第3章:垂直の奔流、鋼の風
1. 聖域の崩壊
「アイリス」という名が空気に溶けた瞬間、静寂は暴力的な音によって切り裂かれた。
ガガガガガッ!
天井のハッチを突き破り、三機のセキュリティ・ドローン「アイ・オブ・タワー」が飛来した。無機質な多眼レンズが赤く発光し、アイリスの白い肌を冷酷にスキャンする。
[警告] 重要保護対象「アイリス」の汚染を確認。排除プロトコル開始。
「汚染だと? 冗談じゃねえ、泥だらけの俺のことかよ!」
カイルは毒づきながら、アイリスの細い手首を掴んだ。
ドローンの下部から伸びた電磁警棒が青白い火花を散らす。カイルは間一髪で彼女を抱き寄せ、クリスタルのベンチの陰へと滑り込んだ。
「いいか、アイリス。これからやることは、あんたの知ってる『お行儀の良い移動』じゃない。死ぬ気で俺に捕まってろ!」
アイリスは、カイルの作業着から漂う、焦げたオイルと冷たい風の匂いに目を白黒させた。
「死ぬ気で……? でも、ここは地上2,000メートル……」
「ああ、だからこそだ! 落ちなきゃ死なねえ!」
カイルは背中のバックパックから、無骨なアンカー・ガンを引き抜いた。
狙うのはハッチではない。この美しい、完璧なまでに磨かれた全面ガラス張りの床だ。
「つかまれ!」
ドォォォォォン!
特殊合金のアンカーが透明な床を粉砕した。
強化ガラスがダイヤモンドの砂のように弾け、一気に気圧の差が牙を剥く。クラウン内部の安定した空気が、吸い込まれるように外の世界へと噴出した。
「ああああああっ!」
アイリスの悲鳴は、吹き荒れる突風にかき消された。
二人の体は、重力と気圧の奔流に押し流され、タワーの最頂部から暗い夜の雲海へと放り出された。
2. 鋼の垂直線
眼下には、どこまでも続く闇。
上空には、怒り狂うドローンたちの赤い光。
そして目の前には、アイテリス・タワーの巨大な外壁――通称**「青い絶壁」**が、超高速でせり上がっていく。
「カイル! 落ちてる! 私たち、落ちてるわ!」
アイリスはカイルの胸に顔を埋め、叫んだ。
「計画通りだ! 予定より少し早いだけだ!」
カイルは空中で姿勢を制御し、左腕のガジェットを操作した。
カチリ、と硬質な音が響き、彼の背中からタワー外壁のレールに噛み合うための「スライド・カラビナ」が展開される。
ギギギギギギギィィィィィッ!!
金属と金属が激突し、凄まじい火花が闇夜を照らす。
二人の墜落速度が急激に殺され、内臓がせり上がるような衝撃が襲った。カイルは歯を食いしばり、アイリスを離さないよう腕に力を込める。
彼らは今、タワーの外壁を走るエネルギー供給レールを命綱に、垂直に滑落していた。
「見てろ、これがタワーの本当の姿だ!」
アイリスは恐る恐る目を開けた。
そこには、クラウンからは決して見ることのできなかった光景があった。
タワーの外壁には、無数の「光の血管」が脈打っている。下層階から吸い上げられたエネルギーが、青い燐光となって複雑な幾何学模様を描き、巨大な放熱板からは蒸気が龍のように立ち上っている。
美しい。
けれど、それは生き物の血を啜る機械の心臓部を見るような、おぞましい美しさだった。
「後ろから来るぞ!」
追っ手のドローンが、タワーの外壁に沿って急降下してくる。
ドローンはレール上のカイルたちを狙い、高周波レーザーを放った。レーザーが外壁を焼き、溶けた金属の飛沫が火の粉となって舞う。
「くそっ、しつこいな!」
カイルはスライドの速度を調整し、タワーの「ヒート・パイプ」が密集するエリアへと逃げ込んだ。
そこは、タワーから排出される熱気が渦巻く、灼熱の迷宮だ。
3. 高度1,200メートル:乱気流の舞い
「熱い……空気が、燃えてるみたい」
アイリスが喘ぐように言った。
「我慢しろ、ここを抜ければ第8居住区の換気ダクトに出られる!」
だが、ドローンは諦めない。
三機のうち一機が、自爆覚悟でカイルたちのレールを遮断しようと体当たりを仕掛けてきた。
「アイリス、目を閉じろ!」
カイルはレールからカラビナを解除。
一瞬の無重力。
そのまま、真横を走る巨大な排気ファンの回転翼へと飛び移った。
巨大な羽根が風を切り、二人を翻弄する。カイルはアンカー・ガンを反対側の構造物に打ち込み、振り子の要領でドローンの追撃を回避した。
背後でドローンが自爆し、爆風が二人の背中を押す。
その衝撃で、アイリスを固定していた補助ベルトが引きちぎれた。
「――っ!?」
アイリスの体が、カイルの手から離れる。
高度1,200メートル。
防護服も着ていない少女が放り出されれば、雲海に飲み込まれる前に気圧と寒さで命を落とすだろう。
「アイリス!」
カイルは迷わず、自分を繋いでいたメイン・ロープを切り離した。
落下するアイリスを追い、彼は空中を泳ぐように手を伸ばす。
夜の帳の中、アイリスの白いワンピースが、まるで折れた羽のように舞っていた。
アイリスは、自分が死ぬのだと思った。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
クラウンのあの息の詰まるような静寂の中で朽ちていくより、この荒れ狂う風の中で消える方が、ずっと自由であるような気がしたからだ。
(ああ、空って……こんなに広かったんだ)
その時、強い力が彼女の腰を抱き寄せた。
カイルだ。
彼は空中でアイリスを抱き締めると、予備のアンカーをタワーの「廃液ダクト」の縁に叩き込んだ。
ガツン!
鋭い衝撃と共に、二人の体はダクトの暗い穴の中へと転がり込んだ。
4. 鉄の胃袋の中で
暗闇。
滴り落ちる水の音。
そして、激しく上下する二人の鼓動だけが響く。
「……はぁ、はぁ、……生きてるか、アイリス」
カイルの声は、これまでの強気な調子とは一転して、掠れていた。
「……ええ。たぶん」
アイリスは、自分の手が震えていることに気づいた。
それは恐怖の余韻であり、同時に、生まれて初めて「自分の力で生き残った」という高揚感でもあった。
ふと見ると、カイルの手首から血が流れている。アンカーの反動で痛めたのだろう。
「カイル、怪我が……」
「あー、これくらい平気だ。タワーの油にまみれりゃ、バイキンも逃げ出すさ」
カイルは冗談めかして笑い、懐から一本の汚れた発光棒を取り出した。
淡い緑色の光が、錆びついたダクトの内部を照らし出す。
「ここは第9居住区の廃棄物処理経路だ。ここまで来れば、ドローンのセンサーもゴミと見分けがつかなくなる」
「……ゴミ」
アイリスは、自分の白いドレスを見つめた。
今やそれは泥と油で汚れ、ボロボロになっている。けれど、彼女はその汚れが、何よりも誇らしかった。
「アイリス。ここから先は、さっきの『檻』とは正反対の場所だ」
カイルは立ち上がり、彼女に向かって手を差し伸べた。
「光はない。空気も悪い。でも、あんたを『標本』として見る奴は一人もいない。……行くか?」
アイリスは、迷わなかった。
汚れたその手を、今度は自分の意思でしっかりと握り返す。
「ええ。連れて行って、カイル。……あなたの住む、世界へ」
ダクトの先には、アイテリス・タワーの深層階――人間たちが泥臭く、けれど懸命に生きる「地獄」という名の自由が広がっていた。




