第2話
「シリル、私の態度、よくなかった?」
「そのようなことはございません。ただ、陛下が名を問われたおりに、ご自分を敬称で呼ばれましたので」
「“黒のお姫様”?」
シリルがそう呼ぶので、それが私の呼び名だと思っていたけど、“黒のお姫様”ではなく”黒の姫”って言わないといけないらしかった。まだまだ覚えてないことは多そうだ。
「あの人は誰?さっき私に話しかけた大きな男の人よ」
「あの方が陛下です。この国の王様でいらっしゃられます」
“陛下”は名前ではなかったらしい。あれが王様なのか。後宮なのだから、ここに入ってくる男は陛下だけなのかもしれない。そういえば、豪華な衣装だった。白地に様々な色の糸で刺繍が施された上着を着ていた。にこりともしない顔には、何の表情もうかんでおらず、怖い人のように思えた。
夕食後、陛下が部屋までやってきた。
「献上時の資料に、お前の名は記されていなかった。お前にはナファフィステアの名を与える。今後はそう名乗るがよい」
部屋にある椅子に座り、感情をまるで出さない表情で、陛下が言う。
「ナファ…?」
言葉を勉強中だって、昼に言ったのを聞いてなかったのか?そんな発音の言葉を一発で聞き取れるとでも思うのか。私は日本語しか話せないんだから、外国語は非常に聞き取りにくいんだよっ。と思ったのが、顔に出ているのだろう。不満顔で、陛下を見る。
「不満なようだな」
陛下の顔は、変わってないように見えるが、不機嫌になったようだ。やや声が低く感じられるから、たぶん。
「その名は、難しいです。もう一回言ってください」
「ナファフィステア、が難しいのか?」
「早すぎます。もう少し、ゆっくり発音してください」
「ナファフィステア」
陛下が、ややゆっくりと発音してくれた。その口元をじーっと見つめる。こちらでは、舌とか使って発音するから日本人には難しい、はずだ(きっと私だけじゃないと思いたい)。
「ナファ、フィ、ス、テア」
とりあえず、発音してみる。自分の発音がカタカナになっている自覚はある。が、そのうち発音できるようになるだろう。紙とペンを持って陛下のそばに寄る。それを差し出し、
「綴りを書いてください」
と言った。陛下は、私の行動をジッと見るだけでなかなか動かない。聞こえなかったのか、私の言葉が通じなかったのかと思って、再度促す。
「私の名を、この紙に書いてください」
ようやく私から紙とペンに視線を落とし、手にした。ペンはもちろんインクをつけないと書けないので、インクの入った小さな壺の蓋を開け、陛下がペン先を入れられるように差し出した。陛下の手が紙に文字を綴る。それは筆記体のように文字がつながっていて、何が書いてあるのか、まるで分らなかった。シリルに見せれば、なんの文字がかかれているのかわかるかもしれないと、ぼんやり思っていると。陛下は紙を裏返し、私を見て問いかける。
「これは、何だ?」
「ここの地図です。私の知っているところだけですが」
この後宮内の地図を書いている紙を、陛下に差し出していたのだ。迷子にならないようにと、また、他の美女たちと極力遭遇しないようにと、後宮内の建物や庭や厨房などの部屋の配置を書いている。重宝するので、引出の一番上にしまっている。この紙を間違っても捨てることはないから、それに書いてもらおうと思ったのだ。
「それを、どうするのだ?」
幾分、陛下の声がくぐもっている。
「便利でしょう?ここにきてすぐに、シリルに欲しいと言ったんですが、もらえなかったので、自分で書いたんです」
紙を受け取ろうとすると、陛下は目の前で破りはじめた。
「何をするんですか!」
紙を取り戻そうとしたが、陛下に片手で強く鎖骨のあたりを押され、後ろに転んでしまった。
「お前は、これを、誰に渡すつもりだった?」
「誰かに渡す予定はありません」
「お前は、何処の国のものだ?」
どうやら地図は非常にまずいものであることが、わかってきた。もしかしたら、スパイ容疑とか、そういうことなのだろうか。
「ここは入り組んだ造りになっているので、地図を描いただけです」
「地図は必要ない。なぜ描く?」
「迷子になります」
「どこにでも女官が案内する。お前が覚える必要はない」
「だから、地図を描いた私は、悪い人、なのですか?」
スパイに該当する単語を知らなくて、とりあえず悪い人と言ってみた。
「地図を描くな。今回は見逃すが、不審な行動をすれば子供といえど容赦はしない」
と、陛下に言われたが、実際には、よくわからない言葉がいくつもあり、最初は何を言われたのか意味がわからなかった。
「“不審な行動”と“容赦しない”がわかりません。どんな意味ですか?」
という問いかけに、最初は強い口調で何かきついことを言っていたようだが、いくつかの言葉の後、意味を説明してくれた。ようやく内容を理解して、答えた。
「どういう行動が不審なのか、教えてください。あ、紙に書いてください。たくさんあるなら、覚えられないから。それから、陛下の話言葉は、私には難しい単語が多いです。今度話をするときは、説明してくれる人を連れてきてください」
この部屋にはシリルはいない。陛下と2人きりなのである。たいてい、シリルが傍にいて、厨房の人とかと話をして、わからない言葉があれば全て説明してもらっていた。今日は、部屋にくるなり陛下がシリルを下げさせたので、こんなことになってしまったのだ。
「まだ、言葉の勉強が足りぬようだな」
ため息交じりに陛下がそう言った。今頃気が付いたのか?最初にそう言ったはずだけど、忘れられていたようだ。
「教師を付ける。明日から勉強するように」
そう言い残し、陛下は部屋から出て行った。まぁ、シリルとは会話をしながら、少しずつ言葉を覚えたけど、シリルの仕事の合間にだけだ。辞書でもあれば違うんだろうが。それにしても、私のことをスパイかなにかだと思っているだろうに、教師を付けてくれるとは。王様は、愛想は悪いが、案外、いい人なのかもしれない。