終
「世の中ってこんなに平和だったんだね」
アクエは伸びをしながら天を仰いだ。草原に座り込んでいた彼女はそのまま後ろに倒れる。腕を伸ばしたが、とてもではないが天には届かない。
あの日、光を見た。優しくて穏やかな雨となって大地に降り注いだ。その雨は一瞬の出来事のようでもあったが、それでも今もアクエの網膜に焼き付いている。
懐かしい香りを感じた。もう手に入ることはないのだろう。
「失敗しちゃったな……」
生きていれば会えると思っていたが、世界がまず違うことをすっかり忘れていた。神様も自由に行き来させてはくれないようだ。
「あたしは元気です。ちょーろーも、コウおじさんは相変わらず飲んだくれで、ザクロちゃんとは友達。ラキアはサラちゃんと元気にしてますか? サラちゃんを泣かせたらビンタしに行くので覚悟しててください」
言い終わりにっと天に向かって笑う。この世界が平和になったということは、彼はちゃんと逢えてその責務を果たしたのだろう。
魔物は相変わらずいるが、それでも以前に比べれば脅威ではない。
「アクエ」
「はーい、今行くよ」
母に呼ばれて、アクエは身軽な動きで身を起こす。
自分の力をここで使う。そう決意して両親の元に下った。祖父は渋っていたが、それでも折れぬ彼女の瞳を見て、静かに頷いたのだった。
今はまだ弱い。いつかもっと強くなったら。
「見ててよね」
彼女は母の背を追って駆け出した。
嘘つきな神だった。生きてさえいれば愛を教えてくれると言っていたが……
「いなくなるのはずるいのではないですか?」
赤い宝石の埋め込まれたブローチを弄りながら、イオはそうぼやく。光の雨に目線を奪われている間に、彼女は忽然と姿を眩ませていた。
怒りも哀しみも知ってしまったが、いまだに愛はよく分からない。何故、神に問おうとしたのかも結局イオの中で結論は出ていない。
認めたくないのかもしれなかった。
麻袋に数冊の本と非常食を詰め、それを肩に担ぐ。鏡に映った自身の姿に嘲笑が零れた。
「似合ってませんね」
「行くのか」
扉に寄りかかったカリストが問いかけてきて、イオは鏡越しに軽く頷く。
「もう『イオ』ではなくなってしまいましたから」
「後任は?」
「優秀だと思う人材を適当に当ててください。それにイオと名付けるかはそちらに任せます」
「お前それでいいのか」
「……適任者であれば、どうぞ」
小首を傾げながらシェイは部屋を出て行く。
「一生現れないだろうな……ひとつ、元同僚の忠告だ」
シェイの足が止まり、振り返る。カリストの指は彼の胸元を指した。
「それを山賊に奪われたくなければしまえ。お前の腕力で奪い返すことなんて不可能だからな」
「忠告感謝します」
気に障るように笑いながら赤いブローチを麻袋にしまう。本当にお別れだと言わんばかりに背を向けて、光差す廊下を真っ直ぐ歩いて行く。
「変わったんだか変わってないんだか……」
死したイオの死体を回収するように、カリストは彼の残した資料を集め始めた。
ここはとても静かで落ち着くが、物寂しく感じられた。甘い匂いは彼女を彷彿させる。
「神として、私は見守り続ける」
それは誰に対する宣告だったのか。
玉座に座りながら、神は目を閉じる。光が二つ流れて弾けた。
背後に現れた気配に閉じていた瞳を開く。神は振り返り、その者に微笑んだ。