第18話 強者
「いつまでこうしていればいいんだか……」
甲冑の間から男のぼやきが漏れる。それを仲間の男は手の動きだけで制した。
騎士団にのみ真実は伝えられている。
厄災となる神の再降臨に向けて、各自民間人の援護にあたれ。
それを心の底からの使命だと思っているのは一般兵だけだった。貴族出の男からしたら不本意極まりない。兜を上げて周りを見れば平和この上なく、田舎臭い空気がさらにやる気を削ぐ。
神との交戦であれば少しはやる気が出るものを、と思ったが、その指示は端から出ていない。どうせ天の主神の仕事かと舌打ちをこぼそうとした瞬間、鞘から剣が引き抜かれる音がした。直後に重たい音が辺りに響き渡る。
「何だ……」
足元に胴と首を切断された黒い物体が横たわっている。
「悪魔だな」
「そんなの急に出てくるのかよ」
「もう少しなんだろう。ぼさっとしていると、次は死ぬぞ」
化け物としか言いようのないその物体は、黒い靄となり飛散した。
「神に愛される……」
男の独り言が、灯りのついていない部屋にぽつりと零れる。彼を照らすのは月光のみで、彼と同じ配色の寒々しい光を窓辺に落としていた。
彼は月色の瞳を閉じた。脳裏に浮かぶのは先ほど思っていた、紅い瞳の神。
愛を知ることは――
「何を思っているのでしょう、私は」
零れた笑い声は乾ききっているものだった。
足音の響きそうな歩き方でメキアラはとある人物を探していた。胸中に宿った無数の目は殺意をぎらつかせている。
「アクエ!」
やっと見つけたその娘に向かってメキアラは声を荒げた。
「どうしたのメキアラねぇちゃん」
彼女はきょとんとした顔で首を傾げる。
「貴様、何故こんな場所にいる」
城内部から彼女はよくいなくなった。しかし、飯時には確実に部屋にいるため、誰も気には留めなかった。メキアラも飯時まで待っていればアクエを簡単に見つけられただろう。しかしそんな悠長に待っている状況ではなかった。
無数の殺意は今にでも襲い掛かってくるのだ。
「武術の練習だよ」
客をもてなす為の場ではないため、木々の覆われたこの場所の足場は自然の姿を残していた。いくら型をやっても支障はない。きっとメイドも怒らないだろうとアクエが見つけた練習場だった。
「その武術、実践に生かす気はないか?」
メキアラの言葉にアクエの表情が硬くなる。
「敵が来るってこと?」
「そうだ、しかも……お前の世界に、な」
「えっ……狙われているのはこの世界じゃ」
アクエにとっての武術は、ラキアの為にあるようなものだった。失恋してもラキアを、この世界の為になることをしたかった。その為にこれから来るであろう災厄に向けて、この場所を探してまで腕を磨いていたのだ。
「この世界だけじゃない」
メキアラは自分の浅はかな考えに奥歯を噛みしめる気持ちでいっぱいだった。アクエの世界にまで手が伸びる可能性はあったようなものだ。それなのに、何も考えておらず、対処もしていなかった自分が滑稽でもあった。
(神は在るだけ)
それが神の定義でもある。差し伸べた手を掴むのか、それとも突っぱねるのかは人が決めることだ。しかしメキアラがしていることはそれ以上のことであろう。
神自らが人の腕を掴み、救い上げる。
堕ちてしまったティニアに対する罪滅ぼしであるのか、といえば首を横に振るのかもしれない。それは、ラキアに託したのだ。
(愛とは……なんだろうな)
「メキアラねぇちゃん……あたしは何をすればいい」
アクエの固い口調に、メキアラは表情を引き締める。掴んできた腕は信頼のおける人の手だ。彼女なら、多数の人の手を掴んで救い上げられるであろう。
そうでなければいけない。
「お前を元の世界へ送る。魔物が凶暴化していたのはきっとサ……あの神の力の影響だ。となれば、向かう先は人だ。だから、お前には元の世界で魔物と戦ってもらいたい」
「いくらでもいいよ」
「ただ、お前だけの力では数が多すぎる。ラキアがサラを止める時まで持つとは思えん。だから、力のある者を率いてくれ」
『率いる!?』と問い返そうとした言葉は口までいかなかった。メキアラの目がまっすぐアクエを射抜く。信託だった。
メキアラの指先がゆっくりと伸び、そして眉間に触れた。
途端にアクエの感覚は輪郭を失う。まるで自身が溶けているように感じたが、恐怖心は湧いてこなかった。下がった瞼の裏側では光がいくつも弾けている。
そして、一際大きな光が弾け飛んだ瞬間、身体の感覚が急速に戻ってきた。
「……っ!!」
背中を強かに打ち付けたが、痛みはそれほどでもなかった。鼻腔には濃いくらいの緑の香り。それと。
目を開けばそこにあったのは満天の星空だった。
あっさりと帰ってきた。
(ラキアに何も言わなかったな……)
さよならも、何もなく帰ってきてしまった。
(さようなら、じゃないか)
胸元で拳をつくり強く握る。感傷に浸かっている暇はない。
身体を起こして辺りを見回せば、無数の小さな灯りがついている場所があった。ほんの微かだが、人の気配もする。メキアラが言っていた『率いる人』というのがあそこにいるのだろう。
目の前に広がる風景は、自分の世界だとしても記憶のないものだったが、アクエは灯りに向かって一心に駆け出していた。ラキアとのもう一度を作るために、自分が倒れるわけにはいかない。
遠くで獣の咆哮がこだまする。
(あんた達をやっつけるのはあと……!)
自分の力が十二分に通用するとは思ってはいない。足掻くように城の裏庭で型の練習を繰り返した。ほしいものを手に入れるために。
近づくほどにその灯りが味方の力を表しているように見えた。小さかった灯りたちはそれぞれに煌々と燃え上がり、簡単に消えるものではなかった。
丸太で作られた門は重厚で簡単に折れるものではなかったが、入り口は開いていた。あまりの立派さにアクエは少しばかり呆けたが、口を真一文字に結び、凛とした姿でその門をくぐった。
「ヌの一族、アクエ・アヌと申す。ここの長に話があって来た! この時間で失礼ではあるが謁見を申し込みたい!」
「アクエだと!?」
飛んできた声に、神経を張りつめさせていたアクエは目を見張り、即座に声の主へ顔を向けた。
ガラの悪そうな顔に無精ひげ、酔っていないことを除けば、最近見た顔だ。
「コウおじさん、何でここにいるの!?」
「それはこっちの台詞だ!」
真剣だった世界が途端にギャグに転じた気がした。しかしメキアラは毛頭そんな気はないだろう。
(コウおじさんが率いる人のわけないよね……)
アクエの声を聞いてか、それともコウの叫びでなのかは分からないが、同じミミを持った人間が続々と櫓から顔を出した。眼光の鋭さが尋常ではない。皆、手練れだということは空気で判る。
そのピリピリとした空気に呑みこまれぬよう、アクエは夜の空気を肺に閉じ込めた。澄んだ気が身体を落ち着かせていく。
「コウおじさん、ここの長は誰? そこに連れて行って欲しいんだけど」
「突然来たと思ったらなんだ? そんなの許すわけねぇだろ。何の用で来たか知らねぇが帰った方がいいぞ。ここはお前みたいな娘が来るところじゃねぇんだ」
「あたしはもうただの娘じゃない」
神から命を受けてここにいるのだ。帰る場所などない。今は、まだ。
「アクエはアクエだろうが」
「……おい、アクエ・アヌって長の」
「馬鹿野郎、ここで出てくるんじゃねぇよ」
長身の男が紡ごうとした言葉に対し、コウは彼の頭を叩くことで遮断した。しかし、アクエは直感で長が誰であるか悟った。どんなにごねても連れて行ってくれないのなら――
「あ、おい! アクエ!」
コウの横を駆け抜けた。
制する声はすぐに後方へと掻き消える。長がどこにいるかなんて分からなかったが、ただ奥へとアクエは足を動かした。
(この先にあの人たちが)
メキアラの言う『率いる人』がもしもアクエの想定している人物たちであれば、コウがここにいる理由もなんとなく察せる。
立派な櫓がいくつも作られ、松明は太く簡単には消えそうにはないものに変わっていく。人の数も増え、その気配は最早、一般人では怖気づくほどのものになっていたが、アクエはその間を臆することなく駆け抜けた。男の一人が侵入者かと刃を抜こうとしたが、隣にいた別の男に慌てて止められた。
彼女に手を出してはいけない。
アクエが何者であるか理解した者たちはやがて、彼女に道を開けた。膝をつく者や頭を下げる者まで現れたが、アクエはほとんど見てはいなかった。ただ、譲られた道の先だけを見つめ続ける。
そして、その者のいる部屋に辿り着いた。
広く立派なところを想定していたアクエにとってその狭さは意外なものだったが、壁に掛かった装飾品の絢爛さに、彼が長であり、ここが彼らの総べる場なのだとアクエは即座に理解した。
アクエは即座に膝をつき、首を垂れる。
「突然の訪問失礼仕る。神の意志の名のもとにここに参った。長、サイバ・サヌ。お力を貸してくだされ」
金ともとれる橙の髪を持つ男は、眉間に皺を寄せてアクエに固い表情を向ける。
「……アクエ」
父の声は昔よりも、幾分か掠れて聞こえた。
「失礼承知でございます。事が終わりましたら、いくらでも罰を受けましょう。しかし、今、この大地は危機に晒されております。どうか、この団を率いてその危機と対峙していただきたい!」
顔を上げるとサイバの鋭い眼光と目があった。
父と娘の感動の再会などなかった。今はそれでいい、それどころではないのだ。
(どうか、お父さん……)
表面は虚勢を張っていたが、内心は祈るような気持だった。
突然現れ、世界の危機だと叫び始めるなんてなんと言われるか……それでも娘は父を信じた。
「アクエ、神とはなんだ?」
その言葉は父から発せられたものではなかった。アクエは身体ごとその声の主に向ける。
彼女が敬愛してやまない母の姿がそこにあった。
「この世界には神がおられます。空想ではございません。私はその者を見、その者に云われ、この地にやってきました」
「……お前が嘘をつくとは思ってはいませんよ」
その言葉だけは、何故か優しく感じられた。まるで娘の言葉を信じていますと云われているようで、アクエの心は震え、思わず泣きそうになる。
(まだ、だめ……)
全てが終わるまでは縋り付いてはいけない。
頭を軽く振り、溜めそうになった涙を振り払う。
「どうか、お力添えを。魔物に対抗するためにはこの団の力が必要不可欠なのです」
あたし一人では、駄目。
この身、いくらでも捧げるから。
お願い、みんなの命もあたしに預けて。
サイバは瞼を伏せて頭を横に振った。
「なるほど……魔物か」
その態度と声色にアクエの心に影が宿る。祈るように瞳を伏せた。
刃が鞘から抜かれる音が暗闇に響く。
「ヒイカ、戦だ。準備をしろ。アクエお前もだ」
「お父さん……!」
「父と呼ぶのは戦が終わってからにしろ」
「そんなこと言うと不運が訪れるわ。アクエ、母の背後につきなさい」
「あたしだって戦う!」
「勿論。貴女に背後を任せるのよ。いい? 自身が倒れる時が長であるサイバ、そしてその片腕であるヒイカを失うと思いなさい」
重要な立場を与えられた。娘として、絶対の信頼を寄せるという親の想いだ。
(誰も失わない。だから、ラキア、この戦い終わらせてね)
拳を強く握る。神ととある青年に祈りと願いを託した。