう戦う気はないよ」
女は無表情で鼻でだけ笑った。腰に手を当て余裕しゃくしゃくと立ち上がる。その背におばあさんを横たわらせ。細い身体には彼女の上着。
「介抱……したんですか」
ラキアの問いには答えず、女はおばあさんの顔を見つめる。その顔はどこか優しいことに彼は気づいた。きっと、この姿が本当の彼女………
なら、何故、貴女は剣をとった?
やっぱり、あのことに関する………
「貴女は僕の『アレ』を知っているんですか」
「アレ? ……嗚呼、『アレ』………ね」
女の言葉は呟きに近く、余計にラキアの心を掻きむしった。全てを知っている、この人は。
「僕を殺そうとしたのはそれが」
「ラキア・ペルセフォネ」
心臓を直接掴まれた感覚。身が竦む、喉からはそれ以上声が出ない。女の瞳が真っ直ぐにラキアを射抜く。
「お前を殺すのは得策でないのが判った。だが、同じことを繰り返したならその時こそ、私は本気でお前を殺る」
同じことを繰り返したなら。
(僕だって、彼女を血の海へは落としたくない、でも僕の手じゃどうにもならない!)
叫びたい言葉は全て声にならず、口がぱくぱく動くだけ。
女はラキアに興味を失せたのか、天へ目線を向けた。
「ラキアー、大丈夫!?」
その目線の先から彼女の声がした。
サラは村人と一緒に、人力のゴンドラに乗ってこちらへと降りてくる。
「メキアラだ」
彼女に気をとられている内に、女は上着を羽織っていた。自己紹介をしたのだと理解した時には、メキアラはラキアに背を向けていた。その背には未練も後腐れもない。
「貴女は」
近づいてきたサラの言葉にメキアラは返答しない。
「メキアラさん」
知らぬその名と残された言葉は、ラキアの胸に刺さっていた。