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偽物と間違われて祝宴を追われた調香師ですが、その乾杯の香りは吸い込まない方がよろしいかと

作者: 真神 慧
掲載日:2026/07/18

銀の蓋が持ち上がるたび、鴨の皮が照り、茸のソースが湯気を立てる。私は会場の香りを確かめながら、給仕の盆も目で追っていた。


 祝宴の香りを整える仕事である。報酬には料理も含まれると聞いた。ならば鴨が私の前を三度も素通りするのは、契約違反に近い。


「調香師が料理ばかり見ているわ」


「平民には珍しいのでしょうね」


 扇の陰で唇が動く。耳は鼻ほど稼いでくれないので、聞こえなかったことにした。


 婚約披露の広間には白い花が飾られ、上座には蓋を閉じた銀の香炉、磨かれた卓には小さな匂い袋が置かれていた。花は朝の庭、蝋燭は蜂蜜、焼きたてのパンは日当たりのいい布団。そこまでは結構だった。


 その下に、何かがいる。


「煮詰めすぎた砂糖に、濡れた革を一滴」


 考えたつもりが、口から出た。


「何のお話?」


「会場の香りです。綺麗に着飾っていますが、靴下を替えていません」


 扇がいくつも止まった。次いで、細い含み笑いが卓から卓へ渡っていく。


「香りを靴下にたとえるなんて」


「ずいぶん変わった方ね」


「分かりやすいでしょう?」


 私は銀盆に伸ばしかけた指を引っ込めた。給仕が気の毒そうに鴨を運び去る。四度目だ。


 広間の奥で人垣が割れた。


 オデットが進み出てくる。真珠色の衣装、手袋、胸元には名門工房の印が刻まれた香瓶。招待客たちは瓶を見た途端、私に向けていた鼻先を揃えて彼女へ向けた。


「こちらが名門工房からお越しの調香師ですのね」


「ええ。代々、王侯貴族の香りをお作りしてきた工房です。私どもの香水は、大公家の夜会でもお使いいただいておりますの」


 オデットは瓶を光へかざした。中身ではなく、刻印がよく見える角度だった。


「では、あちらの地味な娘は?」


「存じませんわ。けれど名門工房では、香りを靴下にたとえる教育はいたしません」


 また笑いが走った。今度は扇で隠しきれない口もあった。


 黒い礼装の男が、広間の奥からまっすぐ歩いてきた。国境を預かるアルノー辺境伯様は、祝いの場にも剣の鞘が似合う。目だけなら冬の扉より隙間がなかった。


「名を」


「リゼットです。本日の香りを確認するよう依頼を受けました」


「証は」


「鼻です」


「工房の印を問うている」


「私の工房に印付きの瓶を揃えたら、香料を買うお金がなくなります」


 辺境伯様の視線が、私の飾り気のない鞄へ落ちた。それからオデットの香瓶へ移る。


「招待状を偽り、祝宴へ入り込んだか」


「招待状に偽りはありません。調香師と書いてあります」


「名門工房の使者はすでにここにいる」


 短い言葉のあと、警備の靴音が近づいた。


「退場させろ」


 オデットの口元がゆっくり持ち上がった。香瓶を胸の前で抱え、私にだけ見えるよう、ほんの少し顎を引く。


「お気の毒ですわ。身の丈に合わない場所へ来ると、鼻までおかしくなるのですね」


「安物の鼻では、名門の香りが分からないのよ」


「香水より先に肉の匂いを追っていたもの」


 警備の手が私の肘へ伸びる。私はその手より、向こうで切り分けられている牛肉を見た。


「追い出すなら、せめて肉料理のあとにしてください」


「何だと」


「報酬には祝宴の料理も含まれると聞きました。まだ何も食べていません」


 招待客の一人が噴き出した。辺境伯様の眉間には、指一本ぶん深い線が入った。


「連れていけ」


     ◇


 そのとき、給仕たちが細首の杯を一斉に配り始めた。乾杯用の酒には香りを移す細い飾り枝が添えられている。


 私の脇を通った杯から、甘い膜が鼻の奥へ貼りついた。


 足が止まる。警備に引かれた肘だけが、半歩先へ行った。


「待ってください」


「今度は何だ」


 私は給仕の盆から杯を取った。縁へ鼻を近づけた瞬間、舌の奥に古い銅貨を噛んだような味が広がる。


「その香りは吸い込まない方がよろしいかと」


 杯を掲げていた手が、広間じゅうで止まった。笑い声も、椅子を引く音も、途中で切れた。


 オデットだけが香瓶を抱え直す。


「負け惜しみで祝宴を台なしになさるおつもり?」


「台なしにしているのは、こちらです。甘い酒に、焦がした果皮。そこへ古い油を垂らして、強い花で蓋をしてあります」


「何を根拠に」


「嗅ぎました」


「そのような曖昧な話を、辺境伯様がお信じになるとでも?」


 私は杯をオデットへ差し出した。


「では、偽調香師の方に説明していただきましょう。この飾り枝には何を染み込ませましたか」


「偽調香師ですって?」


「失礼。本物でしたら、分かりますね」


 オデットは杯を取らなかった。


「名門工房の技法は秘伝です。平民の前で明かすものではございません」


「材料の名前も秘伝ですか」


「あなたには理解できませんわ」


「では、お客様にも分からない言葉で結構です。最初に入れたものは?」


「質問する立場をお分かりになって?」


「次に入れたものは?」


「辺境伯様、この無礼者を早く——」


「答えろ」


 辺境伯様の一言で、オデットの唇が閉じた。


 私は杯を卓へ置き、いちばん近い匂い袋をつまんだ。表面は金糸で縫われ、花の紋様だけなら立派なものだ。


「こちらも同じです。最初は干した花。少し古い。上から果物の皮を擦りつけて、若く見せています」


「そんなもの、誰にでも言えるわ」


 招待客の声が飛ぶ。私は袋を開き、皿の上へ中身を落とした。色の抜けた花びらに、まだ湿った果皮が混じっている。


 飛んできた声は戻ってこなかった。


「こちらは?」


 別の客が、自分の匂い袋を恐る恐る差し出す。


「お客様、鼻へ近づけすぎないでください。甘い花の下に、昨日の酒場の床がいます」


「酒場の床?」


「酒をこぼして、布で拭いて、乾く前にまたこぼした匂いです」


 袋を開くと、酒に浸した木屑が転がった。客の指が袋を放し、卓上の皿が鳴る。


「私の香水も見てくださる?」


 さきほどまで笑っていた女性が、手首を差し出した。


「香水は見ません。嗅ぎます」


「え、ええ。お願い」


 先生。安物の鼻は、ずいぶん早く出世した。


 手首へ近づく。白い花、熱した蜜、その奥に洗い残した鍋の焦げ。強い香りを重ねてあるせいで、鼻の内側が細い針で掻かれた。


「名門の春の香りだと聞いたのだけれど」


「春というより、冬の鍋を花畑へ埋めています」


 女性は隣の客の袖で手首を拭いた。拭かれた客も文句を言わず、自分の袖を鼻から遠ざける。


 私は卓から卓へ移った。


「これは熟れた桃に、濡れた灰」


「こちらは新しい革靴へ葡萄酒を一杯」


「こちらは綺麗です。ただし綺麗すぎます。花ではなく、花を洗った水だけを三日取っておいた匂いです」


 香りをほどくたび、広間の装いが薄くなる。金糸は金糸のままなのに、卓上の袋は安い詰め物へ戻り、客の手首にいた名門の春は台所の隅へ帰っていった。


 オデットは名門工房の名を繰り返した。


「そのような品を、名門工房が作るはずはございません」


「では誰が作りましたか」


「名門工房は長い歴史を持ち、多くの貴族の方々に——」


「何を混ぜましたか」


「大公家にも認められた工房ですのよ」


「最初の一滴は?」


「辺境伯様、この者は名門工房を侮辱しております」


 質問を返すたび、答えの代わりに顧客が一人ずつ増える。配合は一滴も増えない。


 私は最後の匂い袋を皿へ戻した。指先に移った香りを嗅いでも、さきほどより遠い。鼻の奥が熱く、吸う息の輪郭がざらついていた。


「リゼット」


 辺境伯様が初めて私の名を呼んだ。


「もうよい。そこを動くな」


「追い出される話は?」


「取り消す」


「料理は?」


「それも待て」


 取り消しのあとに待てを重ねるとは、冬の扉は注文が多い。


 辺境伯様は警備へ目を向けた。


「窓を開けろ。杯には触れるな。配られた匂い袋もすべて卓へ置かせろ」


 命令が広間を走り、給仕たちが窓の留め金を外した。夜気が入ってくる。普段なら石壁の湿りや庭の土まで分かるはずが、冷たさしか届かない。


「辺境伯様は、最初からご存じだったのですか」


 オデットの声から、名門工房の歴史が消えた。


「祝宴へ偽工房の品が入るとの情報を得ていた。売り手を泳がせ、配布先を確かめるため出入りを許した」


「でしたら、わたくしを疑うなど——」


「私は名門の香瓶を証と見た」


 辺境伯様の手が、剣帯の金具を一度だけ強く掴んだ。


「本物を取り違えた。私の失策だ」


 客たちは目を伏せた。つい先ほどまで私の鼻に値札を付けていた口が、一つも開かない。


「会場の偽装を確定するには、あの香炉を調べる必要があります」


 私は上座のそばを指した。


 祝宴の中心に据えられた銀の香炉。乾杯に合わせて蓋を開け、広間全体へ香りを満たす仕掛けだ。杯も匂い袋も客の香水も、あそこから漂う甘さで一つに結ばれている。


「だめだ」


 辺境伯様が私の前へ腕を出した。


「まだ嗅いでもいません」


「今のお前は、開いた窓の外を一度も見なかった」


「夜ですから」


「庭の匂いを確かめなかった、と言っている」


 鼻を動かす。何も来ない。花も土も、開いた窓の木枠さえない。


「少し疲れただけです」


「指が震えている」


「お腹が空いていますので」


 鼻へ触れようとした手を、辺境伯様が手首ごと止めた。冷えた金具を掴んでいたせいか、掌がひどく冷たい。


「最後まで嗅げばどうなる」


「明日の朝食が味気なくなるかもしれません」


「本当のことを言え」


「明後日も、その次も。いつ戻るかは、鼻に聞いてください」


 辺境伯様の指がきつくなり、すぐに緩んだ。


「もう嗅ぐな。逃がして構わない」


 オデットの肩が跳ねる。胸元の香瓶を押さえたまま、出口へ足をずらした。


「摘発のために、祝宴への出入りまで許したのでしょう」


「次の機会を待つ」


「偽工房は品を替え、売り手を替えます」


「君の鼻は替えが利かない」


「私の鼻です」


「だから命令できないことは分かっている。頼む、やめてくれ」


 短い命令しか落とさなかった口が、最後の言葉だけを低く置いた。


 私は手首を引いた。辺境伯様は追わず、香炉との間に立ったままだ。


「専属契約を結ぶつもりだった」


「追い出そうとした相手とですか」


「本物なら、私の管理下に置く。それが最も確実だと考えていた」


「ずいぶん香りの悪い契約です」


「ああ」


 辺境伯様は道を空けなかった。


「その話を条件にはしない。今は戻ってくれ」


 私は銀の香炉を見た。蓋の隙間から、薄い煙が一本だけ立っている。匂いはもうない。匂わないものを嗅ぎ分けるなど、穴のない針へ糸を通すより始末が悪い。


 けれど舌の奥には、乾杯の杯から拾った古い銅貨がまだ残っていた。最後の糸だ。


「料理を保温しておいてください」


 そばにいた給仕が目を丸くした。


「全部ですか」


「肉とパンとスープを。菓子もお願いします」


「分かった。料理長に伝える」


 給仕は踵を返した。騒ぎの中を厨房まで走っていく背中だけが、祝宴よりよほど頼もしい。


「リゼット」


「仕事の途中で帰ると、食事が喉を通りません」


「その鼻で食事を案じるな」


「鼻がなくても噛めます」


 辺境伯様の腕の下をくぐった。礼装の袖が私の髪を掠める。掴まれはしなかった。


     ◇


 香炉の前へ立つ。


 銀の蓋へ指を掛けた。熱が爪から腕へ走り、鼻の奥では細い針が束になって待っている。


 息を吐く。肺を空にする。


 蓋を開けた。


 吸い込んだ途端、熱が鼻から額へ突き抜けた。


 甘さは来ない。花も酒も油も来ない。ただ、舌の奥に残っていた銅貨が、黒く焦げて転がった。そこへ濡れた革、古い木屑、腐りかけた果皮が一本ずつ絡みつく。


 目の前が白く狭まる。香炉の縁を掴んだ指だけが、自分の位置を教えていた。


「杯の飾り枝を作ったあと、残りを匂い袋へ。さらに薄めて、客の香水へ混ぜています」


「違いますわ」


 オデットの声が裏返った。


「全部、同じ鍋です」


「名門工房ではそのような——」


「鍋底の焦げを隠すため、最後に強い花を入れた。けれど焦げは消えません。砂糖を足しても、名門の瓶へ移しても」


「証拠はどこにありますの!」


「その香瓶を調べれば分かります」


 オデットの右手が胸元へ動いた。


 抱えていた香瓶を襟の内側へ滑り込ませる。真珠色の布が瓶の形に膨らんだ。


 招待客たちの視線が、同じ場所へ集まった。


「これは、わたくしの——」


「先ほどは名門工房から預かった証でしたね」


「辺境伯様、わたくしは騙されていただけでございます。あの女こそ、工房の名を——」


「瓶を出せ」


 辺境伯様の命令に、オデットは一歩退いた。背が卓へ当たり、並んだ杯が鳴る。


「お客様方へ贈られた香水も、すべてあなたが手配したものですね」


「わたくしほどの者が、平民の作った品など——」


「瓶を出せ」


 オデットの手が胸元を覆う。警備が左右へ立つと、指は一本ずつ布から離れた。


 香瓶が床へ落ちた。


 割れなかった。立派な瓶は丈夫だった。中身を守ることにかけては、持ち主より働き者らしい。


 警備の一人が瓶を拾い上げる。オデットは空になった両手を見下ろし、招待客の間にできた細い隙間へ体を向けた。


 誰も扇で口を隠していなかった。笑っていた唇は線になり、椅子も衣装も一斉に彼女から離れる。


「お帰りはこちらです」


 警備に示され、オデットは歩き出した。名門工房の名は、もう一度も出なかった。


     ◇


 私は香炉から手を離した。


「これで、同じ鍋から作られた品だと分かります。売り手を追えば——」


 その先が続かなかった。息を吸っても、何も入ってこない。


 白い花へ顔を近づける。


 ない。


 卓上の杯へ鼻を寄せる。


 ない。


 給仕が厨房から運んできた皿には、厚く切った肉と茸のソースが湯気を立てていた。その湯気が頬へ触れても、世界は空っぽのままだった。


 辺境伯様の手が皿を押しのけ、私の肩を支えた。


「先生、こちらへ」


 招待客が椅子を引いた。


「先生をお通しして」


「医師を呼んで。早く」


 人垣が左右へ割れる。安物の鼻が通るには、広すぎる道だった。


「呼ばなくて結構です」


 声が少し掠れた。喉を整えようと唾を飲んでも、口の中には水の冷たさしかない。


「もう甘いも酸っぱいもありません。それでも、最後に残った嘘だけは分かります」


「話すな」


「辺境伯様の顔が、先ほどからひどいです」


「それは匂いではない」


「では私の専門外ですね」


 辺境伯様は返さなかった。肩に置かれた手が、服の皺を増やしていく。


 料理長が厨房の扉から顔を出した。


「肉は焼き直すか」


「焼き直さないでください。固くなります」


「スープは?」


「蓋をして、そのまま」


「菓子も取ってある」


「見事なお仕事です」


 料理長は一度だけ頷き、給仕たちへ指を振った。騒動の間も守られていた皿が、私の前へ一品ずつ戻ってくる。


     ◇


 辺境伯様はその皿を見てから、広間を見渡した。


「リゼットを専属調香師として迎えるという提案は撤回する」


 客たちが小さくざわめく。私は肉へ伸ばしかけたフォークを止めた。


「今後、どこで働くかは君が決めてほしい。私からの依頼を受けるかどうかも、その都度、君が選べる」


「先ほど捨てるとおっしゃった契約ですね」


「ああ。君の腕を私の都合で囲う権利はない」


 辺境伯様は腰の剣を外した。給仕へ預け、手袋も取る。それから私の椅子の前へ回った。


 片膝が床につく。


 招待客の息が重なった。私はフォークを持ったまま、茸のソースが一滴も垂れないよう皿の上へ戻した。


「これは仕事とは別の話だ」


 辺境伯様は見上げた。命令を置いていた口が、次の一言だけは急がない。


「私の失策で、君の商売道具を危険にさらした。許しを得られるとは考えていない。返事を断ることも、後日にすることも、君が選んでほしい」


「何のお返事でしょう」


「君の鼻ではなく、君に隣にいてほしい」


 床についた膝は動かなかった。


「リゼット。生涯の伴侶になっていただけませんか」


 白い花は匂わない。肉も、茸も、焼きたてのパンも、湯気だけがそこにある。


 私はナイフを入れた。肉の中心は薄い桃色で、料理長は騒ぎの最中にも焼き加減を守っていた。


「求婚のお返事は、味が戻ってからでもよろしいですか」


「もちろんだ」


「それから、食事のあとで」


「ああ」


 私は保温されていた皿を示した。


「まだ何も食べていません」

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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