第20話 心
もう誰もいなくならないことを熱望していた。今、抱いている感情は何なのだろうか。この選択を間違えば、失うのは一つではないのは分かっている。それでも、願っているのは一人だ。
どれぐらい走ったのだろう。気がつけば周りは荒野となり、人は誰もいない。しかし行く手を阻むモノは蔓延っていた。
低い唸り声を上げて、羽の生えた化け物がラキアに向かって突撃する。誰かを守るためにと独学で振るっていた剣を構え、薙ぎ払った。剣術が上手いとは到底いえない動きだったが、悪魔は二つに切り裂かれ、絶命した。
(絶対、止まらない)
こんなところで倒れるわけにはいかない。
まだ見えない先で彼女が待っている。
黒い靄を振り落とし、ラキアは真っ直ぐな瞳で前を見据えてまた駆け出した。
「なるほど……」
その群れは最早黒い塊といっても差ほど間違いではなかった。狂ったように舌を出したその獣は、真っ直ぐに獣耳を持つ者達を睨みつけている。
「アクエの予言どおりになるとは思わなかったぜ……」
今まで見たことのない真剣な表情でコウは前を見据える。その手に酒瓶はなく、大振りの刀が握られていた。
「全員に告ぐ。死が誇り高いと思うな。生きて、その戦果に胸を張れ!」
ヒイカの宣戦布告に場の空気が最高潮に達した。ぴりぴりした空気を肌に感じながらアクエは生唾を呑みこむ。腰を低く構えて、拳を固める。
今なら何故両親が自分とこの場を引き離していたか理解できる。でも、もうアクエは子供ではなかった。誰かのために、自身を使いたかった。
ヒイカの強い瞳がアクエを射貫く。大丈夫、とアクエは頷いた。
サイバの刃が白銀に輝く。
「行くよ! みんな!」
「本格的に大変なことになりましたね」
その街はほとんどの期間雪に覆われている場所だった。しかし今は辛うじて道ばたに少しある程度で、ないと言っても差し支えはない。しかし道には雪の代わりに傷ついた人々が横たわっていた。
「おい、誰か手が空いているなら手伝え!」
村人の声に即座に動いたのはメキアラだった。半壊した建物の中からは微かに人の息づく気配が感じられる。しかし悠長している時間はなかった。
男達と騎士数名が屋根をどかそうと手を掛ける。
「そこよりもこっちを動かせ!」
メキアラの指先は一点を指差す。その先には気配があった。
メキアラの突然の言葉に男達は狼狽えたが、遅れて付いてきたイオが頷くのを見て、即座に持つ瓦礫を変える。一枚剥がしたところで、少女の半身が出てきた。
「メリル無事か!?」
男の一人が群れから飛び出して彼女にすがりつく。それを他の男が引きはがしながら騎士達は彼女に掛かる瓦礫を撤去した。
「もう大丈夫だ。あとは私がやる」
身体が全て出たところで、メキアラは彼女の元でしゃがみ込んだ。先ほどよりも弱くなっている焔を消してはいけない。心配そうに見つめる男に誰かの気配を感じとったが、すぐに意識は彼女のみに注がれた。
瞳を閉じると、小さな光が弾けては点滅を繰り返す。
(頼む、間に合ってくれ)
手のひらを彼女の胸に翳す。唇から天界の言葉が零れ、白く輝く魔方陣が彼女と手のひらの間に浮かび上がった。
(生きたいと手を伸ばせ。拾ってやる)
彼女の持つ生命の煌めきがまた一つ弾けて光の粒をまき散らす。いくつもの光の粒が渦を巻き、そしてその中から花弁を幾重も重ねた光が花開いた。花から立ち上る光の靄は指先を形成し、メキアラに向かって伸びてきて――
「メリル!」
「……ここ……は……」
「大丈夫だ、もう大丈夫。安全なところに行こう」
男に抱きかかえられた女はゆっくりとメキアラへ目線を向ける。
「暖かかった光は……貴女?」
……ちゃんみたい。
その言葉にメキアラは微笑んで、男の背に手を掛ける。彼は慌てて頭を下げると彼女を抱きかかえて、避難所へと消えていった。
「緊急患者はメキアラ様の元へ!」
「……死人は相手できないからな」
「神様であるのなら死者の蘇生さえ容易そうですが、出来ないことってあるのですね」
この時まで……と睨みつけたが、イオの顔は全くふざけておらず、メキアラの中でまたひとつ違和感が生じた。いつもであればきっと小馬鹿にしていたのだろうが、その気配は全く感じられない。
壊れていたものがもっと壊れていく――
その先にあるのは、再生だろうか。
(こいつにとってそれが再生といえるのか……)
崩壊の先にあった終焉を知っている。彼女は一気に崩れ堕ちた。そして終焉を選んだ。
今の彼女がそれを拒んでいるのか、それとももう既に諦めが入っているのか。失望からの再生など、どれほど足掻けば手に入るのだろうか。
それでも……
背筋がぞくりと粟立つ。
せめて彼女に祈ろうとは思った。しかし脳内に映った彼女は、『今』の姿だった。終焉が顔を出した。
(諦めた……!? ラキアはまだか!?)
地面が揺れて悲鳴が辺りにこだまする。靄が立ち上り、その闇から異形のモノが這い出てきた。
未だに神の領域にいたメキアラは動けなかった。彼女の顔は諦観し、闇の王のものとなっていた。無こそ全て。そこに彼が入り込む隙間は……
メキアラの身体が後ろへと引かれる。それとともに現実に戻ってきたメキアラの瞳に飛び込んできたのは、飛び散る赤だった。
「何をやっている……」
理解できず怒鳴るはずの声は震えた。自分は神だ、悪魔の
刃に傷ついたところでどうにかはなる。でも目の前で傷ついた男はただの、武術の心得さえ持たぬただの人だ。
否、混乱しているのはそんなことではない。
彼が庇う行為などするはずは……
ふらつきながらイオは悪魔を睨む。その足下は自身の血で濡れていた。
「何やっているのでしょうね」
悪魔の掻き爪がイオに襲いかかってくる。
メキアラは考えるをやめた。即座にレイピアを手の中に出現させ、それを迷いなく投げる。一点の狂いなく眉間に突き刺さったレイピアは神の力を解放し、光となり爆ぜて悪魔を呑みこんだ。
イオの身体が揺れて、その場に崩れ落ちる。地面に倒れたその身体をメキアラは抱きしめた。
「……まだ死んでませんから……治してもらえますよね?」
「当たり前だ! こんなところで死んだら許さない」
魔方陣がイオの傷口に吸い込まれる。傷も流れた血もそれなりだったが、彼の中の光はまだ途絶えるところにはない。しかし叱咤してやらないと棄てそうでもあった。
彼はメキアラの言葉に口角を上げた。
「メキアラ様の命令であれば」
「ああ、そうだ、命令だ。私からのな」
「なんでしょう……神からの命令ではなく、貴女からの命令だということが嬉しいような……血でも失いすぎましたか」
「そうだろうな。命令されて喜ぶなんて正気じゃない」
「喜び……そうですか、私は喜びを知ってしまったのですね」
光が収束して、男にしては白すぎる皮膚が切り裂かれた服から覗く。周りでは新たに現れた悪魔と騎士との戦いが繰り広げられていたが、イオの口は動き続けた。
「もう、『イオ』ではないと……」
抱き起こし、彼の腕を肩に回す。
「お前はお前だ。喜びも怒りも哀しみも知っているのは人間として当たり前だ」
「でもそれでは『イオ』ではないのですよ」
命ではない、何かを手放そうしている男を戦火から引き離すように引きずる。傷は治っていたが、彼の足取りはどこかふらついていた。血と一緒に何かが流れた。
不気味な声を漏らして襲ってきた悪魔をメキアラは一蹴する。しかし背負った男の腕は放さなかった。
彼はもう周りが見えていないのか、神に懺悔するように喋り続ける。淡々と、淡々と。自分が何者であるか、確かめるように。神に提示した。
「シェイ……」
「何だ」
「もう『イオ』ではないのです。『シェイ』なんです……神様は愛を教えてくれますか」
見つめられた瞳は孤独に喘ぐものだった。腕を伸ばす先がここでいいのだろうかとメキアラの中で疑問は沸き上がったが、否定は含まれていなかった。
「……生きてさえいればな」
「行かれるのですか」
顔を背けたメキアラにシェイは何かを感じとる。行かないでとは叫ぶような子供ではなかったが、手を離してはいけないような気がした。
「……いや、ここは私の出る幕ではないだろう。私はあいつに、あいつらに賭ける」




