第9話 狂愛
灯りを一切つけない部屋に月光が降り注いでいる。メキアラはまばたきをせず、開けた窓から覗く月を凝視していた。
神の存在は眠ることはできても睡眠は必要としない。生れ落ちてから一度も瞳を閉じず世を見続ける神もいれば、生きとし生きるモノと同じように生活する神もいる。自分はどちらだったか、冴えきった頭で過去を呼び戻すと最初に浮かんだのは対の少女だった。
彼女と天上で二人、この世界を護り続けよう。
留まることのない神が珍しく選んだ道。双子として生まれたわけではない、それでもいつからか二人はそこにいた。そしてこの大地を愛した。
彼女は満月を仰ぎ、祈っていた。両手を組み、甘い空気に身を晒す姿は同じモノであるメキアラから見ても女神を形容するものであり、麗しいものだった。
(私も祈ってみようか)
柄にでもないことを考え、小さく苦笑を漏らす。自分がやったところで陳腐だということは想像するまでもないことだった。メキアラが人にしたことは大地を駆け、より良い方向へ導いただけ。ちょっとした手伝いでありそれすらも突っぱねた者は滅んだ。
その均衡で世界は成り立っている。
神は全てをしない。動かすのはそこに生きる者、流れるモノだ。
「あいつはその法則を解っていながらも、心を痛めていたな」
祈り、雨を降らせ、風を呼び、時には漂う流れを浄化した。そんな彼女。
控えめなノックの音がして、メキアラは紅い眼球だけを扉に向けた。相手は返事を待たず、いつもどおりに開けた。
「やっぱり寝てはいませんでしたか」
銀髪の後ろで闇が動いた。紅と黒曜の目線が交わり、サラは苦味を含んだ微笑を浮かべた。
「貴女様とのなぞなぞの答えが分かりました。ので、回答を連れてまいりました」
「思い出したのか?」
「はい、全てを……」
月光があの時とは少し違う容姿を照らしたが、美しさは相変わらずだった。
「入れ。イオは席を外してもらおうか」
「神の言うとおりに。あ、でも逃がすのだけはやめてくださいね。私達はこう見えても必死なんですから」
笑っているとも真面目ともとれる妙な表情を見せながらも、イオは返答を聞かずあっさりと身を引いた。信用しているのか、それとも神は束縛できないと踏んでいるのか、近くに騎士さえも置いていない。
(小馬鹿にしようが、私は逃がすような真似はしない)
「お久しぶりです。メキアラスリィア様」
「何故、逃げようと思わなかった」
何となくは分かるがそれでも問うてみたかった。彼女、いやサラの口から直接。
空気に漏れる想いは唇から吐き出された。
「彼の為です」
「死ぬことがか?」
サラは一瞬目を剥いたが、相手は神だと思い出し微笑んだ。
「彼も世界もそこに息づく人々を愛してしまったらこの選択しかないんです。私が私であるうちに」
「奴は悲しむな」
「傲慢なのも身勝手なのも分かっています。それでも私はラキアに生きてて欲しい」
一緒にいれば最初に傷つくのは間違いなく彼だ。手が血で塗れるのは夢の中で十分。
「生きたいとは思わないのか」
「生きたい……です。ラキアと一緒にいられればどれだけ幸せか。でも、この時だけで出過ぎたものだと理解しています」
「お前は変わっても相変わらずだったみたいだな」
「変わりましたよ。私はただの身勝手な人間に」
人間の部分を強調したのはそうでありたいという願いからだった。彼と一緒に歩いた者のままでいたかった。
「愛って辛いですね」
「私には分からん」
メキアラにとって『愛』とは親愛や母性のようなものだった。多民衆であり、個を愛することなど、多分一生ないのだろう。そう思っていた。サラの言うことは実際、理解することができない部分もある。
人になるというのは愛を知ることか?
「私が死んだことを知らずに、彼には幸せになって欲しいな……」
呟きは独り言で、サラは月を見上げていた。
「永遠とお前を探しそうだぞ、奴なら」
「それは……少しだけ幸せって思ったら、酷い女ですかね?」
「お前が思うのならそうなんだろう」
理解できないメキアラは言葉を濁すしかない。
「明日、処刑台に上がります。それで私は最期です」
サラは身なりを正し、メキアラに向き合った。髪が音をたて垂れ下がる。
「メキアラスリィア様、どうか人々を幸せにしてあげてください」
「私はただ在るだけだ」
頷けない自分は酷い者なのだろう。
サラは返答を解っていたのか、静かに微笑むだけだった。
深い眠りだった。不自然なほどに、まるで誰かの意思が働いているかのように。
心臓が早鐘を奏でている。いつもの朝ではないと知るにはそれだけで十分だった。ベッドから飛び起き、迷いなくサラの部屋を開ける。
主は、いなかった。
彼女の涙が回想の中で弾ける。抱きしめた感触はまだ腕に残り、それがより一層、今起こっていることを悲劇的に装飾していた。
『いなくならないで』だけでは駄目だったのだ。
彼女の意志は強すぎた。
本能が剣をとれと告げている。彼女が欲しいなら抗って取り戻せ。
どこに行ったのかも分からない、それでもラキアは駆け出した。右手には剣を持って。見上げた王城はいつもと変わらず、目覚めた鳥が束となって飛んでいく。
感覚が研ぎ澄まされる代償に思考が麻痺していく。目は開いているはずなのに、世界が闇に沈む。過去に体験したことだがそれがいつだったか思い出せない。
(いつでもいい、何でもいい、サラが手に入るなら)
「やだ……何あの子……怖いわ」
ラキアの足は貴族達の巣穴に入り、優雅に朝の散歩をしていた貴婦人は口元を扇で隠し眉根を顰めた。露骨に毛嫌う表情は下位を卑下したもの。
「怖いといったら、何か物騒なのが捕まったらしいわ」
ラキアの全神経が欲の塊を振り撒く女達に向く。
「私の旦那様、天の主神の直属の部下なんだけど、噂では女の子が捕まったらしいわ。神様だとか……その子頭がおかしいのかしら」
女にとっては自分の株を上げるため主人自慢をしたかっただけだが、ラキアはそれ以上の意味を見出した。瞳から完全に光が消え、影が支配する。耳障りな笑い声を出す女の胸ぐらを掴み、無理矢理に自分の方へ向かす。
「彼女はどこですか」
「はぁ? 離してくれな……!」
足の裏に地面の感覚がないと思った時にはラキアによって宙に浮かされていた。片手の力だけで女を宙吊りにしたままの彼の顔に表情はなく、強情な女もさすがに息を呑んだ。
「さっき話してた女の子、どこにいるんですか」
「細かいことは知らないわよ……お城じゃないかしら……!?」
言葉が途切れると同時に掴まれていた手が離れ、女は無様に尻餅をついた。いつもなら金切り声あげ弾糾するが、恐怖から言葉が喉につっかかって出ない女をしり目に、ラキアは厳格に構える王城に敵意を向けた。
穏やかな空がこれから起きることを隠している。
門番は珍しく一人だけだった。欠伸を噛みしめ呆けている姿は王に仕えている者として似つかわしくない。
緩んでいた彼の精神では『敵』に気づくのが遅かった。
敵意を剥き出しにしたラキアの剣が唸る。鞘から抜かなかったのは、ほんの少し残っていた理性からなのかもしれない。男が慌てて構えた矛先を掻い潜り、頸椎に一撃を与える。
呻くことも出来ず、男は責務を果たせぬまま崩れた。
羽ばたきが、こだました。
天井であり、天上。散らばった星は建物の中で人工的に造られたものながら本物のようだった。エウロパはそれを見上げながら、一人遠い日に思いを馳せる。
この摩訶不思議な部屋は星読み部屋と呼ばれ、エウロパの私室でもあった。小さなベッドに物書き用の机、それから様々な古書、それらは彼の物でなく、また本来はこの部屋でさえ譲り受けたものだった。
「騒がしいな……」
静寂を保っているはずのこの部屋でも聞こえる騎士の怒声。どこか星も落ち着かないようだった。
星読みの出来ないエウロパでも察する異変。彼が扉を開けると人々の声が襲ってきた。
(一応……持っておこうかな……)
普段は携帯しない細身の剣を腰に差し、騒ぎの根源に足を向ける。
「エウロパ様! 他の天の主神様は!?」
「ごめん……なさい、今まで部屋にいたので。どう……されたのですか?」
「は、男が一人よく分からないことを口走りながら暴れているようで………エウロパ様、剣お抜きになるのですか?」
エウロパの中で何かが脈打った。隠れていた衝動。
剣を指差していた騎士は悪寒に襲われ、恐る恐るその大元をみた。
上がる口角、ぎらつく瞳。
近づいてくる騒ぎにしっかりとその単語を聞いた。
『剣を、抜け』
「エウロパ様……?」
武者震いする騎士の前でエウロパは鞘から剣を抜いた。いつもの人の後ろに隠れ怯えている姿はもうない。歪んだ笑みは化け物そのもの。
「あの……ひっ!」
騎士の首元に抜き放たれた剣が紙一重の位置で止まる。
「あまり、目の前でうろちょろされたら斬っちゃうよ」
争っている者達の怒りと混乱を肌で感じる。久々だ、と頬が高揚すると同時に人が転がり込んできた。騎士が流す微量の血の香りが鼻腔をくすぐる。
まだ、足りない。
「あは……あはははははははははは!」
この場に不釣り合いな笑い声がこだまして、残像として残ったのは腱を斬られた騎士達。敵も味方も関係ない。彼に組み込まれた設計は『全てを殺せ』だったから。
それから『倒せ』にどうにか上書きできたが、それでも血の甘味たる感情は消えない。
『剣を、抜け』、それは合図だった。
薙ぎ払った剣がラキアの眼前を掠める。普段の彼だったら斬られていただろうが、ラキアもまた正常ではなかった。
「君が、敵?」
狂った笑みを張り付けたエウロパは首を傾げる。
「サラを返して下さい」
影を纏ったラキアの手には血を付けた剣、殺してはいなくとも傷を負わせた騎士の数はもう分からない。
死神と化け物。騎士達は遠巻きに見つめ、人によっては逃げ出していた。
「敵だよね? 敵なら殺してもいいよね」
笑みを貼り付けたままエウロパの剣が煌めき硬質な音が反響した。
騎士達は息を呑む。もうこの闘いは自分の踏み入れるものではない。
「君は楽しそうだね」
「どいてください」
ラキアの剣が横薙ぎに払われ、エウロパは跳躍しそれを回避する。
「あははははは、きっちりしっかりきっかり殺してあげるよ」
頭部に振り下ろされた剣を受け止め、流す体勢でラキアは剣を返す。エウロパはそれを余裕の笑みでかわし、目にも留まらぬ速さで攻撃を打ち込んでいく。
細身から出るはずのない、重い、しかも連続の攻撃を防ぎながら、ラキアは鎧を纏わぬ胸に狙いを定めていた。殺さないという余裕はもうない。本気で、首を刈り取る気でいかないと殺されるのは自分だ。
全ては、彼女の為に。
左腕に痛みが走る。軌道の外れた剣先は脇腹を浅く裂いただけで致命傷にはならない。
「痛み分けかな? でも君の方がすごい血」
間合いをつけ、エウロパは付けられた傷を撫でる。流したことのない血に興奮した。
今までの奴らは傷つけることもできず絶命する。その絶望した顔も面白いが、この楽しさは別物だ。
(こいつ、どんな顔するかな)
指先についた血を舐め、鉄の味を愛おしく思う。
ラキアの左袖は赤く染まっていたが、もう痛みに顔を歪めてはいない。神経はもう苦しみを感じてなかった。
苦痛は、彼女がいないこと、それだけ。
「少しずつ殺してあげるよ。人って斬り方によっては簡単に死なないんだって」
切り刻んで、切り刻んで、動かなくなった肢体に剣を突き立ててあげよう。勝者の旗として。
輝きは一本線を残し、ラキアの四肢を狙う。
「エウロパ!」
「ガニメデ様! カリスト様!」
刃と刃がぶつかり合う音だけが異様に響く空間でカリストは声を荒げた。しかしその『言葉』は当人に届かない。
「誰だぁ、あの言葉を言ったのは」
「詮索は後だ……いいか、殺すなよ」
「分かってる!」
ガニメデの大剣がエウロパの得物を止める。瞳孔の開いた瞳が巨漢を見つめ、つまらなさそうな表情を浮かべる。
「何で敵を庇うの? 何で邪魔をするの?」
大剣を軸にしてエウロパは回転し跳躍する。落下する位置はラキアの頭上。切っ先を下に構え、歪に笑う。
カリストとラキアは左右に避け、剣は赤絨毯に深々と刺さる。忌々しく舌打ちが響く。
「てめぇ、少し寝てろ!」
背後から大きく振り上げた大剣に目もくれず、エウロパはその巨体に一筋の赤を刻み付けた。回し蹴りでさらにその傷口を痛みつけ吹き飛ばす。ガニメデの口から業腹な声が漏れた。赤絨毯に沈んだ身体は、動けと命令を下しても指先が微かに震えるだけ。
そんな状態のガニメデを嘲笑うエウロパの背後でラキアは影を纏い好機とばかりに動き出した。彼を倒せばサラの元へ行ける。
「……!」
しかし願いは簡単に叶わない。ラキアの動きを認識したカリストが横から飛び出し、その肢体を吹き飛ばす。
「もう皆くたばれ!」
エウロパが狂気に酔った高笑いをしてカリストに襲い掛かった。彼は楽しさを追求していた。もう敵も味方もいいのかもしれない。自分の欲が満たされればいいのだ。血と阿鼻叫喚、それが世界を生成するものだった。
「エウロパ!」
攻撃を防いだカリストと目線が交わる。火花が散る剣先で彼の口がおもむろに開いた。
「アバロンの名を忘れたか!」
エウロパの瞳孔が委縮して剣から力が抜ける。膨大な力にはどれにも『鍵』が必要だった。力を持て余す魔法使いが自らに課す魔法具のように、エウロパにもまた力を封じるものが存在した。一つの言葉。
「アバ……ロン……」
言葉を反芻してエウロパの精神は闇に落ちる。
「……てめぇも寝てろ!」
体勢を立て直したラキアに最後の力を振り絞りガニメデは拳を後頭部に叩きつけた。肢体が震え、彼も音なく崩れ落ちた。
「ろくな奴がいねぇな……」
「お前が言う台詞じゃないな」
「なんだと!?」
傷口を押えながら喚くガニメデを無視して、カリストはエウロパを背負う。
「そいつはお前に任せる。いいか、神の言ったとおりにしろよ」
「分かってる。こんな男一人が世界の命運を握ってるなんてな」
殺すな、サラの前には現すな。
それが奇襲の一報を受け、部屋から出ていく際にメキアラに言われたことだった。彼女はもう断頭台に向かっている。彼のいないところで消えるサラの意志とメキアラの記憶に残る事柄。
「動ける奴で、誰かこいつを牢屋に繋げとけ」
ガニメデは声を掛けるが、あんなにいた騎士はまばらになっており、誰もが触らぬ神に祟りなしと一人、また一人と持ち場へ消えていた。唯一、不穏な笑みを浮かべた数人が彼の元へ近づいてくる。
誰もが分かる、嫌な雰囲気。
「何で牢屋なんだ?」
耳障りな声に不快感を露骨に表した直後、腹部の鋭い痛みに溜まっていた息が吐き出された。見ると傷口に男の拳があり、血が滲んでいる。
「平民以下が命令してんじゃねぇよ」
「…………てめぇら…………」
「お前が天の主神だなんて、吐き気がする」
ラキアを小脇に抱え、男達の足は断頭台へと向かう。王への見世物にするために。そしてあわよくばガニメデの地位をいただくつもりだ。
「……馬鹿野郎……今……行くんじゃねぇよ……」
消えた背はもう戻ってこない。苛立ちを込め、拳を壁に叩きつけた。




