第9話 刑罰
彼女の見上げた空に鳩が一羽。平和の象徴であるその鳥は眼下で妖しく光る刃を見たのだろうか。
断頭台は似合わぬ晴天の空に鎮座していて、首を今か今かと待っていた。
ただ、彼の為に死のう。
踏み出した足を高い位置にあるところからメキアラは見つめる。左には王が玉座に腰を下ろし、後方にはイオ。
歴史を紐解くに、この場所は血に塗れている。民を捨てた王、反旗を翻した賊、人々を恐怖に突き落とした殺人鬼。彼らは全てここで息絶えている。灰色の石畳の隙間には酸化してこびり付いた黒。
また、新たな色が染み込む。『神』という人が手を下してはいけない存在に。
「刑を執行する!」
王の声にサラは顔を上げ微笑んだ。
断頭台へ向かう足に迷いはない。もう幸せは貰い過ぎた。両手から溢れ零れたそれを拾うことはできない。
せめて、この首が幸せの対価になりますように。
返さないといけない時がきた。
一呼吸おき、首を断頭台へ乗せようとした時それは起こった。目の前の扉が開き、男達が見知った人物を小突きながら流れ込んできた。
「王、こやつを庇おうとする反逆者を捕まえました」
サラは自分が指差されたことなど気に留めず、血に塗れたその顔を凝視した。こんな姿は彼女にとって見たくないものだった。ゆっくりと彼の顔が持ち上がり、薄く開いた目と合う。
『……サ……ラ……』
薄く開いた唇からは音が聞こえなかったが、確かにそう呟いた。
メキアラは苛立ちを隠さず、奥歯を噛みしめる。命じたのは彼をここに連れてこないことであり、事態は最悪であった。彼女の脳裏にあの時の場景が蘇る。
血と断末魔、絶望する神と骸。
「貴様ら! 誰の許可でここにいる!」
「王よ! 人を殺めようとする神を庇うことこれ然り、民の敵とは思いませぬか!」
メキアラスリィアという『神』さえ畏れぬ男は、最早人の皮を被った化け物だった。欲だけを満たそうとする魔物。そんな人間とは呼べない男達に小突かれるラキアは耳に入る言葉を反芻していた。
理解が追い付かない。
彼女が『神』だと、何故民衆は口にするのか。
悪意の籠った蹴りが背中に入り、抵抗する力もなくラキアは石畳の上に倒れ込んだ。手首は縄で固く結ばれ、起き上がることが出来ない。耳元で剣が鞘から抜かれる音がした。
サラが驚愕に息を呑む。
髪を鷲掴みにされ、起こされるラキアの首元に冷え冷えとした刃があてがう。
「神が断罪されるというのならば、こやつも同罪。首を切り落としましょうぞ」
「やめろ! そんなことを……!」
空気が棘のあるものに変わった。災厄は訪れた。
人々は廻っても、繰り返す。
「…………ラキアを……殺す……?」
研ぎ澄まされた瞳に今までの彼女の面影はない。温もりは消え、湛えるのは黒い刃。
「馬鹿共が!」
メキアラは片手を突き出し、人には分からぬ言語で言葉を紡ぐ。
サラの周りで一際空気がうねり、足元から光を呑み込む霧が噴出した。それは迷いなくラキアを殺そうとした男達に襲い掛かり、彼らを喰った。恐怖に怯えた顔は肉の塊と化し、吹き出した血はラキアの顔に掛かる。言葉にならない悲鳴と骨の折れる音の二重奏は世界の現実味を失くす。
「彼を消すなんて…………赦さない」
嫌な空気が漂うのを感じ、エウロパは飛び起きた。見知った星屑が散る部屋。輝きが悲鳴を上げている。カリストも同様の気配を感じとり、周囲を見回している。
「……もう、いつものお前だな」
睨みつけたカリストは竦みあがる彼を見て、少しばかり表情を和らげた。
「……ご……ごめんなさい……」
「いや、いい。それよりも今、何かを感じたか?」
エウロパは返答の代わりとして、首を大きく縦に振る。とてもよくない感じは肌を刺激している。
「お前が良さそうなら俺は見てくる」
「待って、ボクも行く」
星読み部屋から出ていこうとするカリストの裾を掴みエウロパは言う。手にはすでに剣を持っている。
「お前はさっきの状況を覚えていないのか?」
「次はちゃんと聞く」
出来るかどうが怪しいものだとカリストは思ったが、彼の同行に否定はしなかった。これから戦うかもしれない相手は、全てのことを凌駕している。味方、それもエウロパのような存在は重要になってくるだろう。リスクは仕方ない。
部屋から飛び出した二人は即座に止まることとなった。
「どうした!」
壁をつたい身体を引きずるガニメデは、カリストの顔を見て露骨に嫌な表情を浮かべる。
「どうしたもこうしたもねぇよ……だから貴族は嫌いだ」
「それは俺に対する嫌味か」
「貴族様って思うならそうじゃないのか」
実際に天の主神は仲があまりよくない。こんなことは日常茶飯事だ。しかし今は。
「……あ……あの…………」
三人の意識が一斉に窓の方を向く。
塔の一角の窓ガラスが勢いよく割れ、蛇のような黒い霧がうねった。
「やべぇよ……何だよこれ……」
人の起こせる業ではない。神はとうとうお怒りになった。人は無力だと思い知らされる時が来たのだ。
「サラ……!」
彼女と裁きを下した霧のだけが蔓延している世界でラキアは這いつくばっていた。男達の悲鳴も喰らう音も途切れ、異様な禍々しさだけが辺りを支配している。彼を拘束していた縄は切れていたが、身体は思うように動かない。
「サラ……もうやめよう。帰ろうよ」
「ラキア」
サラはこの状態で似合わない微笑みを浮かべた。誰よりも優しく、残酷な表情。
「私、神様だったの」
それは彼女が言わないでいこうと思ったものだった。しかし今となっては白状するしかない。
「人をね、すごく怨んでて……殺したいぐらいに憎んでる神だったの」
「サラは普通の女の子だよ」
ラキアにとってその言葉は一切脚色などなかった。隣で笑っていた。友と仲よさげに喋っていた。人の傷を癒してくれた。どれもがかけがえのないありふれた日常で、彼女は大切な人だった。
もう、誰も失いたくはない。
孤独は嫌で仕方なく、ずっと誰かと一緒に居たかった。それが叶うなら、愛した君がいいとラキアは腕を伸ばそうと足掻く。
人を殺したところは見てしまった。償いをしなければいけない重い枷をつけた彼女、その罪を受け入れる覚悟はできていた。
二人で背負って逃げよう。
「……ラキア……もう戻れないの」
サラの頬から光が零れたのをラキアは見た。
「みんな、みんな、この世の全てが……大好きだよ」
彼女は霧の中へ溶けそうだった。
「サラ!」
動かぬ四肢が恨めしい。彼女との距離は縮まらず、震えている体に触れることは叶わない。
いつも多くを望んだわけではなかった。ただ一つ願った。
誰もいなくならないで。
「さよなら」
その唯一の願いは無情にも切り裂かれ、ラキアの意識は闇へ呑み込まれた。