第10話 終わりの始まり
私は堕ちていく。底の見えない闇の中へと。嘯く叫びが鼓膜を震わせるのに、その闇は母胎のように優しく私を包み込んだ。
瞼を閉じると頬を何かが伝った。
拭う力はない。膝を抱えて私は闇に身を委ねる。
眼の裏で何かがまたたく。
恨むべき人であると認識するより先にその幻影は忘却の彼方へと攫われる。誰だったのか、今の私では全く思い出せない。それでも、人の形をしていてもその者に憎悪はなかった。
造形を手繰り寄せようとしたが、上手くできない。心に開いた穴に闇が浸食していく。
『……ラキア』
唇からこぼれた愛おしき者は返答をしない。
「こんなにあれば上出来でしょ!」
高すぎる晴天と草原の間を少女は桶を抱えながら駆ける。前合わせの服に短い丈から伸びた足は健康そうな色をしている。
桶の中の魚が跳ね、少女の頬に滴を飛ばした。
「ちょっと、今晩のおかずなんだから逃げちゃだめ」
桶の中を覗くと水面に少女の顔が映り込んだ。はつらつとした双眸がめっ、と魚を睨みつける。
目や鼻先は人間と同じものだった。しかし映り込んだ少女のパーツには人間にはないものがあった。髪の間から生えたそれは獣特有の動きをみせる。
耳が猫のそれを模していた。
「ちょーろーに早く夕餉作らないとな……」
少女の呟きに肝を冷やしたのか、魚がまた水面を尾鰭で叩いた。一際大きな反動が少女の腕に伝わって、彼女は思わず桶を落としそうになる。たたらを踏むと足下に柔らかいものがあった。
「うわっ!? なになに!?」
最初に想定したのは茶色い……そこまで考えて少女は頭を振った。
(そんなもの踏みたくない!)
恐る恐る振り返り目線を下げると、少女の顔から血の気が引いた。喉の奥から悲鳴が上がり、思わず桶を放り投げる。
少女の胸辺りまである草地から腕が伸びていた。
「な……ななな…………何!?」
昼間から怪談!? と少女は胸中で叫びながらも草を掻き分ける。この大地には魔物と呼ばれる異形の化け物が存在する。村の近くであるこの場所で見つかった事例は稀だが襲われた可能性もある。
腕だけかも……と思ったことを否定するために頭を一振りして草葉を勢いよく割ると黄土色の髪を持つ青年がうつ伏せに倒れていた。突き出ていた腕はまるで何かを掴もうとしたような形だと今になって少女は気づく。
彼女は即座に彼の上半身を抱え起こす。目立った外傷はない。乱れた髪を整えると隠れていた顔が露わになり……目を見開く。動きを完全に止め見つめた少女の頬に朱が差す。
(ってあたしそんな場合じゃない!)
「誰かぁ! っていないよね……」
魚のことなど頭になく、少女は青年を肩に担いで駆けだした。
「ちょっとの間辛抱しててね」
「気色悪い趣味してんな」
背後からの嫌みが誰のものであるか、イオは振り返らずとも分かっていた。彼には顔を向けず、手元を探りながら言葉を漏らす。
「ないのですよ」
「何がだ」
(カリストも一緒でしたか)
イオは手に男の片腕を持ちながら振り返る。腕の先に胴はなく、引きちぎられただの肉と化したそれが誰のものであるかは分からない。
断罪すべきモノを失った断頭台の周囲は血と肉片でまみれていた。
神の怒りに触れたモノは死に、その形は元の造形を留めていない。死臭しかしない。しかし目を覆いたくなる惨状でもイオの顔色は変わらないものだった。持っていた腕を白い布で覆う。
「この腕は誰のものか分かりますか?」
「しらねぇよ。あの馬鹿なお貴族様の誰かだろ?」
ガニメデの一言にカリストの片眉が上がったがそれ以上の言及は口の中に留めた。ガニメデの貴族嫌いは筋金入りだ。突っかかったところで無駄な体力を使うだけで生産性は全くない。
イオはガニメデの答えに満足したのか妙な笑みを浮かべて頷いた。
「そうですね。あの騎士の誰かです」
「俺を馬鹿にしているのか?」
「いえ、だから『騎士』の誰かなんですよ」
「お前は何を探している」
あの惨状を目の当たりにしたのはこの中でイオだけだった。彼は神のすぐそばにいて、彼女の力で難を逃れていた。王も助かったが神の怒りに卒倒して今は寝台に伏せている。傍らにはエウロパが控えている。
王以下の権限はいがみ合う三人に任されていた。
「だからないのですよ。あるべきものが」
「ぼかしてないでさっさと言え」
「堕ちた神に愛された者です」
兵士の死体はごまんと転がっている中で彼に該当するものは、ない。
「あの男か」
「惨殺されたとは到底考えられないのです。神の怒りを買ったのは、愚かな人間が彼女の庇護する者を殺そうとしたからです」
「余計なことを……」
あの場にラキアが現れなければ人は平穏を手に入れていた。欲は災厄しか生まなかった。
「あの神が死んだとも考えがたいのです」
「なんだと」
イオの確定的な物言いにガニメデは鼻に皺を寄せた。あんなことがもう一度起これば人に未来はない。
「憎い兵と共に自爆なんて私は願い下げですね」
「それはお前の感情だろう。あの神は断頭を自ら望んだ、あり得ることではないのか」
「私に感情があると思うのですか、カリスト」
イオの妙に外れた言葉に、カリストは苦渋の表情を浮かべながら首を振った。
「……み、皆さん、こちらだったんですね」
「おや、エウロパどうしましたか?」
胸の辺りで指をいじりながら歩いてくる彼の目線は泳いでいた。
「お前は王の元にいるんじゃないのか」
「病状が安定して……メイドからも付きっきりじゃなくていいと……」
「こんな時だからこそ天の主神が王を護るのが務めだろうが」
「なら、そういうカリストが付けばいいじゃないですか」
「はぁ?」
「今のところ適任は貴方だと思いますがね。他の仕事で溜まっていることは?」
「そんなものは溜まる前に終わらせている」
「ならいいじゃないですか。それに今騎士の不信感を買ってないのは貴方だけだと思いますよ」
イオの目線にエウロパは肩を震わせた。
彼の想定どおり、エウロパは追い出されたようだった。騎士達は恐ろしさに表立っては言わないが、彼の豹変した姿を見て王の横に立つのは些か心配だった。上の者が倒れれば民衆は混乱する。しかも神の襲撃の後だ。何が好機と王座を狙うか分からない。危険な芽は避けたいのだ。
「なるほどな」
天の主神唯一の貴族出であるカリストがさざ波立たないのは必然だった。
「私も軽率でした。こんなことに気づかないなんて……」
「参謀イオも地に落ちたか」
「見せかけ筋肉の貴方に言われたくありません」
「うるせぇ、傷があってもお前を吹っ飛ばすことはできるぞ」
「ガニメデさん、あの時は本当にすみません!」
「お前ら五月蝿いぞ!」
脱線しすぎたとイオは咳払いをする。この四人が揃うといつもそうだ、議題が中々進まない。
「能なし天の主神、とは言ったものですね」
誰に呟かなかった言葉は空気に溶ける。
「イオ、もう一度訊くがあの神が生きている確率は」
「何割がいいです?」
「最悪ってことか……」
ガニメデのぼやきに場の空気が重くなる。
「追い打ちをかけるとラキア・ペルセフォネがいない事実が一番痛いです」
「生きている確率をあげる要因か」
「もしも彼女が彼を連れ去っているなら事態は深刻です。彼女にとって大切なのは彼だけなのですから、他の人類なんていつでも狙えます」
「囲ってさえいれば、か」
「捕らえていれば脅しの材料になったのですが残念です」
「その言葉、あの神が聞いていたら殺されるぞ」
「おや失言。しかしながらあの情景は二度と見たくはないですね」
阿鼻叫喚の言葉で済むことだろうか。神の領域を目の当たりにして平然としていられる男など彼しかいない。王は日々繰り返される悪夢に震え、微かに生き残った兵士もここには踏み入ることもできない。二度などあってたまるか、と人々は嘆くだろう。
「私達は最良を掴み損ねたのです。せめて最良の次ぐらいは人間サイドに」
「あの神がいればな……」
メキアラはあの日以来行方をくらませている。
横たわる神の裁きに人々は畏怖しながら、それでもただ一人銀髪の男の心は虚無だった。