第16話 星の巡り合わせ
奥にどっしりと構えるその建物は相変わらずだった。そしてこの場所の喧騒も、また。この世界が危機を迎えていることなど誰も知ることはない。
メキアラは瞼を伏せて歩き出す。身体はだいぶ軽くなったが、それでも意識すると軋んでいることが分かる。
神の身体なのに。
痛みも脆さも持ち合わせてしまった。人よりも悠久の時を生きるが、それでも時としてこの身体は『人間』のようだ。
(あり得ないな……)
人間のようだ、と思えば、人ではない、とも思い、互いに痛感する。
半端なのだ。きっと。
人を救済するのも半端。神とは本来『在るだけ』だ。手は差し伸べない。
自分がやっていることは神の思想とは少しばかり離れている。それでも何故か、手を出してしまうのだ。
(愛ゆえなのか……これは愛なのか……)
彼女の祈りは愛だった。なら、これも……
「……ん?」
「お嬢ちゃん、珍しい装いをしているな」
「あたしから見れば、みんなの方が珍しいけどね」
足音が消えたと思うと明るい声が聞こえてきて、メキアラは溜め息を吐いた。振り返ればアクエが少し離れた位置で商人から声を掛けられている。
「不思議な髪留めをしてるなぁ。でも、こっちのもお嬢ちゃんには似合うと思うよ」
にこやかに笑いながら、商人は自身の持つ品をアクエの前に差し出す。花と硝子の髪留めが光を反射したが、アクエはそれには目もくれず、自身の頭を撫でた。
「髪留め……?」
耳に指先が触れる。
「うん? 獣の耳を模したそれ、髪留めじゃないのか?」
「え!? これ自前だけど!?」
アクエはよく見なさいとばかりに両耳を掴んで、商人に顔ごと近づく。
その頭が前につんのめった。
「目立つな」
「……メキアラねぇちゃん酷い」
叩かれた後頭部を擦りつつ、アクエは声を掛けた商人から離れる。呆けていた商人は慌てて声を掛け直すが、その時にはアクエは少し遠くから『バイバイ』と手を振るだけだった。
メキアラはアクエが踏み出したのを確認して前を向く。すぐにアクエが横に付いた。
「本当にここじゃあ、ラキアの耳が普通なんだね」
「そうだな……でも元は同じだ」
「ん?」
語尾が聞き取れなかったアクエは耳に手を当ててメキアラに問い直す。しかし彼女は口を真一門に結んで、会話を中断した。紅い眼球を上向きにすれば、そこには天に突き立てたような塔の一角が映り込む。
「行くぞ」
「はーい。ラキア元気かな」
目を覚ませば、そこは薄暗い牢獄ではなかった。明るいランプもふかふかのベッドもいつぶりだろうか。
ゆっくりとまばたきをして、深く息を吐き出す。ここが天国ではないのは分かる。指先から伝わるシーツを撫でる感覚は生々しい。
「……っ!」
胸がずきりと痛む感覚に、ラキアはばね仕掛けのように上半身を起こした。
「忙しい人ですね」
部屋の片隅でイオはくすりと笑った。
「……あ、おはようございます」
胸を撫でる。痛みは一瞬で、今は何も感じなかった。
「おはようございます。何となくあの時とは別人のようですね」
「メキアラさんが入ったことですか?」
「いえ、牢獄での貴方は、死相を感じさせる顔ながら殺意をぎらつかせていましたから。それはそれは怖かったものです」
(嘘だ……)
イオという人間に感情は存在しない。恐怖心など感情を廃棄する際に、一番最初に捨てたものだろう。
それでも彼が云う表情はしていたのだろう。
頬を指先で撫でる。牢獄から解放されたからか、それとも神が奪っていったのか、今は憑き物が取れたかのようにあの時の感情や思想は抜け落ちていた。それでもサラを求める気持ちは変わらない。
俯き、膝に頭を埋めた。
「本当の貴方はどちらなんでしょうね」
「……貴方も」
「はい?」
膝の中で呟かれた言葉に、イオは耳を傍立てる。
「貴方の本当の姿はそれですか?」
「そうですよ」
愚問ですね、と言わんばかりの嘲笑。
それを遮るかのような足音が突然に響き渡った。イオは笑い声をぴたりと止め、扉を凝視する。
「随分早かったですね」
「無駄な体力を使わせやがって」
赤い瞳がイオを睨みつける。
開かれた扉の先には、予感どおりの人物が立っていた。メキアラは威圧するように足音を響かせながら、室内へと入ってくる。
「メキアラねぇちゃん、置いていかないで」
「えっ!? アクエ!?」
メキアラだけだと思っていたラキアは素っ頓狂な声を上げた。
顔だけを出したアクエは、ラキアのその反応ににたりと笑う。
「いつもラキアは布団の上だね」
「あ、いや……」
改めて言われて、そんなことばかりだと思い当たる。しかも意識を戻したあとは……
(何かが終わっている)
サラがいなくなった時は、自身の意識がない時だ。それが誰のいたずらか分からない。あの庭園でのあとも、アクエと出逢った時も。
妹を失った時もそうだった。必死で逃げて、妹が死した直後のことをラキアは覚えてはいない――騎士の頭に瓦礫を振り下ろしたことは彼にとって存在しない事実――気がついた時には自分はベッドの上で傷だらけで寝ていて、妹は土の下だった。
簡素な墓の前でただぼんやりと立ち尽くした。
「それで、神様直々に登場と言うことは、あの堕ちし者の居場所でも分かりましたか?」
「……そうだな、あいつの場所が分かっていたら、まずお前を差し出すな。要らない人間の筆頭だからな」
「私は死にたくありません」
「よく分かったな。目障りだ、失せろ」
メキアラの口角が下がり、神託が下される。しかしイオは薄い笑みを貼りつけたままだった。神の意思には従いませんと言いたげに、音をわざと立てて椅子に腰掛ける。
メキアラは溜め息をひとつ吐いて、ラキアに眼球を向けた。
「身体はどうだ」
「まだちょっと重いですけど、大丈夫です」
「そうか……誰かのせいですまなかった」
「本当にメキアラ様はお節介な神様ですよね。あ、弁償代、神でも払ってもらいますからね」
「お前のせいだろう。払う義理はない」
構う気はなかったが、メキアラの眼球は一瞬だけイオに向いて凄みを帯びた。しかし分かっていたとおり、彼の表情は変わらない。頬杖をついたイオは、私に構わず話を続けて下さいと言わんばかりの表情を浮かべ、掌をラキアの方へ向けた。
「あの、聞いてもいいですか?」
「ああ……」
「何でアクエがここに?」
「ちょっと、そういうことは当人に聞くんじゃないの!?」
アクエがベッドまで近づいてきて身を乗り出した。その姿に思わず笑みがこぼれてしまう。牢獄の日々はあんなに張りつめていたのに、こんなに穏やかでいいのだろうか、とふとラキアは思ってしまったが、メキアラの言葉にその気持ちは掻き消えた。
「こいつ、お前を追ってこの世界に来ようとしたんだ」
「追って、て……」
「転送の術をお前に使う際に一緒に飛び込んだんだ。全く、元の世界の住人であるラキアなら座標を確定できるが、こいつはこの世界にとって異分子だからな……どこに行くか分からなかった」
「大草原に出た時はびっくりしたよ」
一歩間違えば大惨事なのに、アクエはからからと笑っていた。笑い声とともに動く耳の生えた頭にメキアラの手が振り下ろされる。
「少しは反省しろ」
「でも、メキアラねぇちゃんが迎えに来てくれたよね。メキアラねぇちゃん、きつそうに見えるけどやっぱり優しい」
アクエのその言葉にメキアラは眉根を顰める。
イオが何か言いたげな含み笑いをこぼしたが、メキアラは完全に無視をした。
「身体が完全じゃないのに、無駄な体力を使わせやがって」
「それはごめんって……これからはラキアやメキアラねぇちゃんのために一層頑張るよ」
帰ってくれることが一番の助けなのだがな、というメキアラのぼやきは喉元で止まった。イオに紅い瞳を向ける。
「こいつの客室を頼めるか?」
「神の命令であれば」
「ならば命令だ。こいつの客室を用意しろ。危害は加えるなよ」
「分かっております」
怖い怖いと言いたげに、イオは片腕をもう一方の手で擦った。
「ラキアが言っていた異世界というのは、彼女のいた世界ですね」
「そうです」
いつまでも寝ている体勢でいられない、とラキアは両足をシーツから出しながらイオの問いに答える。変なことはメキアラの手前言えないが、これぐらいならいいだろう。
神の顔をそっと覗くと、険しい表情ながら不快そうではなかった。
「それにしても不思議なミミをお持ちで」
「あたしの世界では普通だよ。ちなみにこの建物も服装もあたしの眼から見れば珍しいよ」
「そうですか。確かにお召し物は見たことありませんね。この世界の服が合うかどうか」
イオの口で喋ることと思っていることは違う。じっとりと観察するようにアクエの上から下まで目線でなぞった。
アクエは気にしていないのか、くるりと一回転をして応える。
「……あの」
と、四人とは全く違う声が聞こえた。全員が一瞬動きを止め、そしてその瞳が一斉に扉に向いた。
エウロパは喉の奥で悲鳴を上げて、薄く開いた扉を閉めそうになる。
「エウロパ、用事があるのでしたらはっきりと。神の御前ですよ」
神の単語は皮肉交じりに呟かれた。誰よりも神の御前で失礼を働いていたのはイオだ。
しかしその言葉がエウロパの動きを止め、彼はおどおどしながら室内に入ってきた。扉が音を立てて閉まる。
「どうしましたか?」
「……星がざわめいてて、でも嫌な雰囲気でもなかったからなんだろうと。神様の再臨だったんだ、って納得はしました。その、あの」
「星のざわめき?」
メキアラの踵が鳴り、エウロパは短く悲鳴を上げて後退する。
「メキアラ様、脅さないでください」
「脅してなどいない」
足を止め、続きを促すように顎でしゃくる。
エウロパは目線を漂わせたあと、そっと口を開いた。
「本当にざわめいてるとかぐらいしかボクには分かりません。先代の星読みであれば色々と分かったでしょう」
「本当にそれだけか? 天体の位置などは? 星読みは天体の位置、光源の瞬き、月の満ち欠けでお告げを聞く。お前は見て、私が来ることを予測したのだろう? なら他にも何か気づいたはずだ。それとも、私の存在を確認する為だけにここに来たのか?」
メキアラの瞳が鋭さを増す。脅すなとイオに言われたばかりなのに逆効果でしかないその表情に、しかしエウロパは悲鳴を上げなかった。顎に手を当て思案する。
「実は、神様なら答えを持っているかと思って……北の天体以外、星の位置がばらばらなんです……ちゃんとした星は見てもさっぱりなんですが……僕の部屋、先代星読みが使っていた部屋で天井が天体を模していて光り輝くんです。それを見て、おかしいって」
「エウロパ、そういうことは他の天の主神に報告してください。何で黙秘していたのですか」
「えっと……その……」
「頼りにならないからだろう。こいつのことはいいから引き続き観察しろ。星は多分、正直だ」
メキアラの指先が天井を指差す。
「人は神のことを天に住まう者だと思っているからな」
「そうではないのですか?」
「お前には教えない。知っているのは一人でいい」
紅い瞳がラキアを射抜く。
唯一天上との境に行けた男、ライア。
(僕も早くそこに行くから)
拳を握りしめて、ラキアはメキアラを見つめ返した。