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第10話 獣耳

 重たい瞼を開ければ、低い天井が目に飛び込んできた。ぼんやりとしたまま木目を眼でなぞる。

(僕は……)

 ぽっかりと空いてしまった心が何を示すのか、あの情景が甦った途端、ラキアはバネ仕掛けのように起きあがった。腕を伸ばすが、そこに想い人はいない。

 開け放たれた障子の向こうには庭園が広がっていた。魚がいるのか水面を弾く音が空しく響く。

「サラ……」

 伸ばした腕を力なく布団に落とすと彼は項垂れた。

 何度も繰り返したことだ。今回も、駄目だった。自分はどんなに抗っても死神であることに変わりはない。彼女は、消えてしまった。

 瞳から落ちそうだった涙、それを湛えて彼女は微笑んでいた。

(そんな表情はさせたくなかった)

 苛立ちが募り、ラキアは拳を振り上げ布団に叩き下ろした。しかしその腕に力はなく、気の抜けた音だけが空しく続く。

 重い溜め息に返答するかのようにまた水滴が弾けた。

 頭を抱えると遠くで誰かの足音がした。軽そうな音だったが、サラとは被りそうもない忙しい感じにラキアは伏せていた顔をゆるゆると上げた。

「起きた!」

 顔を覗かせたのはやっぱり彼女ではなく、見たこともない少女だった。獣の耳がぴんっと立つ。

「大丈夫、痛いところはない? あ、お腹空いているとか」

「痛みは……大丈夫かな?」

 とりあえず微笑むと彼女は安堵して笑みを返した。

「ほんとにびっくりしちゃったよー、人が倒れてるんだから」

「……ここはどこ?」

「うん!? もっもしかして記憶喪失!?」

 記憶喪失の単語にサラの顔が瞬くが、それは揺れる視界に即座にかき消された。両腕を肩に置いた少女は遠慮なしにラキアを揺さぶる。

「耳もないしさ、本当に大丈夫!? 無理してない!?」

「耳はあるよ! 本当に何ともないみたいだから、離してもらえるかな」

 このままでは胃から何か吐き出しそうだ。

 顔面蒼白になり始めたラキアにやっと気づき、少女は慌てて手を離す。止まっても視界はぐらついていた。

「えっと……ごめん……」

「大丈夫……」

 さっきから『大丈夫』しか喋ってないな、とラキアはどうにか笑みを浮かべた。

「とりあえず僕には記憶あるよ、でもここは知らないところなんだ」

「なんか訳ありってことだね」

「そうだね」

 少女は『うぬー』と唸るとひらけた方へ目線を向けた。

「あたしより長老の方がいい回答持ってると思うから呼んでくる」

「あ、いいよ。僕から行く」

 いつまでも横になっているのも申し訳ない。彼女がここまで運んで、看病してくれていたことはさすがに分かる。

「歩ける?」

「うん。君のお陰でだいぶ調子いいよ」

 心の傷は到底癒えるものではないが。

 それを表に晒すのはお門違いだ。

 平然と笑う彼に彼女は少しばかり頬を赤くして頷いた。

「じゃあ先に長老に話しつけておくからもう少し休んでて」

「ありがとう……えっと」

「あたしはアクエだよ」

「僕はラキア、ありがとうアクエ」

 微笑むと彼女は逃げるように部屋を後にした。




 この場所はラキアにとって少しばかり勝手が違うものだった。靴はどこ? ときょろきょろすると怪訝な顔をされ、目の前で老人が待っていてもどうしていいか分からずしばらく呆然としていた。座りなさいと催促され、やっと床に敷かれた布に気づいて何となくそこに座った。アクエには『女の子みたいに座るんだね』と少し笑われたが仕方がない。

 そして今、ラキアは盛大に吹き出した。

「にっ……苦い……」

 お茶だと出された飲み物は見たことのない色をしていた。そして苦い。

「苦い!? あたし煎れるの失敗したかな」

「これ、本当にお茶なんだよね?」

「お茶だよ。緑茶」

「りょ……何?」

 ラキアにとって知らない単語がまた出てきた。寝具は布団で、靴は玄関で脱ぐもので、そして緑色の飲み物はお茶だった。

(お茶っていったら茶色いものだよね……異世界に来たみたいだ)

 全てのものが未知のものだった。その筆頭が、彼らの耳だ。

 思わずラキアは自身の頭を撫でる。生えていることはなく今までと同じものだった。

「ふむ……」

 目の前に座っている長老は立派な顎髭を撫でてラキアを上から下まで見つめた。

「これいつもの味だよ」

 確認とばかりに飲んだアクエは訝しげながら自身の湯飲みをのぞき込んだ。その姿に一瞬だけ溜め息を吐きながらも柔和な表情になった長老は、表情を引き締める。

「お主はそちらの世界の者かな?」

「そちらの世界?」

 問われていることが分からず、ラキアは鸚鵡返しに答え首を傾げた。異世界だとは思ったが本当にそうなのだろうか?

「遙か昔、この世界の者と獣の耳を生やさぬ者は世界を二分しながらも共存していた。しかしとある動乱で繋がっていた道は分断され、それ以来交流も途絶えた」

「ちょーろー、じゃあラキアは生やさぬ者ってこと?」

 アクエは彼の黄土色の髪を持ち上げた。

「耳とか取れちゃったって場合も……」

「耳はちゃんとあるよ」

 一瞬なくなってたらどうしようと髪に指を当てると慣れ親しんだ形状があった。そのままアクエに見えるように髪を掻き上げる。

「え? ちっさ!」

「……これが普通なんだけどね」

 目を丸くして感想を述べるアクエに苦笑を漏らす。自分のいた世界ではこれが普通だった。しかしこの世界では異常だろう。

 そして長老の語る『獣の耳を生やさぬ者』がまさしくそうであるのなら。

(帰らないと)

 元いた世界はどこかに存在しているだろう。どういった経緯でここに来たのかは分からない。

 最後に見たのはサラの後ろ姿。彼女を捜さないと……

「……ラキアー、ラキア大丈夫?」

 アクエが心配そうな表情を浮かべながらラキアの眼前で手を振る。

「眉間にしわ寄せはよくないよ」

「そうだね」

 彼女の琥珀色の瞳に映った自身の顔は非常に険しいものだった。笑みを繕ったが、焦りがにじむもので心配を緩和させることはできない。

 アクエはラキアの両手を握った。

「大丈夫!」

 めいっぱいの元気をつぎ込んでアクエは頷く。

「どうにかなるよ!」

「ありがとう」

 作った笑顔はあの仮面だろうか?

 ふとよぎった疑問にラキアは瞼を伏せた。彼女のとの旅で捨ててきたはずだが、もしかしたら戻ってしまったかもしれない。

(大丈夫、大丈夫だから)

 まだ目の前の少女の首に鎌が掛かっては見えない。

「すみません。その昔話、もう少し詳しく教えていただけないでしょうか」

「うむ……あまりにも過去の出来事、もはやお伽噺と同意義だからな」

 長老は豊かに蓄えた顎髭に手を当て、アクエに向いた。

「将来この村を継ぐ者としてアクエも聞きなさい」

 ラキアの手を握っていたアクエは目をしばたくと、真顔になり長老に向き直った。その横顔はまだ十代半ばといえど長を継ぐ者としての覚悟があった。

 ラキアも表情を引き締める。どこに帰るためのヒントがあるか分からない。

「とても年数では言えぬ過去の話だ。獣の耳を持つ者と持たぬ者は私欲のため争いを勃発させた。それは血で血を洗うほどの動乱に発展する。どこまでも終わらぬ戦。人々は……神まで呪ったらしい」

 神の単語にラキアの心臓が早鐘を打つ。黒髪の彼女が脳裏で振り返った。唇が何かを紡ぐが声はない。

 長老の話を聞かないといけないのに彼女が何を伝えたいのか、必死になりその音のない唇を凝視する。

 彼女は瞼を伏せると顔を背ける。

「惨い最期だったらしい。世界の境界線、そこで争いは収束した。呪いと数多の死体を残して」

「勝敗はないってこと?」

「伝承では繰り返してはならぬもの、として扱われておる。奇跡的に生還した先人が残したことだ。争いは何も生まぬ」

「世界の境界線……」

「多分繋がっていた道のことだろう。どこにあるのか、それは伝わっておらぬ。すまぬな。きっと終戦と共に戒めとして封印されたのかもしれん」

「じゃあ、その道を復活させればラキアは帰れるってこと?」

「そうなるな」

「そっか……」

 アクエは瞼を伏せる。漏れた声は沈んでいた。

「貴重なお話ありがとうございます」

「気分を沈めるだけで何も生み出さない話だったな。すまない」

「いえ」

 脳裏に浮かんだ彼女を呼び戻そうとしたが、彼女は去ってしまったようだ。ぽっかりと空いた心に冷たい風が吹く。

「今はゆっくりと身体を休めたらいかがかな。儂は歓迎する」

「あ、あたしも!」

「ありがとう……ございます」

 優しすぎる人達だった。

 こんなに酷い人間なのに。

 縋り付きたい気持ちもあった。でも居心地のいい世界で揺蕩ってはいけない。

 ラキアは深々と頭を下げる。その頭に温かいものが触れた。

「お主は……自分に優しくなりなさい」

 心を長老に見透かされラキアは目を見開いた。垂れた前髪で表情は誰にも見えていないが、触れた指先からラキアの身が固まったことは老人に伝わっているだろう。

「…………」

 返答が出来なかった。何を言っても虚実なのは自分が一番解っていたから。

(この世で一番罰せられる人間を赦すことは……できないんです)

 この世界で一番嫌いなのは自身だ、とラキアは爪を立てて拳を握った。




 鉄の匂いが鼻腔にこびりつく。

 底のない漆黒の沼地に半身を横たわらせ、ラキアは虚ろな瞳で漂っていた。

 いつか見た風景だ。

 あの時は…………

 ごぼりと吐き出す音が聞こえると沼から腕が生えた。それは粘着質な水を掻きながらラキアへと延びる。

 逃げる間も与えず彼の腕に絡みついた。折りまげんばかりの握力がラキアに掛かる。

 振りほどく資格はないと分かっていても激痛に身をよじる。口の端から泡が溢れ、苦悶の声がこぼれた。

『お兄ちゃんの……嘘……つき……』

 また、あの声、だ。

『守る……って……言ったのに』

 懺悔の言葉を呟こうとしたが、骨の割れる音にかき消されラキアは悲鳴を上げた。その声帯に冷たい指先があてがわれる。衝撃が襲ったと思うと眼前に黒髪の彼女が現れた。

 がらんどうの瞳から漆黒の涙を流しながら彼の頬を撫でる。

『さ……ら……』

 名を呼ぶが彼女の表情は変わらない。

 くすくすと笑い声が聞こえたかと思うと、妹が彼女に寄り添い愛おしく輪郭を撫でたあとに抱きしめた。

『誰も守れない』

 一転してラキアに向けられた表情は冷酷なものだった。

『そんな人……死んじゃえばいい』

 サラの手が顎を撫で首に到達したところで、その気管を締め上げた。

 苦しかった。悲しかった。

 それでも彼女の手を止めることは出来なかった。

 資格なんてなかった。

 サラに生かされた命なのに、そんな彼女を失わせて、僕が世界に残るなんて。

(……でも、まだ君が生きているって……思いた)

 

 目を覚ますと同時にラキアは咳き込んだ。首にはくっきりと首を絞めた痕。

 無意識な身体は悪質な方に素直で、きっとラキアが生を諦めていたらそのまま死んでいただろう。

(生きる資格なんてない……)

 まだ息苦しい中でそれでもラキアは幻想の中の彼女を手繰る。

(……でもまだ、彼女を置いては逝けない)

 相反する感情の中、ラキアは枕に顔を埋め低いうなり声を出す。

 願望だった。

 彼女は生きているという欲望が胸を締め上げる。

『私は神様だったんだよ』

「君は…………人だよ、サラ」

 誰がなんと言おうと。彼女が何と言おうと。

 彼の中で彼女はたった一人の愛した少女だった。




「ちゃんと噛んで食べてね」

「分かっておるぞ」

「はい。これラキアの分ね」

「ありがとう」

 結局あの後は寝られなかった。くっきりと付いてしまった絞めた痕を服で隠しながら、ラキアは食卓に着いた。

 この屋敷は広かったが、住んでいるのはアクエと長老だけだった。目の前に並んだ料理の数々はアクエお手製だ。

 拙い動きで箸を使い口に運ぶ。どの料理も見たことはなかったが、美味しかった。何よりも温かい。

 パタパタと駆けていくアクエの足音を聞きながら、黙々と口に運ぶ。

 長老の目がラキアの一点に注がれた。

「……寝ておらぬな。枕が合わなかったか?」

 箸を唇に当てたままラキアは固まる。

「…………いや、とてもいいですよ?」

「ならいいが」

 長老の瞳は全てを透かしていた。ラキアが寝られない理由が状況の変化ではないことを。それでも彼はそのことを口にしない。味噌汁を啜る音だけが場に響く。

(本当に、駄目だな、僕は……)

「身体が癒えるまでいるとよい」

 掛けられた言葉に返答が出来ない。誤魔化すフリをして煮物を口に運ぶ。

 癒える日なんて来るのだろうか。

 死神としての性は生涯罰を与えるだろう。

(手頃なところで旅立たないと)

 いずれ来る別れはラキアの存在によって手元へと手繰り寄せられる。次は目の前で彼の隈を目線でなぞる老人か、それとも台所に立っている少女か……

(戻っちゃったな……)

 サラが横にいた時は死神ではないと思えたのに……

「ラキア殿よ」

 箸を置いた長老はおもむろに頭を下げた。

「いつまでも居てもよい。でも、出来ることなら、旅立つ時は明朝で……アクエが寝ている時で頼む」

「顔を上げてください」

 大切な孫を危険に晒すことなど絶対にしない。

 彼女が死ぬことなど、絶対にしたくはない。

 長老の肩を叩くと彼はゆっくりと顔を上げた。

「分かりました」

「お主は近いうちに出ていくのだろう」

 やっぱり見透かされていたとラキアは胸中で息を吐き出す。

「傷も癒えぬうちに、抱えたまま行くことに対しては止めたい気持ちがあるが……人の選んだ道に口を出すべきではないと儂は思っとる」

「僕は酷く臆病です」

 この家から出ていくのも逃げだ。哀しみを見たくないから、去るのだ。

「臆病者は震えているだけだ。ラキア殿は開拓するために行くのだろう」

「そんな立派なものじゃないです」

 もう、この罰は変えられない。

 自分が、自分のことをよく分かっていた。

 抗う手は全て尽くした。これ以上何も出来ないのだ。

『出来ないなら死ねばいい』

 誰かの声がこだまする。

(違う)

 他人なんかじゃない。もっともよく聞いた声だ。

 朝の光と建物の影の境界線、そこに彼は現れてじっとラキアを見ている。

 自分が、自分を見ている。

(死ねないのは何故なんだろう……)

 そっと絞めた痕を服越しになぞる。

 楽になる道を断つのは、やっぱり抗いたいからだろうか。まだ意地汚く可能性に腕を伸ばしたいからか。

(答えは零したじゃないか)

 サラが生きている可能性、それの結末をまだ見ていないから。

(僕はまだ願望に縋る人間だ)

「ちょーろー、お茶飲む?」

 ひょっこりと顔を出したアクエに、先ほどのことなどなかったかのように長老は笑顔を向けた。

「頂こう」

「ラキアは? って苦手だっけか」

「ごめんね。でもこの味噌汁? だっけ、すごく美味しいよ」

「ありがとう! じゃ、ちょーろーの分だけね」

 ひらひらと手を振って消えた彼女を見送り、そっと瞼を伏せた。




 初めて村の全貌を知った。

 砂利道を歩く人の頭には総じて獣の耳が生えている。端を歩くラキアを除いて。

(本当にこの世界では『普通』なんだ)

 念のため、と被りもの代わりに拝借してきた麻布の端を指先で弄る。露骨に頭部を露出していたら目線は全てラキアに向いていただろう。手押し車を引いたおっさんが脇を通過したが、異世界人のラキアには目もくれなかった。

 大きな通りに出るとぽつぽつと商人が店を出していた。素知らぬ顔でラキアは店を覗き込む。長老に頼めばなんでも手に入るだろう。しかし全てを頼むのも気が引けた。

 本当に最小限の物だけを貰い、そしてそこに混じっていたここの通貨を小脇に足りないものを調達することにしたのだ。それに異世界には何があるのかも知りたかった。

「あんちゃん、珍しい召し物をしてるな」

 にっかりと笑った亭主に、しまったと思わず服を掴んだ。

 アクエも長老も目の前の商人のような、前で合わせる服装をしていたことを忘れていた。これでは獣の耳が生えていないことを隠しても人によっては目についてしまう。

(今まで誰も気にしなかったのが不思議だ)

「あんちゃんもしかして……」

 商人の手が伸びてきて麻布をはぎ取った。獣耳のないつるんとした頭部が露出する。

「あ、あの……返して……もらえますか?」

「やっぱり長老さんのところのお客人か! いやいやすまねぇ、好奇心に勝てなくてな」

 商人は頭を掻いて麻布を差し出した。

「長老さんから何か聞いて?」

「ちょっと訳ありな客人を招き入れたってな」

 ちょっとどころではなく、だいぶ訳ありだ。裏で手を打ってくれていた長老に何とも言えず申し訳ない気持ちになる。「耳がないのにぎょっとする奴もいるが、病気や生まれつき持ってない奴もたまにいるから堂々としてていいと思うぞ」

「そう……ですか」

 どうやら『異世界人』であることは伏せているらしい。商人の話を詳しく聞くと、ラキアはとあることにより耳を失くし、そのせいで一部記憶が欠けているといった設定らしい。これなら道具で疑問を持っても違和感がないというところだろう。

「で、あんちゃん何をお探しかな?」

「えっと……」

「ラキアどうして外にいるの?」

 この世界では聞き慣れた声が背後から掛かる。ゆっくりと振り返るとアクエが籠を抱えて立っていた。

「さ、散歩、かな?」

「ふーん……」

 じろじろと上から下まで見られる。

「欲しいものあったらちょーろーに言えばいいよ」

「あ、うん。でも直接見たくて……」

「そっか! 服とかなら試着が必要だもんね。でもラキア、細身だし……あたしのでも着れる?」

「さすがに着れないと思う。僕、これでも男だし……」

「意外と着れるかもよ。今度試してみようよ」

「い、いや無理無理無理」

 アクエの恰好は意外と丈が短い。覗いた足は健康的だが、こんなのを自分が着たらと思うと悪寒が走る。失敗したら見えてはいけないものが見えてしまう。

 商人も想像したのだろう。必死なラキアを横目にぷっ、と吹き出していた。

「大丈夫だって、いける!」

「いけない!」

 男としての尊厳を持たせてください。

 アクエはこれからでも着させようといった魂胆か、ラキアの腕を掴み店から離れた。

 川のせせらぎを横目にずんずんと突き進んでいく。

「じ、自分で歩くから大丈夫だよ」

「ラキア……もうすぐいなくなるでしょ?」

 腕が離れ、数歩のところでアクエは振り返った。河川敷には彼女とラキアしかいない。

 真剣な眼差しにラキアは口ごもる。

「聞いちゃったんだよね。ちょーろーと話しているところ」

 数日前の朝食での出来事はアクエに筒抜けだった。彼女はそっと障子の影に隠れ、全て聞いていた。

「今日の散歩も旅支度だよね。ほんと、嘘つくの下手だなぁ」

「そうかな」

 ラキアは微笑む。隠していた仮面の笑顔が張り付き、アクエの言葉から逃げようとしていた。アクエが何を言い出すのか怖かったのだ。連れて行ってと言っても肯定はできない。

 アクエの草を踏みしめる音がやたら耳につく。足元からは羽虫が一匹飛んでいった。

 眼前に立った彼女はラキアの眉間に人差し指を突き立てた。

「嘘つきな笑顔」

 親指と人差し指で輪を作りそれを弾く。軽い痛みが眉間に走るとともに虚実の笑顔も剥がれた。赤くなった額を押さえながらラキアは俯く。

「何でもお見通しだね」

「昔から何となく分かるんだよねー、なんてね」

「そっか……」

「いついなくなるの?」

「それは……分からないけど、多分近いうちに」

 君の首を刈り取る前に。

「本当はずっと居て欲しかったなんて言ったらびっくりする?」

 ラキアは一瞬瞳を見開いたあと、目線を川に落とした。

(ずっとは……居られないんだ)

 何度も伸ばした幻想はもう願うことさえ虚しい。

「冗談だよ」

 アクエはからからと笑って、両腕を広げて河川敷を駆けていく。

「あ、そうだ」

 遠くで振り返った顔は底抜けに明るい。張り上げた声はラキアの耳にまで鮮明に聞こえた。

「餞別に今日はとびっきり豪華な食事用意してあげる。何が食べたい?」

「……僕、この世界の料理あまり知らないよ」

 苦笑しながらアクエの背をゆっくりとした足取りで追う。気を使わせたな、とせめて何か買って帰ろうとポケットからお金を取り出し仕舞った。




「ねぇ、もしも目の前に壊れそうな人がいて……その人を救いたいって思ったら駄目?」




 星々の瞬きは潜まったが、それでも空はまだ紺碧に閉ざされていた。ラキアは一呼吸を置いて引き戸に手を掛けた。音を立てないように開けながら、背後に向かって礼をする。誰もいない廊下。長老には昨晩挨拶した。

 ひとつの予感じみたことを感じたが、あえてそれには目を向けなかった。

 そろそろ空が明るくなる。

 決して軽くない足取りで砂利道を進んでいくと、村の入り口に『彼女』はいた。彼の足音に俯いていた顔を上げる。

「奇遇だね」

「アクエ……」

 予感は的中していた。

 彼女の足元には麻袋が一つ転がっている。

「見送りならいいよ」

「見送りに見える?」

「……見えない」

 麻袋を見つめながらラキアは呟く。

「付いてくるのは、駄目だよ」

 まるで子供をあやすように優しく言い聞かせる。

 アクエは意志のこもった目をラキアから離さなかった。

「長老には話をつけたよ」

「え……」

「あたしね、今のままじゃ駄目だと思うんだ」

「そんな、アクエは危険を冒す理由は」

「あたしの中で駄目なら駄目なんだよ」

 朝日が地平線から覗き、アクエの頬を光に染め上げる。

 眩しくて、耐えられなくて、ラキアは瞳を細めた。どれだけ言っても言うことを聞かないことは分かる。それでも彼女の意志すらねじ曲げて、その身体を死神に差し出してしまうのは嫌だった。

(わがままだ)

 それでも今はそのエゴを通そう。死してしまっては元も子もない。

「それなら、僕の中で君が付いていくことが駄目なことだよ」

「どうして?」

「僕は死神だから。じゃあアクエは何で付いていかないと駄目なの」

 一瞬の沈黙が辺りを満たしたが、アクエの瞳は揺れなかった。

「死神って何?」

「今、訊いてるのは僕だよ」

「答えたら答える」

「…………」

 あまりの真っ直ぐさにラキアの瞳が泳いだ。

 こんな短時間に懺悔の軌跡を人に伝えることとなるとは思ってもみなかった。聞いた彼女は目の前にいない。これも繰り返す前触れだろうか。

 何度も、何度も。後悔して、心を切り裂いて、磔刑にされ。

 いつ、終わる?

 この命が途切れる予感はない。首筋に痕をつけても生き残っている。

「僕の周りでは人が死ぬ。大切に思っても、護ろうとしても、死体が積み上がるんだ」

「そんなこと」

「ないって言いたい? 偶然だよって。そう言った人もね、僕の前から消えたんだ」

「消えた、んでしょ。死んでないんでしょ」

 アクエの言葉にラキアは目を見開いた。

 それは彼の願望だった。悲願だった。それでもないものだと心の片隅でほんの少しだけ決めつけていた。それをアクエは肯定した。

 涙は流れなかったが、それでも心は震えていた。

「あたしね。ラキアみたいな人を過去に見たことがあるの」

 意志の強い目を細め、アクエは足下を爪先で抉る。

「その人は最後まで気丈に振る舞って笑っていたの。大丈夫じゃないことはまだ小さかったあたしにも分かった。でもそれ以上は踏み込めなかった」

 抉っていた足を止め一呼吸置く。彼女の眼の裏にはあの時の彼が甦る。

 ラキアと同じ黄土色の髪、同系色の耳。全身を外套と布で覆い、顔ぐらいしかまともに見えない。その人は笑ったまま哀しみを瞳に宿してアクエを撫でた。

 彼女は笑顔を向けていた。それしか出来なかった。彼には命さえ救ってもらったのに、自分は何も出来なかった。

「上に立つ身なのに、そんなのあたしが許さない。近づきたい人にも近づけやしない」

「そんな、アクエは十分やって」

「やってないからやるの!」

 両手を握りしめて叫んだ彼女は、自分の声にはっとなり口を噤んだ。もごもごと口の中で言葉を転がして、やがてぽつりと声に出した。

「……ラキアを代理に過去の清算をしようとしてるのは理解してる」

「それ、僕もやったことあるよ」

 二人の『サラ』は背を向けたままで振り返らない。

「これができれば救われると思っていた。結局僕のは、精算できたかどうかなんて計れるものではなくなってしまったけど」

「救われたかどうかも分からない?」

「それで救われた、とは言えないかな。別なもので救われた……逆戻りしてしまったけど」

「…………」

「僕はまだ怖いよ。誰かを失うことが……それでもアクエは付いてくる?」

「うん。それは曲げない。精算とかそういうの抜きにしてもあたしは誰かを救いたい。あの背中を追いたいの」

 お母さん、お父さん、と微かな声が風に混じる。

「あたしは信じるよ。ラキアが死神じゃないって。あたしの身で証明できるならする」

 胸に手を置き、アクエは固い声で宣言する。

「どう言っても無駄……だね」

「よく分かってんじゃん! ラキアが勝手に歩き出したら、あたしは背後を勝手に付いていくから」

 砕けた笑みを浮かべた後、即座に真顔になり続ける。

「あたしは死なない。約束する」

「…………」

 黒髪の彼女も宣告した。これは繰り返しなのだろうか。

(死が確定してないなら、まだすがりたい)

 もしも隣の彼女が死に瀕しそうであれば、自分の命を引き替えにしても彼女の御霊は現世に繋げよう。

(もう誰も失わない)

 祈りの先で『サラ』が一瞬だけこちらを向いた気がした。

(もう少しだけ待ってて)

「それじゃあ出発しましょうか! 魔物の相手とかは任せて」

「僕も戦うから……どう戦えばいいか分からないけど」

「頼りにしてる」

 背中を勢いよく叩かれて、ラキアは肺から息を吐き出した。

 とうに明るくなった空は晴天だった。

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