偽物と間違われて祝宴を追われた調香師ですが、その乾杯の香りは吸い込まない方がよろしいかと
銀の蓋が持ち上がるたび、鴨の皮が照り、茸のソースが湯気を立てる。私は会場の香りを確かめながら、給仕の盆も目で追っていた。
祝宴の香りを整える仕事である。報酬には料理も含まれると聞いた。ならば鴨が私の前を三度も素通りするのは、契約違反に近い。
「調香師が料理ばかり見ているわ」
「平民には珍しいのでしょうね」
扇の陰で唇が動く。耳は鼻ほど稼いでくれないので、聞こえなかったことにした。
婚約披露の広間には白い花が飾られ、上座には蓋を閉じた銀の香炉、磨かれた卓には小さな匂い袋が置かれていた。花は朝の庭、蝋燭は蜂蜜、焼きたてのパンは日当たりのいい布団。そこまでは結構だった。
その下に、何かがいる。
「煮詰めすぎた砂糖に、濡れた革を一滴」
考えたつもりが、口から出た。
「何のお話?」
「会場の香りです。綺麗に着飾っていますが、靴下を替えていません」
扇がいくつも止まった。次いで、細い含み笑いが卓から卓へ渡っていく。
「香りを靴下にたとえるなんて」
「ずいぶん変わった方ね」
「分かりやすいでしょう?」
私は銀盆に伸ばしかけた指を引っ込めた。給仕が気の毒そうに鴨を運び去る。四度目だ。
広間の奥で人垣が割れた。
オデットが進み出てくる。真珠色の衣装、手袋、胸元には名門工房の印が刻まれた香瓶。招待客たちは瓶を見た途端、私に向けていた鼻先を揃えて彼女へ向けた。
「こちらが名門工房からお越しの調香師ですのね」
「ええ。代々、王侯貴族の香りをお作りしてきた工房です。私どもの香水は、大公家の夜会でもお使いいただいておりますの」
オデットは瓶を光へかざした。中身ではなく、刻印がよく見える角度だった。
「では、あちらの地味な娘は?」
「存じませんわ。けれど名門工房では、香りを靴下にたとえる教育はいたしません」
また笑いが走った。今度は扇で隠しきれない口もあった。
黒い礼装の男が、広間の奥からまっすぐ歩いてきた。国境を預かるアルノー辺境伯様は、祝いの場にも剣の鞘が似合う。目だけなら冬の扉より隙間がなかった。
「名を」
「リゼットです。本日の香りを確認するよう依頼を受けました」
「証は」
「鼻です」
「工房の印を問うている」
「私の工房に印付きの瓶を揃えたら、香料を買うお金がなくなります」
辺境伯様の視線が、私の飾り気のない鞄へ落ちた。それからオデットの香瓶へ移る。
「招待状を偽り、祝宴へ入り込んだか」
「招待状に偽りはありません。調香師と書いてあります」
「名門工房の使者はすでにここにいる」
短い言葉のあと、警備の靴音が近づいた。
「退場させろ」
オデットの口元がゆっくり持ち上がった。香瓶を胸の前で抱え、私にだけ見えるよう、ほんの少し顎を引く。
「お気の毒ですわ。身の丈に合わない場所へ来ると、鼻までおかしくなるのですね」
「安物の鼻では、名門の香りが分からないのよ」
「香水より先に肉の匂いを追っていたもの」
警備の手が私の肘へ伸びる。私はその手より、向こうで切り分けられている牛肉を見た。
「追い出すなら、せめて肉料理のあとにしてください」
「何だと」
「報酬には祝宴の料理も含まれると聞きました。まだ何も食べていません」
招待客の一人が噴き出した。辺境伯様の眉間には、指一本ぶん深い線が入った。
「連れていけ」
◇
そのとき、給仕たちが細首の杯を一斉に配り始めた。乾杯用の酒には香りを移す細い飾り枝が添えられている。
私の脇を通った杯から、甘い膜が鼻の奥へ貼りついた。
足が止まる。警備に引かれた肘だけが、半歩先へ行った。
「待ってください」
「今度は何だ」
私は給仕の盆から杯を取った。縁へ鼻を近づけた瞬間、舌の奥に古い銅貨を噛んだような味が広がる。
「その香りは吸い込まない方がよろしいかと」
杯を掲げていた手が、広間じゅうで止まった。笑い声も、椅子を引く音も、途中で切れた。
オデットだけが香瓶を抱え直す。
「負け惜しみで祝宴を台なしになさるおつもり?」
「台なしにしているのは、こちらです。甘い酒に、焦がした果皮。そこへ古い油を垂らして、強い花で蓋をしてあります」
「何を根拠に」
「嗅ぎました」
「そのような曖昧な話を、辺境伯様がお信じになるとでも?」
私は杯をオデットへ差し出した。
「では、偽調香師の方に説明していただきましょう。この飾り枝には何を染み込ませましたか」
「偽調香師ですって?」
「失礼。本物でしたら、分かりますね」
オデットは杯を取らなかった。
「名門工房の技法は秘伝です。平民の前で明かすものではございません」
「材料の名前も秘伝ですか」
「あなたには理解できませんわ」
「では、お客様にも分からない言葉で結構です。最初に入れたものは?」
「質問する立場をお分かりになって?」
「次に入れたものは?」
「辺境伯様、この無礼者を早く——」
「答えろ」
辺境伯様の一言で、オデットの唇が閉じた。
私は杯を卓へ置き、いちばん近い匂い袋をつまんだ。表面は金糸で縫われ、花の紋様だけなら立派なものだ。
「こちらも同じです。最初は干した花。少し古い。上から果物の皮を擦りつけて、若く見せています」
「そんなもの、誰にでも言えるわ」
招待客の声が飛ぶ。私は袋を開き、皿の上へ中身を落とした。色の抜けた花びらに、まだ湿った果皮が混じっている。
飛んできた声は戻ってこなかった。
「こちらは?」
別の客が、自分の匂い袋を恐る恐る差し出す。
「お客様、鼻へ近づけすぎないでください。甘い花の下に、昨日の酒場の床がいます」
「酒場の床?」
「酒をこぼして、布で拭いて、乾く前にまたこぼした匂いです」
袋を開くと、酒に浸した木屑が転がった。客の指が袋を放し、卓上の皿が鳴る。
「私の香水も見てくださる?」
さきほどまで笑っていた女性が、手首を差し出した。
「香水は見ません。嗅ぎます」
「え、ええ。お願い」
先生。安物の鼻は、ずいぶん早く出世した。
手首へ近づく。白い花、熱した蜜、その奥に洗い残した鍋の焦げ。強い香りを重ねてあるせいで、鼻の内側が細い針で掻かれた。
「名門の春の香りだと聞いたのだけれど」
「春というより、冬の鍋を花畑へ埋めています」
女性は隣の客の袖で手首を拭いた。拭かれた客も文句を言わず、自分の袖を鼻から遠ざける。
私は卓から卓へ移った。
「これは熟れた桃に、濡れた灰」
「こちらは新しい革靴へ葡萄酒を一杯」
「こちらは綺麗です。ただし綺麗すぎます。花ではなく、花を洗った水だけを三日取っておいた匂いです」
香りをほどくたび、広間の装いが薄くなる。金糸は金糸のままなのに、卓上の袋は安い詰め物へ戻り、客の手首にいた名門の春は台所の隅へ帰っていった。
オデットは名門工房の名を繰り返した。
「そのような品を、名門工房が作るはずはございません」
「では誰が作りましたか」
「名門工房は長い歴史を持ち、多くの貴族の方々に——」
「何を混ぜましたか」
「大公家にも認められた工房ですのよ」
「最初の一滴は?」
「辺境伯様、この者は名門工房を侮辱しております」
質問を返すたび、答えの代わりに顧客が一人ずつ増える。配合は一滴も増えない。
私は最後の匂い袋を皿へ戻した。指先に移った香りを嗅いでも、さきほどより遠い。鼻の奥が熱く、吸う息の輪郭がざらついていた。
「リゼット」
辺境伯様が初めて私の名を呼んだ。
「もうよい。そこを動くな」
「追い出される話は?」
「取り消す」
「料理は?」
「それも待て」
取り消しのあとに待てを重ねるとは、冬の扉は注文が多い。
辺境伯様は警備へ目を向けた。
「窓を開けろ。杯には触れるな。配られた匂い袋もすべて卓へ置かせろ」
命令が広間を走り、給仕たちが窓の留め金を外した。夜気が入ってくる。普段なら石壁の湿りや庭の土まで分かるはずが、冷たさしか届かない。
「辺境伯様は、最初からご存じだったのですか」
オデットの声から、名門工房の歴史が消えた。
「祝宴へ偽工房の品が入るとの情報を得ていた。売り手を泳がせ、配布先を確かめるため出入りを許した」
「でしたら、わたくしを疑うなど——」
「私は名門の香瓶を証と見た」
辺境伯様の手が、剣帯の金具を一度だけ強く掴んだ。
「本物を取り違えた。私の失策だ」
客たちは目を伏せた。つい先ほどまで私の鼻に値札を付けていた口が、一つも開かない。
「会場の偽装を確定するには、あの香炉を調べる必要があります」
私は上座のそばを指した。
祝宴の中心に据えられた銀の香炉。乾杯に合わせて蓋を開け、広間全体へ香りを満たす仕掛けだ。杯も匂い袋も客の香水も、あそこから漂う甘さで一つに結ばれている。
「だめだ」
辺境伯様が私の前へ腕を出した。
「まだ嗅いでもいません」
「今のお前は、開いた窓の外を一度も見なかった」
「夜ですから」
「庭の匂いを確かめなかった、と言っている」
鼻を動かす。何も来ない。花も土も、開いた窓の木枠さえない。
「少し疲れただけです」
「指が震えている」
「お腹が空いていますので」
鼻へ触れようとした手を、辺境伯様が手首ごと止めた。冷えた金具を掴んでいたせいか、掌がひどく冷たい。
「最後まで嗅げばどうなる」
「明日の朝食が味気なくなるかもしれません」
「本当のことを言え」
「明後日も、その次も。いつ戻るかは、鼻に聞いてください」
辺境伯様の指がきつくなり、すぐに緩んだ。
「もう嗅ぐな。逃がして構わない」
オデットの肩が跳ねる。胸元の香瓶を押さえたまま、出口へ足をずらした。
「摘発のために、祝宴への出入りまで許したのでしょう」
「次の機会を待つ」
「偽工房は品を替え、売り手を替えます」
「君の鼻は替えが利かない」
「私の鼻です」
「だから命令できないことは分かっている。頼む、やめてくれ」
短い命令しか落とさなかった口が、最後の言葉だけを低く置いた。
私は手首を引いた。辺境伯様は追わず、香炉との間に立ったままだ。
「専属契約を結ぶつもりだった」
「追い出そうとした相手とですか」
「本物なら、私の管理下に置く。それが最も確実だと考えていた」
「ずいぶん香りの悪い契約です」
「ああ」
辺境伯様は道を空けなかった。
「その話を条件にはしない。今は戻ってくれ」
私は銀の香炉を見た。蓋の隙間から、薄い煙が一本だけ立っている。匂いはもうない。匂わないものを嗅ぎ分けるなど、穴のない針へ糸を通すより始末が悪い。
けれど舌の奥には、乾杯の杯から拾った古い銅貨がまだ残っていた。最後の糸だ。
「料理を保温しておいてください」
そばにいた給仕が目を丸くした。
「全部ですか」
「肉とパンとスープを。菓子もお願いします」
「分かった。料理長に伝える」
給仕は踵を返した。騒ぎの中を厨房まで走っていく背中だけが、祝宴よりよほど頼もしい。
「リゼット」
「仕事の途中で帰ると、食事が喉を通りません」
「その鼻で食事を案じるな」
「鼻がなくても噛めます」
辺境伯様の腕の下をくぐった。礼装の袖が私の髪を掠める。掴まれはしなかった。
◇
香炉の前へ立つ。
銀の蓋へ指を掛けた。熱が爪から腕へ走り、鼻の奥では細い針が束になって待っている。
息を吐く。肺を空にする。
蓋を開けた。
吸い込んだ途端、熱が鼻から額へ突き抜けた。
甘さは来ない。花も酒も油も来ない。ただ、舌の奥に残っていた銅貨が、黒く焦げて転がった。そこへ濡れた革、古い木屑、腐りかけた果皮が一本ずつ絡みつく。
目の前が白く狭まる。香炉の縁を掴んだ指だけが、自分の位置を教えていた。
「杯の飾り枝を作ったあと、残りを匂い袋へ。さらに薄めて、客の香水へ混ぜています」
「違いますわ」
オデットの声が裏返った。
「全部、同じ鍋です」
「名門工房ではそのような——」
「鍋底の焦げを隠すため、最後に強い花を入れた。けれど焦げは消えません。砂糖を足しても、名門の瓶へ移しても」
「証拠はどこにありますの!」
「その香瓶を調べれば分かります」
オデットの右手が胸元へ動いた。
抱えていた香瓶を襟の内側へ滑り込ませる。真珠色の布が瓶の形に膨らんだ。
招待客たちの視線が、同じ場所へ集まった。
「これは、わたくしの——」
「先ほどは名門工房から預かった証でしたね」
「辺境伯様、わたくしは騙されていただけでございます。あの女こそ、工房の名を——」
「瓶を出せ」
辺境伯様の命令に、オデットは一歩退いた。背が卓へ当たり、並んだ杯が鳴る。
「お客様方へ贈られた香水も、すべてあなたが手配したものですね」
「わたくしほどの者が、平民の作った品など——」
「瓶を出せ」
オデットの手が胸元を覆う。警備が左右へ立つと、指は一本ずつ布から離れた。
香瓶が床へ落ちた。
割れなかった。立派な瓶は丈夫だった。中身を守ることにかけては、持ち主より働き者らしい。
警備の一人が瓶を拾い上げる。オデットは空になった両手を見下ろし、招待客の間にできた細い隙間へ体を向けた。
誰も扇で口を隠していなかった。笑っていた唇は線になり、椅子も衣装も一斉に彼女から離れる。
「お帰りはこちらです」
警備に示され、オデットは歩き出した。名門工房の名は、もう一度も出なかった。
◇
私は香炉から手を離した。
「これで、同じ鍋から作られた品だと分かります。売り手を追えば——」
その先が続かなかった。息を吸っても、何も入ってこない。
白い花へ顔を近づける。
ない。
卓上の杯へ鼻を寄せる。
ない。
給仕が厨房から運んできた皿には、厚く切った肉と茸のソースが湯気を立てていた。その湯気が頬へ触れても、世界は空っぽのままだった。
辺境伯様の手が皿を押しのけ、私の肩を支えた。
「先生、こちらへ」
招待客が椅子を引いた。
「先生をお通しして」
「医師を呼んで。早く」
人垣が左右へ割れる。安物の鼻が通るには、広すぎる道だった。
「呼ばなくて結構です」
声が少し掠れた。喉を整えようと唾を飲んでも、口の中には水の冷たさしかない。
「もう甘いも酸っぱいもありません。それでも、最後に残った嘘だけは分かります」
「話すな」
「辺境伯様の顔が、先ほどからひどいです」
「それは匂いではない」
「では私の専門外ですね」
辺境伯様は返さなかった。肩に置かれた手が、服の皺を増やしていく。
料理長が厨房の扉から顔を出した。
「肉は焼き直すか」
「焼き直さないでください。固くなります」
「スープは?」
「蓋をして、そのまま」
「菓子も取ってある」
「見事なお仕事です」
料理長は一度だけ頷き、給仕たちへ指を振った。騒動の間も守られていた皿が、私の前へ一品ずつ戻ってくる。
◇
辺境伯様はその皿を見てから、広間を見渡した。
「リゼットを専属調香師として迎えるという提案は撤回する」
客たちが小さくざわめく。私は肉へ伸ばしかけたフォークを止めた。
「今後、どこで働くかは君が決めてほしい。私からの依頼を受けるかどうかも、その都度、君が選べる」
「先ほど捨てるとおっしゃった契約ですね」
「ああ。君の腕を私の都合で囲う権利はない」
辺境伯様は腰の剣を外した。給仕へ預け、手袋も取る。それから私の椅子の前へ回った。
片膝が床につく。
招待客の息が重なった。私はフォークを持ったまま、茸のソースが一滴も垂れないよう皿の上へ戻した。
「これは仕事とは別の話だ」
辺境伯様は見上げた。命令を置いていた口が、次の一言だけは急がない。
「私の失策で、君の商売道具を危険にさらした。許しを得られるとは考えていない。返事を断ることも、後日にすることも、君が選んでほしい」
「何のお返事でしょう」
「君の鼻ではなく、君に隣にいてほしい」
床についた膝は動かなかった。
「リゼット。生涯の伴侶になっていただけませんか」
白い花は匂わない。肉も、茸も、焼きたてのパンも、湯気だけがそこにある。
私はナイフを入れた。肉の中心は薄い桃色で、料理長は騒ぎの最中にも焼き加減を守っていた。
「求婚のお返事は、味が戻ってからでもよろしいですか」
「もちろんだ」
「それから、食事のあとで」
「ああ」
私は保温されていた皿を示した。
「まだ何も食べていません」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




