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第8話 旅の終わり

 暗いくらい空間に私は立っていた。何も見えない、何も感じない。真の闇に放り込まれたらこんな感じなのか、と頭上を仰ぎ見る。

 星なんて気のいいものは散っていなかった。

 ただただ黒だけが広がる空間で、私はこのままでも仕方ないかと思ったのか一歩踏み出していた。硬質な足音が辺りに反響する。歩き出して分かったのは、ここが異様に広いことと床と思しき場所が硬いことだけだった。

 ここは一体どこなのか、何故私はここにいるのか。答えを模索するが、いい返答は自分から戻ってこない。

 仄かに彼の顔が脳裏をよぎり、私は駆けだしていた。

 彼とはまだ別れの時を迎えてはいない。ならどこか近くにいるはずなのだ。

 反響する足音は一つで、彼の存在は一向に感じられない。それが凄くすごく嫌で、私は頭を振った。

 闇は終わりを覗かない。

 水滴の跳ねる音で私は思わず足を止めた。悪寒が足元から駆け上がり、これがただの水ではないことを如実に伝えていた。揺れる瞳が闇に慣れてきたのか、真実で嫌がらせをしたいのか、明確な形が眼前に浮かび上がる。

 悲鳴が喉の奥で迸った。

 この世で一番見たくないものが、実像としてそこに存在している。どれだけ脳裏で否定しても姿見は彼以外他にいない。赤黒い液体に沈む黄土色の髪、繋いだ手。俯せになり乱れた前髪で表情は見えないが、絶望を具現化しているのは誰の目からでも明らかだった。

「ラキア!」

 彼を抱きしめようと伸ばした腕に瞳が一層揺れた。

 まだ、彼には指一本触れていない。しかしその腕は彼の血で染まっていた。

「何で……」

 否定の言葉をうたっても真実は変わらない。全てを思い出し解ってしまった事柄は望みとは真逆で、私は力なくその場に崩れ落ちた。喉の奥から嗚咽がこぼれる。躯と化した彼はやはり『大丈夫?』など言ってくれない。

 言わないようにしたのは、私。

 私が彼を殺めた。

 私は、人にとって『敵』だった。

 どんなに願っても寄り添うことなどできない。私がそうした。

 私は望んだのだ。ずっと昔、あの時、あの場所で。

 崩れる像、躯一つ、醜く吐き気がする魂。

『殺してやる』

 人間に絶望を与えるために生まれた存在。

「嫌だよ……」

 人の優しさを知ってしまった。愛する人を得てしまった。もう戻れないのだ、あの時、この地に降り立った非情さには二度と。

 闇が飛散した時、見たのは人の怯えきった顔だった。その姿に心が疼いた感覚を今なら鮮明に思い出せる。

 その気持ちで彼を殺したのかな…………

 絶望に打ちひしがれた彼の表情に高揚して、首を絞め、腸を引き裂いて。楽しかったよね? と声が聞こえた。

「私は……こんなこと望んでない……」

 耳を覆う目の前で人影が生まれ、顔を上げるとそれは卑しい笑みを浮かべていた。彼と出会った時に纏っていたドレス姿の『私』は、私と同じ目線になり、心に直接語りかけてきた。

『どれだけ足掻いても、どれだけもがいても、私は私。根底は覆らない』

 細い指先が私の腕を捉えて離さない。逃げたいと思っても身体は動かず、私は『私』に抱擁されていた。

 同じ、者なんだ。

 抱擁され知った居心地の良さは拭い去りたいものだったが、自分の一部を切り離すことなどできないと本能で理解していた。根は深く、抜くことなど不可能だ。

 何で記憶がなくならなきゃいけなかったの。

 躯となった彼を見つめ、私は呟いた。

 ラキア……貴方に逢うのは……

「間違いだったの?」




 記憶を失ったのは、メキアラと相打ちしたからだ。目覚めの時は一緒だった。

 もしもあの時、彼女がその場に居合わせなかったら? 考えただけでサラはぞっとした。

 きっと、男の首は飛んでいた。

 人の愛を知らず、憎悪だけをその胸に宿し、本能に忠実なまま人を殺し続けただろう。

 光と闇の相殺で記憶を失った『彼女』は、そうして虚ろで彷徨いながら懐かしい面影を背負うラキアを見つけ、誘われるように倒れたのだった。




 彼女はベッドに顔を埋め、声を殺して泣いていた。ラキアはそんな痛々しい姿を扉の隙間から見つめ、何もできない自分に悔やんだ。

 軽々しく声を掛けてはいけないことは明白で、彼女の涙が早く止まればいいのにと思っていても、細く折れそうな肩の震えは収まらない。

 静かに扉を閉め、溜め息を吐く。近くにいても何もできないのならせめて彼女の知っている人物を探そう。少しでもそれが救いであるのなら。

 もう不必要になってしまったことを知らないラキアは、そのまま宿から出てしまう。昼に掛かろうとする空は皮肉なほど澄み渡っていた。雑踏は相変わらず。

 『神』が降臨したと聞いたが、話題には上がっていない。

 耳に入る単語はありふれた事柄を語るものばかり。お昼をどうするとか、それは良いとか悪いとか、横に大切な彼女がいれば同じようなことを話すような中身だった。

 サラがいたらと否応なく考えてしまう。

 彼女に記憶があって、ラキア自身にはトラウマがなく、普通に出逢っていたら。サラは泣くことなく隣で微笑んでいたのかもしれない。

 どこか戻れないところまで来てしまったのかもしれない、と思ったのは杞憂ではなかった。

「あの……すみません」

「おや?」

 人の良さそうなおじさんに声を掛けたラキアを見る影が一つ。影の表情は優しいのに鋭かった。

「やっぱりそうですよね……すみません、ありがとうございました」

 いつもの返答に落胆しながら歩く姿を、銀髪の男が見ていることをラキアは知る由もない。

(サラ、君は何に泣いているのだろう)

 見上げた空には白い鳥が一羽、自由に飛んでいた。

 つられて顔を上げた男は訳が分からず首を傾げた。

「あの……すみません」

 会話は同じことの繰り返しだった。

 何度も何度も、サラと訊き回っても聞いた言葉。

『そんな人のことは知らない』

 もう帰ろう。そう思ったのは夕日が差し始めた頃だった。

 子供達が高い声を上げ、夕食の匂いが立ち込める路地へ消える。光の加減のせいだろうが、その風景がとても儚げで、まるで今、目の前から全て遠のいて消えてしまいそうだった。振り返った少女は似ても似つかないのに、サラを彷彿させた。

(僕はいつまで弱い人間なんだろう)

 石畳に伸びる影は少し縮こまっていた。

 まだ光の入っていない宿は妙に静かだった。弱い金色が差すだけで中は薄暗い。

「おかえり」

 一際暗い所から聴き慣れた声がして、サラが金色の中に身を晒す。

 表情は優しい笑顔、だがその目元には涙の跡がくっきりと残っていた。

「あのね」

「何?」

 彼女が飛散してしまいそうで、ラキアは間を入れず言葉を紡いだ。

 サラは一瞬目線を外し、足で床を擦った。小さな埃が金色に染まり舞う。

「夜、一緒にお散歩したいな」

 サラの頼み事は実に簡単で、ラキアにとっては何度でもやってあげたいものだった。

「きっと……綺麗だろうね……」




 ノックをして扉を開けると、サラは鏡を見つめていた。その顔はラキアの瞳に、いつもより気合が入っていることを伝えている。綺麗と思ってしまうほどだった。

「もう少し掛かりそう?」

「うん……ううん、大丈夫」

 手鏡を仕舞い、仕上げにと髪を整える。黒髪の艶が増し、昼間だったら話し掛けられる回数は増えただろうと安易に想像ができた。彼女は普段でも声を掛けられる。たとえ隣にラキアがいても。

(もう少し何かすればよかったかな……)

 格差は埋められないが、それでも彼女に似合うように、そんな考えがなかった自分にラキアは少しばかり後悔した。

「楽しみ……」

 こぼれた声には哀愁が付きまとっている。予想はこの時ついていた。

 宿屋の外はランタンで照らされ、明るく美しかった。人の喧騒も昼よりは控えめだが、それでも皆無という訳ではなく、楽しそうに弾んだ声がどこからか聞こえる。

 瞳を閉じ闇に身を晒すサラの髪が夜風に広がる。

「やっぱり綺麗だね」

 サラも綺麗だよと言いかけ慌てて言葉を呑み込む。キザすぎて自分が言うのには似合わない、とラキアは一人どぎまぎしていた。

 少し先を歩いてきたサラの歩幅が遅くなる。そっと彼女の方から腕を絡めてきた。

「デートって……考えてもいいかな」

 頬を染めながら笑顔で言われればラキアは頷くしかない。

 両思いなのに届かない想い、でも、それでも今だけは少しだけ触れていたい。願い事は細やかなのに、それすらも世は赦してくれない。

 この瞬間で時が止まってしまえばいいのに。

 そんなことまで考えてしまうのだった。

 静寂が満たす二人の横で大道芸者が火を噴いた。王都に入る時、横を通り過ぎた一団は、暗がりの中に煌々と火を灯し民衆を楽しませていた。歓声が上がり、同じぐらいの歳の少女が火吹き男の炎を手に持った松明に宿し、煽る声と共に一回転した。少女の華麗な動きに合わせ、人々の首が右往左往と追う。

「かっこいいな……」

 少女が決まったとばかりにはじける様な笑みを浮かべ手を振り下手へと消える。その動きは指先まで洗練され、人々の拍手は鳴りやまなかった。自分達は喜びも感動も与えられない、絶望だけを振り撒く存在。彼女の背を追った目は羨望の眼差しだった。

 一団から離れると王都の喧騒も遠くに聞こえ、完全な二人の空間になったようだった。腕の熱だけが確かにここにいますと伝えている。

 弱いオレンジの光に照らされた石畳の道には誰もいない。

「あ……」

 つきあたりのところで何かを見つけたサラは足を止め、微かな光を頼りに読み上げる。

「空中庭園……だって、行ってみようラキア」

 異論は勿論なかった。サラの傷ついた心が癒えるのなら、と痛ましい彼女に連れられ石畳の階段を上る。王都が遠のいていくようで、サラの髪が風になびくたび眼下を覗くとだいぶ高いのが見て取れた。

「……素敵……」

 黒曜の瞳に映ったのは、天界と呼んでも差し支えのないものだった。

 花弁の小さな白い花がところ狭しと植えられ、闇夜に浮かび上がっている。天を仰げば星空は近く手を伸ばせば届きそうだ。

 サラは花壇の間を真っ直ぐ伸びる石畳の上でおもむろに身を捻った。広がる髪、伏せた睫毛、スカートをたぐる姿。そのどれもがラキアには天女を連想させた。

 このまま闇夜に溶けてしまうのではないかとラキアは慌てて彼女の背を追った。

 サラは庭園の縁に立ち、長い髪を風に遊ばせていた。

「こうして見ると、王都も星みたいだね」

 眼下に広がった景色は、彼女が言うように星を散りばめたようだった。オレンジの光が点々と続く大地、大きいものは大道一座もので、密集しているのは貴族屋敷。

 サラはその一つ一つを指でなぞる。星座をつくっているみたい、と思いながらくすりと笑った。

「ラキアとこんな場所に来れて幸せ」

 貴方といればどんなところでも幸せだけど。

「サラ……これからも色んなものを見よう……」

 驚いてサラはラキアの顔を見上げる。

「きっと、もっと素敵なモノいっぱいあるから」

 眼下を望む横顔を見つめているだけでサラの視界は歪む。嗚咽は漏らしたくないと唇を噛んだが涙腺はいうことをきかず、石畳に点々と雫の跡を残す。

「サラ、居なくならないで」

 ラキアにとって、その言葉は勘だった。

 言葉と共にサラは彼に抱擁されていた。ラキアの温度や匂いに包まれ、彼女は耐え切れなくなりその優しい中で嗚咽を漏らす。痛かった。彼の望みを叶えられない自分をサラは心底嫌いになった。

「ごめんね……」

「何で謝るの……」

 貴方が今、言うべき言葉じゃないとサラは霞むラキアに首を振る。

 ラキアはこれ以上ないほどに強く、サラを抱きしめた。

「困らせてごめんね……」

 言葉に続いた小さな呟きにサラの心は震え、どうして普通じゃないのかと足元に広がる星を見つめ、またひとつ涙を零した。




 貴方と一緒だった。

 それだけでどれほど嬉しかったことか。

 でも言えないのは重々承知だから、この想いは静かに持っていく。

 貴方の隣に居られたこと、それがこの長い生の中で何よりも幸せだった。

 ありがとう。




 部屋はそれぞれに割り振っていた。年端もいかぬ恋人同士でもない男女が一緒の部屋なのは、始めの頃から気が引けていた。勿論、一部屋しかとれない場合は二人で寝泊まりしたこともあるが、今回は一人一部屋で良かったとサラは心底思った。

 それぞれのドアノブに手を掛け、顔を見合わせる。無理して笑っているのはお互いに理解している。今は、それでよかった。

「おやすみ」

 ラキアの声にサラは頷き、同じタイミングで扉を開けた。足を踏み出すのも一緒……しかしサラはそれ以上前進しなかった。彼が扉の向こうへ消えるのを息を殺して見守り、入れた足をそっと戻し閉まる音だけをその場に響かせた。

 足音を忍ばせ、月夜で陰影がくっきりと分かれた廊下を戻る。月は天頂に差し掛かり、さっきまであまり感じなかった月光が存在感を放っていた。

「誰ですか?」

 階段を下りたところで声を潜め振り返った。

 影の濃いところから男が音もなく現れる。階段の中腹と二階から一人ずつ。それから雑な男だろうか、背後からも一人分の床を軋ませる音がした。

「少しばかりお話を」

 階段を音もなく降りてくるイオは、いつもの妙な笑みを浮かべていた。護身の術をもたない彼の前には、カリストが剣に手を添え構えている。

 サラは唇に人差し指を当て数歩下がった。

「逃げるのか」

 抜き身の大剣が脇腹で妖しく光る。

「ガニメデ、血の気が多いですよ」

 イオの声はあくまで冷静で、ガニメデの腕が苛立ちで震えた。

「こいつは敵だろ」

「それでもここを汚すわけにはいかないでしょう。それに彼女は」

 背後を意味深に振り返る。闇夜に沈むとある扉。

「彼には知られたくないのでしょう」

「……はい」

 この人達は全てを知っている。サラは黒曜の瞳を真っ直ぐ向けた。

「質問には素直にお答えくださいね。でなければ彼がどうなるか分かりませんので」

「彼には手を出さないで下さい……私はどうなってもいいのでお願いします」

 あの人は関係ないと声を荒げたかったが、それでは気づかれてしまうと喉の奥で押し殺した。幸い、彼の動く気配はない。

「綺麗な愛情ですね」

 イオの言葉に賛美などなく、皮肉しか混じっていなかった。

「貴女は堕ちた神ですか」

「はい」

「彼を庇っているなどは」

「ありません。あの人は普通の人間です」

 そう普通の人間なのだ。死神と後ろ指差されようが、彼女にとっては優しさをくれた一人の人間だった。愛した唯一の人だった。

「行きましょう」

 両側で剣が光を放っていたが、サラは臆することなく宿の扉を開けた。月光が彼女に降り注ぐ。

 月を見上げ、祈りの形に手を組む。ずっと昔からやっていたこと。しかし今だけは彼の為だけに。


 


 さよなら。



 貴方は、幸せになってください。

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