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第14話 鏡の裏側

 甘い匂いを含んだ風が少女の長髪を揺らした。天を仰げば、紫をはらんだ黒檀色を遮るかのように、月が天上いっぱいに存在感を放って浮いている。通常の大きさではないそれに対して、少女は指を絡め、瞳を閉じて祈る。

 少女は祈ることしかできない。対となる神である紅い瞳を持つ者は今日も下界を駆けているだろう。

 少女は溜め息を甘い空気に溶かす。

 自分もそうでありたかった。下界とは切り離されたここで傍観しているだけの日々は正直辛い。しかし彼女は『神』という存在ながら、下界に行ける力を有していなかった。

 対の神――メキアラスリィアは険をはらんだ声色で少女を諭す。

『あんたは、あんな場所にいく必要はない』

 戦火も憎悪も知っている。それが彼女、ティニアにとって毒なことも自身でちゃんと理解していた。それでも、下界は美しく、優しいことも知っている……はずだ。

 触れられない者を瞑想して、今日もその者達の平和を願って祈る。羊飼いにも星読みにも、路地裏で天を仰ぐ幼子にも平等に。

 この世界は醜いものだ。

 一瞬だけ瞬いた言葉に、ティニアは白銀の髪を揺らして頭を振る。

「いつなくなるの……」

 羊飼いがのどかに歩いて行ける道はなく、星読みは王の命でお告げとして定められた運命を覆す。そして今日も一人で幼子は膝を抱えて泣く。

 せり上がってきた気持ち悪さにティニアは口を覆った。神でありながらその『毒』は彼女を蝕んで、まるで人間かのように無力化させる。吐くものなどないはずなのに、口からは何かが出そうになる。

「…………」

 虚空を仰ぎ、口を開閉させる。自然と指先は祈りの形を作っていた。頬に降り注ぐ月光。眼前を満たす丸い金色。

 初めてだった。

 指先に力がこもる。

 初めて、自分の為に、祈った。

(私に、下界へいける力をください。愚かだと蔑まれようと、足掻く人の傍にいきたいのです)

 神が理に懇願するなど前代未聞なのは分かっていた。その願いは聞き遂げられないのも、また。それでもティニアは自身の中に宿る輝きを震わせて叫んでいた。

 生きたいのです、彼らと共に。

 ふと、風向きが変わり、蝕んでいた気持ち悪さが消失した。

 ティニアは月光の中を駆け出した。白銀のドレスを翻し、星の欠片で出来た砂を裸足で力強く蹴り上げる。

 今なら行けると思った。

 願い続けた人の元へと。

 行き方は知っている。

 まるで道筋を示すかのように、金色と白銀の光が絡み合いティニアの先を滑っていく。そして、二つの光は同時に弾けた。

 ティニアは足を止めて、その石造りの造形物を仰ぐ。細やかなレリーフを指先でなぞりながら、ぽっかりと開いたアーチ状の入り口に足を滑らせた。息苦しさは全くない。

 天井からは月光とも違う光が燦々と降り注ぎ、ステンドグラスの模様を床に落とす。蔦の絡まった柱がいくつも連なり、その一つを前にして、ティニアの足は完全に止まった。

 まだここは下界ではない。では、何故?

「ここに人がいるの……?」

 境目であるここには、人が踏み入れられたのだろうか。それとも彼は人間に似せられた何かだろうか。

 蔦の絡まった柱にもたれ掛り、彼は瞳を固く閉ざしている。金にもとれる黄土色の髪は光を浴びて輝いていた。

 ティニアは覗き込むように彼の顔に近づく。

 気配はまさしく人のものだった。しかし彼からは『毒気』が全く感じられない。

 自分は完全に別なモノへと変化して、人に近づけるようになったのだろうか。

 黄土色の睫毛が揺れ、瞼がゆっくりと持ち上がる。琥珀色の瞳にティニアの顔がいっぱいに映り込んで…………

「……うわっ!」

 彼は仰け反って強かに後頭部を柱にぶつけた。

「あ、大丈夫ですか!?」

 そっと彼の腕に触れる。毒気は全く伝ってはこない。

 初めて触れた人は温かかった。

「うん……かっこ悪いところ見せちゃったね」

 彼は頬を赤らめながら、打ち付けた後頭部をさすった。

「えっと……痛いの飛んでいけ……でしょうか」

 後頭部を撫でると彼の赤みはさらに増し、耳に至ってはこれ以上ないほど真っ赤になった。

「あ、うん、大丈夫。痛みひいたみたい……」

 彼はティニアの手を払うことも出来ず、中途半端に上げた腕を空中で漂わせる。

 ティニアもティニアで撫でた手をどうしようかと、今さらながらに思考が及ぶ。このまま撫でている訳にもいかない。不自然がないようにもう一撫でしてから、ゆっくりと触れていない方の手で包んで胸に当てた。彼の熱が移ってしまったかのように指先が熱い。

「……優しいんだね」

「い、いえっ!」

 貴方の方が。

 その言葉は呑み込んだ。

 彼の内側に触れても毒気は感じられない。もしかしたら何層も覆って奥底にあるかもしれないが――――なければ人間ではない。悪意や嫉妬は人間を構成するための一つだ。人は大小なりともそれを持ち共存している――――ティニアの瞳は聖人のように映った。

(きっと優しい人)

 確信を持って、ティニアは内心頷いた。

(初めて逢う人がこの人で幸せ)

「あ、ごめん……キザなこと言ってたかな……?」

 ティニアの沈黙に彼は勘違いして、彼女は慌てて首を振った。

「そ、それなら良かった……それにしても」

 彼は口を閉ざして周りを見回した。光は相変わらず二人に降り注いている。彼はその光を手にとるかのように、掌にステンドグラスの陰を掬った。

「ここは……どこ?」

「え?」

 掌に落ちた光をしげしげと眺めながら、彼はぽつりぽつりと言葉をこぼす。

「すごく心地がいい……まるで天国みたい、な」

 天界と下界を結ぶゲート、とは言えない。

 彼の瞳が固く唇を閉ざしたティニアを捉えた。

「気を悪くしたらごめんって先に謝っておくけど……君って天使とか、じゃないよね? おれは死んだんじゃ」

「死んでないです」

 毒気は感じなかったが、彼から死に対して諦観している感情が溢れ出た。その冷たい感覚を断ち切るかのようにティニアははっきりと言い切った。

 彼は紛れもない人間だと確証された。

 この感情を神は持ち合わせない。

 神は、死と云う概念を持たない。消失というのが死と同一であるのなら話は別だが…………

(それにして)

 彼は何故、死んでもいいと思っているのだろうか。

 過去を暴けばそのルーツが判るかもしれないが、ティニアはその能力を押しとどめた。ドレスを床に擦らせながら、彼の隣にゆっくりと腰を下ろす。

 少しだけ陰ってしまった琥珀色を覗き込んだ。

「私は天使でもありません。ごめんなさい」

「……そう、だよね……ごめんね。でも、本当に綺麗な……」

 そこまで言って彼は口を手で覆った。再び耳や頬に赤みが差す。

 ティニアはそんな彼の空いている方の手をとった。彼にとってはとどめであったが、ティニアは気にせずその手の甲を指先でさする。

「温かい。ちゃんと、生きています」

 真っ直ぐ目線を合わせると、彼の中の血が全て顔に集結したかのように真っ赤になり熱を帯びた。そのまま倒れそうになるのをどうにか押しとどめる。

 ティニアは彼から諦観した死の念が消えたことに安堵して――その原因はただの照れなのだが――指先を離した。

「行ってしまうの?」

 青年の言葉に立ち上がったティニアは振り返る。

「また、逢えますか?」

 それは青年も呟こうとした問い掛けだった。彼は目を見張って。

「おれは……また、逢いたいです」

「嬉しい」

 ティニアの微笑みに光の粒子が弾けた。その輝きを身に浴びながら、ティニアは来た道と逆の方向を指差す。

「ここからきっと貴方がいるべき場所に帰れます。また」

 貴方とは、何度でも逢いたい。

 肌に感じる風向きが変わった。きっと対となる神が天界へと戻ってきたのだろう。

 これで最後だとも思った。それと同時にまた逢えるのでないか、と期待する自分もいた。

「また、逢いに来るね」

 ライア、貴方の言霊は、強固ね。

 またきっと逢えると確信した。




 長い年月を漂うティニアにとってその時間は刹那であったが、どの時間よりも長く感じられた。『毒』を感じず、自由に歩けるようになった感覚はあの時だけだったが、それでも境目で待っている間は苦しさも感じず、また彼に逢えるのではないかと胸を躍らせていた。その日が一日一日と増えていく。

(今日もいないか……)

 柱に持たれ掛かり今日も彼を待つ。

『また、逢いに来るね』

 その言葉は今も信じているし、果たされる感覚はあったが、日が重なれば重なるほどあの出逢いは自分が見せた都合のいい夢だったのではないのかといった気持ちになる。

 目の端で何かが光った気がして、ティニアはばね仕掛けのように顔を上げた。

 そして息を呑んだ。

「スリィアちゃん」

「その呼び方やめろ」

 そこに立っていたのは彼ではなく、対となる神メキアラスリィアであった。彼女は足音を響かせティニアに近づいてくる。

「最近おかしいと思って後を追ってみれば……ここから先はお前にとって苦の世界だと理解しているだろう」

「……分かってる」

 この先へ行けば彼に逢えるが、きっとその前にティニア自身が倒れてしまうだろう。だからこそ二の足を踏んで、じっとここで彼が現れるのを待っていた。

「ねぇスリィアちゃん。毒を持たない人と逢ったって言ったら信じる?」

「……ここで、か?」

「そう」

 ステンドグラスの光を足先でなぞる。

「ここは半分、神の領域だぞ」

「それでも、私は逢ったの。あの人は『人』だった」

 ライア、と彼の名を呼ぶ。彼から直接聞いた訳ではない。彼の真名だけは神の力を持ってして知った。

 真名を知られた人間は、その身が下界にあろうとも神に囚われたのと同じ。

 しかしそのまま攫うことも、身体を捕虜としてしまうこともティニアはしなかった。心だけひっそりと囲って。残りの自由は今もライアに与えている。

(囚われているのは、私)

 彼の真名を掴んだとも思ってはいない。胸の内に灯った焔の意味をまだティニアは理解できていなかった。

「毒を持たない彼はとても優しい人だった。お願い、このままひっそりと見守っていて……」

 このまま彼と逢えなくなるのは寂しい。哀しい。辛い。痛い。

 貴方に逢いたい。

 声を掛けようとしたメキアラは気配を感じ、即座に目線を下界へと続くゲートへと向けた。

 ティニアもゆっくりと頭を上げる。流れてくる気配、それが告げている。

 メキアラは見つかってはいけないと、身を翻して空気に溶けた。

「いた……」

 彼が、下界のゲートから歩いてくる。

 ティニアは駆け出した。ドレスをたくし上げて、一秒でも彼の元へと。そのまま彼女は彼に抱きついた。

 ライアの口から素っ頓狂な声が上がる。彼の胸に一旦顔を埋めたあと、ゆっくりとティニアは彼と目線を合わせて微笑んだ。

「約束、守ってくれましたね」

「…………」

 ライアは顔を真っ赤にさせて呆けていたが、そっと彼女の腰に手をまわして抱きしめた。ティニアの瞳に世界が祝福するように煌めいたようにみえた。

(このまま攫ってください)

 神ではなく、ただ一人の者として。ティニアとして。

 彼の胸に再び頬を預けたが、その願いは叶わないと言われるかのように、そっと彼の腕が離れた。

 哀しくなったが、同時に自身のやっていることに対して恥ずかしがこみ上げて、大人しくティニアも手を離した。

「ご、ごめんなさい……嬉しくて」

「いいよ……でもこんなに歓迎されるとは思わなかった」

 空気が和らいで彼の表情も優しくなる。

「ライアさんは優しい人ですね」

「……どうしておれの名前を?」

 しまった、とティニアは口を覆う。彼から名を問えばよかったのに先走ってしまったことが裏目に出た。

 しかし、ライアは気にしていなのか微笑んだままだった。

「…………君の名前、教えてくれないかな?」

 微笑みながら頬を掻く姿は少し幼く見えた。キザな言葉が少しばかり似合わないのが彼らしい。

「ティニアです」

「いい名前だね」

(本当はもっと長いけど、貴方にはこれだけでいい)

 神ではない。一人の少女として見て欲しかった。

 メキアラが戻ってくる気配はない。傍観に呈しているのか、それとも神としての役目を果たしにいったのかは分からないが、彼との時間が欲しかったティニアにとってはどちらでも都合がよかった。

(今日は何の話をしよう……)

 そっと初めて逢った時のように座り込む。光は二人を包み込みしばらくの幸福を与えた。




 三度目はあっさりとやってきて、それからは何度も逢う機会が増えた。下界と天界を結ぶゲートは最早、二人の逢引の場だった。メキアラはあれ以来、特には言ってこない。

「スリィアちゃん、どっちの服がいいかな?」

 二着の服を自身に合わせて、ティニアは小首を傾げる。下界の村娘がやるような動きにメキアラは露骨に溜め息を吐いた。

「どちらでもいいだろう」

「ちょっとぐらいは意見聞きたいな」

「お前はどっちがいいと思っているんだ?」

「ライアが好きな方……」

 ティニアの手には無垢な白いワンピースと、青空を溶かしたような色合いのこれまた同じような型のワンピースがあった。色の他には特に違いがないようにメキアラには見える。

 あいつの趣味など知るか、とティニアに踵を返す。彼女に身体の不調は見られないが、下界は大荒れだった。時期に『毒』は天界をも襲うだろう。

 メキアラの踵が床を弾く。と、同時に彼女の姿も銀糸をまき散らし弾けるように消えた。

「……もう、スリィアちゃんも薄情だな……」

 両方のワンピースを抱えながらティニアはこぼし、そして開いたサッシのない窓から覗く月をぼんやりと仰いだ。祈りの形をとろうとした指先が中途半端に止まる。

 彼が、来た。

 ティニアは慌てて白いワンピースを掴むと、いつものゲートへと駆ける。と、その身体が一瞬だけぐらついた。

 首を傾げながらも、ティニアは指先で胸をなぞって手に持っていたワンピースへと着替える。眩暈を気のせいの一言で片づけて駆け出して……そして地に倒れた。

 指先が動かない。全てが重たい。

(な……んで……)

 彼が待っていると這いずったが、とてもじゃないがライアがいるゲートまでは着けそうにない。

 これは、天罰なのだろうか。

 呻きながら地を這いずるが、もう既に身体は言うことを聞いてはくれなかった。白銀の瞳から涙が零れて、世界がぼやけていく。

 祈りを忘れていた。ただ一人の人を盲目に愛してしまった罰なのだろうか。だから世界は歪み、人々は憎悪という名の『毒』を吐くしかなくなってしまったのだろうか。

 そう考えると涙が止まらなくなる。

(人を愛したい。貴方を……愛していたい)

 そこにいけなくてごめんなさい。とこぼして、ティニアは意識を手放した。




 彼女は来なくなってしまった。いつも来れば、まるで見ていたかのように現れる彼女。未だに天使ではないかと信じている。

 今日もあの光の中に逢いに行った。彼女はやはり現れなかった。

 好き、という感情を持ってしまったからだろうか。

 実際は触れてはいけない存在だったのだろうか。

 おれ如きの人間が触れてしまったから穢してしまったのだろうか。

 今日も花をあの場所に置いた。彼女に合いそうな白い花一輪。あそこに置いた花は何故か枯れない。

 ……人間は本当に争いばかりで嫌になる。この器から解き放たれたい。そうしたら彼女にもう一度逢えるのだろうか……


 そこまで書いて、ライアは紙を破り捨てた。これでは遺書みたいではないか、と苦笑が漏れる。

 彼女はそんなこと望んではいない。

(明日も明後日も花を持ってあそこに行こう。それにしても花も手に入らなくなってきたな……)

 窓に目線を向ける。暗がりの向こうでは今日も怒りと悲鳴で溢れ返り、命が潰えていた。部族同士の争いだと大雑把には聞いているが、それにしては規模が大きい――――それが二つの世界の領土争いだとライアは知る由もない――――

 筆ペンを投げ捨てるように置いて、瞳を閉じた。

 外の喧騒が遠のくかと思ったが、男達の話し合いの声が耳に飛び込んできた。酒でも飲んできたのか、家の中と外の位置であるのにその声はやたら聞こえた。

「壊すんだっけ?」

「あそこがあっち側との境界線だからな。いっそ失くした方が手っ取り早いだろう」

「それにしてもそこにある像まで壊すなんてな。今は所在不明って噂で聞いていたけど、ある場所分かったのかな?」

「さあな……それにしてもお上も大胆だよな」

「でも、どうせ救ってくれない神なんていなくもいいよな」

 なんの話だろうか、と耳をそばだてていたが、神の一言に何故か……ティニアの顔が浮かんだ。

 瞳を見開くと、家から飛び出した。どこに向かうのか本能では分かっているのか、足が勝手に動く。話し込んでいた騎士達はそんな彼の姿に目を剥いた。

 ライアにはもう何も見えず、また聞こえなくなっていた。




 寝台から動けなくなっていたティニアは深く溜め息をついた。人々のために祈ろう、と指先を絡ませようとするが震えて上手くできない。

(私は……神様なんだよね……?)

 何も出来ない自分は、人間よりも無力で存在する意味がない。

 人の世で神は絶対となる存在だ。その力は他を凌駕し、不可能を可能にする。そして人が持つ苦痛を、嘆きを、浄化し救う者。

『そんなのは人が作り出した偶像だ』

 いつからか共にいた赤い瞳を持つ彼女は言う。

『私達は神として在るだけだ』

 救わない。不可能を可能とするのはタブー。ただそこに在るだけ。

(それでも私は……人の為に……)

 ライアの顔が浮かぶ。

 ぽっかりと開いた双眸から滴が一筋落ちていく。

 人のため、なんて大それたことは言えなくなっていた。心の中には彼がいて、彼のために祈ろうとしている。

 人の幸せを願いながら、その実はたった一人のために。

 軋む音がして、空間に現れた扉がゆっくりと開いた。重たい頭をどうにかそちらへと向ける。

 赤い瞳が感情無く自分へと向けられている。その手には小さな花束のようになった花の数々。

「あの場所では邪魔になるからな」

 ティニアの横たわる寝台に、放り投げるように花から手を離す。固まっていた花弁は散って、ティニアの元へと落ちていく。

 ひとつひとつの花弁が彼の願いを抱いて輝いていた。

 ティニアの口から呻きに似た声が漏れる。

「……どうして」

 ティニアの元から離れようとしていたスリィアの足が止まる。

「どうして皆、ライアのようじゃないの?」

「それは、ただの盲目だ」

 あいつも人間だ、と呟きを残して扉が閉じられた。

 花の香りがティニアを包み込む。それを吸い込みながら彼女は瞳を閉じた。

 花畑で彼と二人、ずっと居られたらどれほど幸せだろう。

 空は高く澄み渡り、その中を白い鳥が羽ばたいていく。それを色とりどりの花が咲き誇る中で仰ぐ。風がティニアの頬を撫でた。微笑んで横を見れば、穏やかな彼の横顔。と、それが不意に黒く塗りつぶされた。

 風が止んだかと思うと、黒雲が空全体を包み込み、どこからか鉄の錆びた臭いが漂ってくる。彼の身体がぐらついて、破裂して地に崩れ落ちた。

 悲鳴にも似た声を上げて、ティニアは身体を起こす。

 心地よかった、のに、宣告は無情だった。

 これは予告だった。彼は…………

「そんなはずない!」

 神の力を悲鳴にも似た声で否定する。反応するかのように傍らにあった花弁が生気を失う。

「そんなはずない、そんなはずない……嘘……」

 虚空に向けた瞳からはらはらと雫が零れ落ちる。

 白銀の瞳に青白い陣が宿り、下界の姿を彼女に映した。ティニアは彼の魂の輝きを頼りに探す。

 輝きは中々に見つけられず、ティニアは拳を握りしめていた。手のひらに食い込んだ爪が皮膚を裂こうと彼女は気にせず、ただひたすらに彼の安否だけを願っていた。

 映る下界の映像にティニアは吐きそうになる。自分が幸せに浸っている間にこの世を包み込む毒は渦を巻き、悲劇だけを生み出していた。

 泣く子供、紅く散りゆく騎士。

(私はもう、彼らには祈れない)

 指はもう既に祈りの形をせず、瞳は月を仰ぐのを、やめた。

 ティニアという神は人を知ってはいけなかった。個を愛することは、タブーだった。

 吐きそうになりながら瞳に力を込める。陣は一層光輝き、愛する彼の実像を映そうと躍起になる。

(いて、お願い)

 神から外れてしまった一人の哀れな少女の願い。それが聞き届けられるかのように、青白い粒子が集まってひとつの道を提示した。吸い寄せられるように映像が流れていく。

 彼は粉塵と血の匂いが立ち込める荒野を駆けていた。周りには遺体だけが積み上がっている。

 そっちに行かないで。

 ティニアの唇だけが呟くが彼には聞こえない。

 地が爆ぜて、彼の身体にまた無数の傷跡を刻む。それでも彼は足を止めなかった。武装していない一般人が一人、周りから見ればとても滑稽な姿で、なんと愚かしい、死にたいだけかと嘲笑うだろう。しかしそんな騎士は最早息をしておらず、また彼自身の纏う気配もその口を噤ませるほどだった。

 真っ直ぐ前だけを向く瞳は、ティニアが見たことのない色を宿していた。

(いかないで、そっちにあるのは)

 何を目的にしているのか、彼自身には理解できてなかったが、ティニアには分かってしまった。

 瞳を閉じて項垂れる。

 嗚咽がティニアの唇からこぼれた。

(私の所為……酷い女……)

 もうティニアの瞳に彼の姿は映らない。それでも彼はあそこまで辿り着いてしまうだろう。

 どうか。

 彼女の指先は床に付いたまま、顔だけを天へ向けた。その先の月に雲が掛かる。

 彼が気づくことなく生きてくれれば……

「それでいい」




 もう既に足は棒になりとても走れる状態ではなかった。それでも止めることはできなかった。突き動かされるように前へ前へと進んでいく。

 またどこかで仕掛けられた罠が発動して地が揺れた。あれほど響いていた悲鳴はもうない。

 そして、その攻撃さえも止み、気が付いた時には不思議な空間に立っていた。見慣れた風景のようにも見えたが、ここは完全に初めてだった。

 優しい光が天井から降り注いでいる。外の風景を見たあとだとここは天国のようだった。

(そうだ、ここは)

 大理石の床に足音を響かせながら、その者へと近づいていく。いくつもの蔦の絡まる柱、その一角に彼女は……いなかった。

 柱を指でなぞりながらその奥へと目線を配る。

 そこには彼女の代わりのように一体の像が立っていた。優しそうな瞳は瞼で少し伏せられ、足元にライアが立つとやっと目線が合った。

 そして気づいてしまった。

「案内ご苦労だった」

 瞳孔を開かせ像を凝視していたライアの背に声が掛かり、彼は反射のように振り返った。聞こえなかった音が一気に耳に流れ込んでくる。

 複数人の男の声と甲冑が擦り合う音。眼前にはそれらを鳴らす騎士達。

 ライアは無意識のうちに両腕を広げ、像を護る形をしていた。その姿に後方で控えていた騎士の一人が吹き出す。それに合わせて数名の男達が嘲笑おうとしたが、隊長のひと睨みにより場は静まった。

 隊長である男は剣を持ち直す。

「少年、ここで引けば多少の褒美を約束しよう」

「……何故、ここに」

「ここは向こうの妙な耳を持つ者達との境界線だ」

(おれが知っている場所じゃない……)

 彼女との逢引の場所は、いつの間にはそこに立っていて、少し歩けば彼女が待っていた。夢の中のような出来事だったが、感覚は確実にあり其処は存在していた。

 ここも似ていて存在しているが、似ているだけだった。争っている獣耳を持つ者との境界線だとは彼女の口から聞いていない。聞いたことがあるのは。

『ここからは駄目』

 と、彼女が来る方向に足を向けた時拒まれた言葉ぐらいだ。その時詳細は聞いていないが、絶対に獣耳の者達が住むところへは行けないだろう。

(彼女の住む世界は……)

 像を仰ぐと刃が鞘から抜かれる音が響いた。

「私達は勝たなければならない。その為にはあの者達から隠されたここを遮断して終わりにしなければならないのだ」

「…………おれ達の世界が劣勢なのは知っています」

 ゆっくりと頭を下げて、目線を男へ合わせる。ライアの言葉に隊長である彼は顔を引きつらせた。

「勝つためなんかじゃない……貴方達は『負け』たくないだけだ。だから有耶無耶にしたいだけ……だからって像まで壊す必要は」

「その像が楔なのだ! 退け!」

 男の刃が煌めく。

「救わぬ神などいらぬ!」




 瞳から零れた雫が花弁に落ちて弾けた。

 視えてしまった映像に頭を振るが事実は覆らない。彼は切り裂かれ、ティニアを象った像に手を伸ばして…………

「神ってなに……」

 彼の最期は像に向かって微笑んでいた。まるでティニア自身に微笑むかのように優しく。しかし彼女の中で渦巻いてしまった慟哭を止められるものではなかった。

 空気がざわめいて、彼から貰った花弁が枯れ果てる。

 ティニアは胸を掻き毟って叫んだ。

「私は神ではない!」

 人が求める者ではなく、また彼女自身の祈りも忘却の彼方へと失せた。月光はその力を隠し、真の闇が空から降り注いだ。

(貴方に出逢った時から私は神ではなかった。だからいいの)

 神などいらぬ、確かにその通りだ。

 もう、神ではないのだから。この世からいらぬと言われるのなら。

(私も、貴方達なんていらない)

 闇が彼女の白銀を染め上げ、漆黒を瞳と髪に与える。そして彼女は天界から弾かれた。目の端でメキアラが慌ててこちらに駆けてくるのが見えたが、ティニアは微笑んだまま堕ちる身体に身を任せる。

【殺してやる】

 要らぬのだから消失させてあげなければいけない。

【赦さない】

 ちっぽけな者達がしたことに報いを。

 騎士である男達は目を剥くとともに、その瞳に光を映さなくなる。彼らが最期に見たのは、骸に寄り添う漆黒を纏った少女の泣き顔だった―――――







 長い夢から醒めた。自身の身体に傷はなかったが心は膿んで醜く爛れていた。ラキアは頭を抱えて低い唸り声を上げる。

「僕の因果は……」

 目の前に佇む神に懺悔するように言葉を紡ぐ。

「神という触れてはいけない存在を無意識のうちに固有して……あまつさえ落としてしまったから」

 自身のせいで堕落してしまった神に嘆き、その身に罰を与えた。

「だから繰り返すなとメキアラさんは言ったんですね……それなのに僕……」

 城での出来事が脳内でフラッシュバックする。サラを連れ戻したい一心で繰り出した刃は、神を壊すなと叫んだ過去の自分と一致していた。

 ただ彼女が欲しかったためだけに。

「こうなることが分かっていたら、私だってお前と逢うのを止めていた」

 紅い瞳が伏せられる。もう戻すことはできない過ちを悔いた彼女の声もまた苦痛に震えていた。

「私は神として、あいつに制裁を下す」

「…………」

「お前はどうする?」

 隣にいてはいけない存在だというのは重々承知していた。もう一度繰り返すこともあるだろう。それに彼女に声が届くかすら分からない。

 それでも。

 もしも、目の前の神が赦し、また世界が認めてチャンスを与えようとするのなら。

「僕は、止めに行きます。これは、僕が償わなければいけない物語です」

 魂を何度も痛めつけた。それだけでは足りない。

 彼女を救って初めて赦されるのだ。

「因果を断ち切りに行きたい。だからお願いします。サラのところへ連れて行ってください」

 どんな地獄であろうと、どれほど傷つこうと彼女が救えるのなら。

 メキアラはゆっくりと息を吐き出す。その姿を見て、過去の因果を一緒に見てしまったアクエは流れる涙をどうにか止めて、静かに頭を下げた。

「もう……うんざりなんでしょ……終わりにしようよ。だから」

「アクエ……」

 そっと撫でようとしたラキアの手を頭を振って拒絶する。彼がそうしなきゃいけない相手は別にいる。

「私だってできればそうしたいさ」

 玉座に座り直したメキアラは瞼を伏せた。睫毛が震えていることにラキアは少しばかり驚いてしまった。神として余裕のある彼女がこれほどの弱さを見せるとは…………

「……僕では駄目ですか」

「そんなじゃない。送れるのなら送ってしまいたい」

 瞼を上げたメキアラは自嘲気味に微笑んだ。

「私でさえ、あいつの行方は不明だ。どれほど力を使おうが完全に隠れてしまっている」

「じゃあ……」

「お前を元の世界へ送る。多分あいつの目的はお前の世界の人間どもだろう。そこからは」

 弱かった色が消え、鋭い眼力がラキアを射抜いた。

「お前がどうにかしろ」

 最後の贖罪。その時間をこの神はくれたのだと、ラキアは瞼を閉じて頷いた。

 仄かな温もりが四肢に絡み付いてくる。幻想の彼女に手を伸ばした時には感覚が消え失せ、そして意識も飛んだ。

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