第1話 旅立ち
ランタンの揺れる赤は弱く、照らしだされた部屋はほぼ闇に埋まっていた。それでも物が少なく、最小限であることは誰から見ても分かるものだった。
家主であるラキア・ペルセフォネはベッドの前で深く息を吐くと、糸が切れたかのようにそのまま倒れ込んだ。中途半端に履いていた片足の靴が脱げ床に転がる。
「……疲れた」
言葉にすると余計に疲れが襲ってきて瞼を重くする。
この村の若者不足は否めない。たとえラキア自身が元よそ者だとしても若者であることは変わらず、ちょくちょく村の者からは頼られていた。力仕事は絶対に歳関係なくラキアは頼りない気がするが、たまにおばちゃんが寄ってきては収穫した物を持たされたりする。どちらかといえば、荷物持ちをさせるというよりは話し相手が欲しいといった感じだ。優男のようなラキアは丁度いいのだろう。
そんな彼が呼び出されたのは数刻前、扉を叩く音に反応して開けてみると幼い少年が立っていた。
『おじちゃん達が暴れてるの!』
彼に手を引かれ酒場に駆け込むと、まだ日が落ちて浅いのに出来上がっているおっさんが取っ組み合いの喧嘩を始めていた。周りではやんややんやと囃し立てる男達。嫌な予感がした。
『ちょっと避けててね』
呼びに来た酒場の一人息子を端に避難させつつ、ラキアは中心で戯れが本当の喧嘩になってしまった男二人を引き離しに掛かる。早く事態を収拾させないと……
『何やってんだい!』
(やっぱり……)
肝っ玉母さんを体現させたような恰幅のいいおばちゃんが酒場に流れ込んでくる。誰もが熱くなった状態で収集は困難。
少年はこうなることを予測してラキアを呼んだのだ。確かこれで三度目だ。
旦那の頭を殴ろうとするおばちゃんの手を止めつつ、引き離せそうなところで両者の言い分を聞きながら少し離したところに座らせる。三度目となると要領は分かってきたが、周りの囃し声にまた掴み掛かろうとする。
それを何度か繰り返し、皆が落ち着いた頃を見計らって、ラキアは両者に声を掛けた。帰りましょうね、の台詞に頷く二人。
へろへろと疲れ切って歩いていく背を見送りつつ、ラキアも帰路に着く。仲裁をやるのはいいが、酔っ払いが相手だとやっぱり疲弊する。空を仰げば満天の星空。時間もかなり経っていた。
もう寝てしまおうと自分の欲求に忠実なまま瞼を閉じる。深い闇に落ちていくかと思ったが、それは突然消え失せ覚醒した。ベッドから跳ねるように起き上がり、暗闇に沈む扉の方を向く。
(……音、したよね?)
何か重いものが倒れた音がした。玄関先には何も置いていない。音からして人のように感じる。
脳裏に浮かんだのは酔っぱらったおっさん達の顔。誰が倒れていてもおかしくはない。
片隅に置いたランタンを持ち上げ玄関に向かう。
ただ玄関に行くだけなのに、ラキアは妙なもの感じた。足が勝手に動くような、導かれるような感覚。倒れているのはもっと別なものだと伝えるように心臓が高鳴っていた。現実が一気に幻想にすり替わったようでドアノブを握る手がいつもより強い。
開けた扉から夜の空気が流れ込む。
ラキアの瞳が見開かれた。呼吸も忘れ、その光景に目を奪われる。世界が時を刻むのを忘れたのように全てのモノがその動きを止めた。
扉の先にはやはり人が倒れていた。しかし泥酔状態の男達ではない。
闇よりも深い黒が広がっていた。それに埋もれるかの如く、白い陶器で作られたようなとても整った顔があった。閉じられた睫毛は長く、人形師が愛を込めて創った様な………そんな人間味の無い、人間、美しき少女だった。
ラキアは、はっと意識を取り戻し、彼女に駆け寄る。白く細い手首に触れた。
………ぞっとするほど冷たい。
心にある鐘は、彼女に対する死の旋律を奏でていた。早くどうにかしなければ。脳裏に浮かぶは一つの情景、無理矢理消して彼女を抱きかかえる。全身に熱は存在しなかった。氷か、本当に人形を持っているようだ。
さっき寝ようとしていたベッドに彼女を横たわらせる。一瞬だけ、男のベッドに寝かせるなんて……とも考えたが、彼女を横にさせられる場所はここしかなかった。暖炉に薪をくべ、毛布を被せる。火の赤に照らされた横顔はやっぱり美しかった。
(どこから来たんだろう)
村では見たことのない顔だった。こんなに美しければ一度見たらしばらくは記憶に残るだろう。どんなに頭を捻ってもやっぱり初めて見る顔だった。
どうして僕の家の前に、と疑問は尽きない。よく考えてみれば彼女の倒れ方はちょっとだけ不自然な気もした。
似たような建物が立ち並ぶ中で、頭が扉の方を向いているなんて何か意図があるような……
考え過ぎかなとも思うが、扉を開ける前の感覚は何かが大きな事が動き出したようだった。こんなちっぽけな人間に何が起こるのだろう。期待に胸を躍らせることはなかった。それよりも漠然とした不安のようなものが背に覆い被さる。
そっと誰かに囁かれた。それは懐かしくも恐ろしいもの。
頭を振り、彼女の腕に手を添える。人形のような白い腕に血が周り、やっと人間らしさと温もりが宿っていた。安堵の溜め息を吐き出すと、忘れていた眠気がどっと襲ってきた。
ラキアは考えることを放棄して闇に身を委ねる。瞼を閉じる時見た彼女の横顔に一瞬誰かの面影が映り懐かしさが込み上げてきたが、思い出せず、感傷もすぐに消え去った。
彼女が目覚めると、そこは知らない場所だった。
灰塗れの薪ストーブ、物の無い机、綺麗に並べられている小さな本棚。
それから、眠りこけている青年の横顔。
私は……
ぼんやりと天井に目線を移した少女は口の動きだけで言葉を紡ぐ。窓の外では鳥が囀り白んだ空に羽ばたいていった。
彼女はまだ重い身体を起こすと、まだ眠りこけているラキアの顔を凝視した。そっとベッドから抜け出し、冷たい床に素足をつける。近くにきても彼が起きる気配はない。相当深い眠りについているようだ。
テーブルに両手をつけ、ラキアの寝顔を間近でまじまじと見つめる。あまりにもその顔が穏やかで。
(優しそうな人……)
時計がない部屋で正確な時間を知るのは困難だが、きっと今は朝方だろうと予想がつく。空はもうすぐ白から青へ変わっていくだろう。そんな中、椅子に座って眠りこけているなんて、ベッドを譲ってくれたと思い当たるのは容易だった。
ラキアの顔の輪郭を目線でなぞっていると、不意に何かが重なった。誰かの顔、懐かしい気持ちが込み上げてきて胸に手を当てる。分からないのに、愛おしい。
「……ん……」
睫毛が震え、ラキアの双眸が開いた。拳ひとつ分の距離に綺麗な少女の顔。両者は瞳を見開いて。
「……うわっ!」
ラキアはその近さに思わず仰け反った。
少女も自分がどんな状況だったかと客観視した瞬間、顔から蒸気が噴き出すほど赤くなる。頬を両手で覆い、このまま沈んでしまいたいと床に目線を落とす。何か言わなきゃと口をぱくぱくさせるがいい言葉は出てこない。
それはラキアも同じで、耳まで真っ赤にさせ目線を浮かせる。妙な沈黙と空気が部屋を満たした。
「…………」
「…………」
「………………目、覚めたんだね」
「……はい……」
言えたのはそれだけだった。少女は指の隙間からラキアの顔を覗く。いい人なのは分かるが、初対面がこんなではどう接していいか分からない。
「あの……私……」
顔から手を離し指先を弄る。目線は床へとまた戻っていた。
「と、とりあえず、落ち着こうか。座って……って言いたいところだけど……」
椅子はラキアの腰掛けている一つしかない。最低限しか置いてない家具はどれも一人用だ。誰かを連れ込むなんてないと思っていた。
少女は目線を右往左往させていたが、やがてさっきまで自分のいたベッドに腰掛けた。ラキアも姿勢を正し、少しだけ椅子を彼女の方へ向ける。
未だに動揺が抜けない少女は深く息を吸って、綺麗な黒曜の瞳にラキアを映した。
「私……何も思い出せないのですか……」
「えっ……」
どうして家の前に倒れていたのか訊きたかったラキアは思わぬことに二語を紡げなくなる。記憶喪失の四文字が即座に浮かんだ。
「何も?」
「何も、です。名前すらも」
目を覚ました時から、彼女の記憶はごっそりと抜け落ちていた。私は誰なのか、ここはどこなのか、考えようとするだけで霧がかかり何も解らなくなる。
「何か思い出せることはない? あ、無理はしなくていいよ」
「……………」
彼女は霧の向こうを見透かそうとする。遠くへ、深くへと、記憶の閉ざされた向こう側へ。手探りで腕を伸ばし、隠れた像を掴むように。
霧が、晴れた。あったのは。
「黒? 闇?」
虚ろな瞳で呟く。
「………それと光?」
そう言い終えると、また霧に隠れてしまった。灰色の世界が、彼女の記憶を支配する。
ラキアは零れた断片を集めて、その問いの答えを見出そうとする。しかし、その問いに合う土地は出てこなかった。前途多難。万事休す。
「ごめんなさい」
「何で謝るの?」
「全然意味の解らない記憶で」
「いいよ。失くしたんだからそんな曖昧なのしか出てこないよ」
無理して足搔こうとしてもきっと記憶は蘇ってはこないだろう。失くすほどのことだ。もしかしたら無かったことにしたいほど酷い過去なのかもしれない。人は己を護るために記憶を消してしまうこともある。
脳裏にこびり付いて剥がれない記憶がまたたいて、ラキアは瞼を伏せた。赤が二つ、網膜の上を滑っていく。
消えてくれたなんて思ったことはないが、それでも記憶から消滅していたらもっと今の自分は楽だっただろう。それでもこの過去は。
罪の証。
顔を上げると彼女は表情に若干の心配を織り交ぜながらラキアを見ていた。
「困りますよね……助けたのが記憶喪失者なんて」
「僕は全然そんなこと考えてないよ。それより君の方が大変じゃないかな?」
「そう……ですね」
頼る人は今目の前にいるラキアだけだ。それでも彼は赤の他人で過去に繋がった人物ではない。頼ろうにも限界はあるし、いつまでもずるずると居座るわけにもいかない。
それでも引っかかることがひとつだけ。彼の寝顔を凝視していた時重なった顔、それには懐かしさが込み上げていた。驚いて消えてしまった幻影はもう思い出せず、その感情も気泡のごとくなくなってしまったが、確実に彼女は思った。
名残惜しそうに胸をさする彼女はあることに気づいて、身を乗り出した。
「あ、あの……お名前、何て言うのですか?」
「まだ名乗ってなかったね。僕はラキア、ラキア・ペルセフォネ」
「ペルセフォネさん……」
「ラキアでいいよ。さんもいらない」
「ラキア……さん」
「初対面で呼び捨ては辛い、よね?」
はにかんだラキアに彼女は両の手を組んで意思を固める。
「はい……でも、その内に………」
彼の名前を気軽に呼べれば、それは素敵なことかもしれない。
ラキアは困惑な顔をした後、口を開いた。
「………君って、名前さえも思い出せないんだよね?」
「はい………」
「じゃあ……なんて呼べばいいかな?」
「………あっあの」
「うん?」
彼女は祈るようにラキアを見た。組んだ指に力がこもる。今、彼の言葉を聞いた瞬間、閃いたのだ。
「貴方が付けてくれませんか?」
「僕が!?」
ラキアは急なことに目を黒白させる。
彼女はやっぱり駄目かと思った。そうだよね、急に家に上がり込んだ人間がこんなお願い………おこがましい。言ってしまってから後悔した。あっさりと承諾されるとは思っていなかったが、困惑させたかったわけでもない。俯き、手元を弄る。
そんな彼女に頭上から声が降ってきた。
「サラ」
と……彼女は驚きに顔を上げる。
ラキアは口元を覆い、目を見開いていた。
「………サラ……?」
反復した。その響きが、その組み合わせが、その言葉自体が………あまりも自分にあっている気がして。
「サラ、サラ……サラ」
言葉にすればするほど、自分が『サラ』になっていくのを彼女は感じた。それ以外は似合わない。
彼女……サラは微笑んだ。
「ありがとうございます。私、これから『サラ』って名乗りますね」
「あ……うん」
サラは気づかなかった。彼の笑顔が嘘くさくなったことに。とても穏やかな笑顔なのに、どこか影がある。笑っているのに笑っていない。
サラが倒れていたことに対して『何か大きなことが起きた』と思ったのは気のせいではなかった、とラキアは張り付けた笑顔の下で思う。この言葉が口から滑り落ちるなんて……
(これは罰なのか。僕に償いをさせようというのか)
「ラキアさん、大丈夫ですか?」
「あぁ……うん、大丈夫だよ」
彼の影は消えたが、奥底に付いた闇までは消えなかった。
風が気持ちいい。
サラは玄関先での掃く手を止め、天を仰いだ。空が高い、ゆっくりと綿雲が通り過ぎていく。両腕を広げ、サラは澄んだ空気を肺に収めた。
そんな穏やかな午後を楽しむ彼女に、近づく影が三つ。それらは囁きあっていた。
「あの子がペルセフォネさんの彼女?」
「あれまあ、綺麗な子だね」
「どっからあんな子引っ掛けてきたのやら」
「あたしもあれぐらい美人だったら、亭主はあんなボングラじゃなかったのに」
「その言葉、旦那が聞いたら泣いてしまうよ」
「泣きたければ、泣かせとけばいい」
「まぁ、それもそうね」
「どうかしましたか?」
『!?』
カラカラと笑おうとした主婦達は、突然の乱入者に息を呑んだ。声の方を向けば、さっきまで話題となっていた少女が、箒を握りしめそこに立っていた。警戒の色はない、朗らかに微笑んでいる。
主婦達は自分達の好奇心が膨れ上がるのを感じた。おばさんの性。
サラはびくりと震えた。主婦達の目の色が変わったと思った瞬間、両手を握られ三つの顔が間近にあった。
「あっあの!?」
「ペルセフォネさんとはどんな関係?」
「もう親には挨拶に行った?」
「いい、親っていうのは……」
「何の話ですか!?」
主婦達の変な熱気に気圧され、サラは後ずさった。しかし両手をがっちりと握られていて逃げることはできない。
(ラキア助けてー!)
居候させてもらっている彼の名を胸中で叫ぶ。呼び捨てで呼ぶのも慣れてきた。
何度も陰で練習をして、やっと呼び捨てにできた時はひっそりと喜んだ。ラキア自身も最初気づいてはいなかったが、そっと喜んだ笑みに頬が火照った……のは、この状況では口が裂けても言えない。
「で、どうなの実際!!」
主婦達は覇気を孕んでいた。じりじりと近づく顔に恐怖さえ覚える。
「私はただの居候です」
『居候?』
主婦達が呆けている内に、サラは手を振り払い家の中に逃げた。扉を閉める直前主婦達の声が聞こえたが、彼女は謝り強く閉めてその場にへたり込む。
「どうしたの?」
いつもどおり便利屋として村人から頼まれ筆をとっていたラキアは、物音に集中力を切らして顔を上げた。
「ちょっ……ちょっとね」
サラは薄ら笑いを浮かべた。乱れた前髪を直す。
「外、掃いてくれたの?」
「うん。お世話になってるから」
「ありがとう」
素直な賛美にサラの頬が熱くなる。
まただ、凄く胸が波打ってる。まだ数日の付き合いなのに、彼の笑顔を見るだけで嬉しくなって熱くなって………
(………私は)
「そこに座り込んでたら汚れるよ」
「あ、はい。ごめんなさい……」
差し出された手を握るとラキアの耳が赤くなった。自ら行った行為なのに、気づくと照れてしまう彼に胸がさらに熱くなる。
「あの」
「お茶でも飲もうか」
そう言うと、ラキアは背を向けてしまった。今どんな表情をしているか解らない。
(私はこの人のことを好きなんだ)
多分、会った時から。でも言って駄目。私はもうすぐいなくなるから。
組んだ手を強く握る。
………記憶を探しに行くって言わなきゃ………
彼女はラキアの後ろで決意を固めていた。
赤くなっている彼の後ろで。
その日の目覚めは急に覚醒したようにはっきりとしていた。この数日間はサラにベッドを譲り、床や椅子に寝る毎日だったが、今日だけは気怠さも皆無だった。
サラはラキアを差し置いてベッドに寝ることを少しだけ拒んでいたが、男と一緒に寝るのもあれだと力説したところで素直に使ってくれていた。
白んだ空から昇ったばかりの日に照らされた彼女の頬は人形のごとく形が整っていた。そして、目覚めたばかりの彼の顔をベッドに座り凝視していた。
「おはようございます」
俯いた頭から長い黒髪が音を立てて垂れ下がる。倒れていた時と同じ貴族じみた黒いドレス姿、その膝には不似合いな布袋が置いてあった。
「あの……お話があるんですけど」
「うん」
彼女が何を言いたいか、手に取るように分かる。ラキアは目覚めた瞬間に予感じみたものを感じ、彼女の膝に乗っている小さな布袋に確信を持った。
サラの整った唇が言葉を紡ぐ。
「私、出ていきます」
「そうなんだね」
「ありがとうございました。本当に、助けてもらって、優しくしていただいて」
「ううん、僕こそ」
朝の静かな空気が二人を包み込む。唯一の音である鳥の囀りもさっきから黙ってしまった。
「あ、あのさ」
ラキアは膝の上に置いた拳を握り、静寂を破った。
「サラはこれからどうするの」
「記憶を探しに行こうと思います」
「………それ、僕も手伝っちゃ駄目かな」
サラは突然の申し立てに目を見開く。
ラキアの目は真剣だった。彼の瞳に映るのは彼女だけではない。その整った輪郭に重なるもう一つの影。
初めて見えた時から気になっていた。人の姿をしたそれはサラとよく似ていた……そして懐かしく思っている自分がいる。初めて見るのに。
(やっぱり何かが、僕に償いをさせようとしている………)
「えっ……でも」
「迷惑だったら素直に言って」
選択は彼女に委ねよう。もしも彼女が、天が償いを求めるなら、僕は身勝手かもしれないけど全てを懸けよう。『アレ』が絶対に目覚めぬように。
「いえ……嬉しい、です」
迷った目線は真っ直ぐにラキアを見たが、すぐに床に落ちる。黒いヒールが木目を撫でた。
「でも、ここは」
「ここの人達は良い人だよ。でも僕は所詮よそ者だから……いいんだ」
囁く声が聴こえる。『アレ』はまだ静かに背後に寄り添っているようだ。
目を閉じると一人の少女がこちらを見ていた。
ラキアは瞼を持ち上げ、サラに悟られないように笑った。笑っていて、自分でこの笑顔は卑怯だと思った。でも今はこの表情しか出来ない……この凍りついた仮面の表情しか。首筋に瞼の裏にこびり付いた少女の指先が添えられる。
サラはきつく指先を組むと俯いた。垂れた髪の間から光が一滴落ちる。
「……身勝手かもしれませんが、よろしくお願いします」
「記憶、取り戻そう」
「はい」
いるかどうか判らない神に誓って、君の記憶をとり戻すよ。それが僕の償いだから………
幻想の指先がそっと首から離れる。残った少女の嘲笑を掻き消して、ラキアは誓った。
そして数日後、2人はこの村を後にした。
これが長い鎮魂歌の序曲である。