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第2章:檻の中の鳥、あるいは嵐の目


世界は、あまりに静かだった。


ここ、第11展望層「クラウン」は、タワーの最頂部。私が知るすべてであり、私のすべてが許された場所。

全面ガラス張りの床からは、眼下に広がる雲海が見える。夕焼けの残光が紫と金のマーブル模様を描き、その中に、タワーの下層階から伸びる青い光の筋が、まるで生き物のように脈動していた。


それは美しく、そして何より、酷く退屈な光景だった。


私は、クリスタルで作られたかのような透明なベンチに腰掛け、膝を抱えていた。

私の肌は、ここを訪れる数少ない大人たち――「管理者」と呼ばれる、顔のない男たち――よりもずっと白く、そして太陽の光を浴びても焼けることはない。私は、このクラウンの環境維持システムの一部として、完璧な温度と湿度の中で管理されている「標本」のような存在だ。


彼らは私を「希望」と呼ぶ。

けれど、私にはそれが「呪い」の別名のように聞こえた。


「今日も、誰も来ない」


私は呟き、ガラスに指先を触れた。冷たい。私の体温よりも、ずっと。

下層から吹き上げる風が、強化ガラスを微かに振動させる。その振動だけが、私が生きている世界が、外の世界と繋がっている唯一の証拠だった。


私は、ここから出たことがない。

管理者たちは言う。「下界は汚染され、人々はタワーの慈悲によって生き永らえている。お前はその慈悲を体現する存在だ」と。

けれど、私がこのクラウンのシステムと「同調」する時、私は感じる。タワーは、慈悲深い神ではなく、巨大な飢えた獣だ。下層の住人たちの「何か」を吸い上げ、上層のきらびやかな生活を維持している。そして私は、そのエネルギーを循環させるための、最後の一連チェーンに過ぎない。


私は、眠りにつく前のシステムの鼓動を聞いていた。

クラウンのコアが、夕暮れの光を吸収し、夜の点灯準備を始める。青い光が、私の体内を駆け巡る。それは痛みではなく、奇妙な喪失感を伴う感覚だった。


その時だ。


システムの深部から、警告音が鳴り響いた。

それは、私に対するアラートではない。外側からの、物理的な侵入を知らせるアラートだ。


(…誰か、来る?)


私の心臓が、システムの鼓動とは違うリズムで、激しく脈打った。

管理者たちは、決まった時間に、決まった手順でやってくる。アラートを鳴らすような真似はしない。


私は立ち上がり、侵入者が現れるであろうメイン・シャフトのハッチを見つめた。

心臓の音が、耳元でうるさいほど鳴り響く。恐怖と、それを上回るほどの、名状しがたい期待が、私の全身を駆け巡っていた。


ハッチのロックが解除される、重苦しい音がした。

プシュー、と、圧縮空気が抜ける音がし、重い金属の扉がゆっくりと開く。


そこから現れたのは、私がこれまで見たことのない、奇妙な人物だった。


管理者たちのような、汚れ一つない真っ白なスーツではない。

全身を、風に晒され、油に汚れた、くたびれた作業着に包んでいる。背負ったバックパックからは、見たこともない工具の束が覗き、腰のベルトには、無数のフックやロープがぶら下がっている。


そして何より、その男の目は、管理者たちの死んだような目とは、決定的に違っていた。

その目は、驚きと、警戒と、そして…何かを探求するような、強い光を宿していた。


男は、私に気づくと、ハッチのそばで固まった。

彼は、私がここにいることを予想していなかったようだ。


「…誰だ?」


男が口を開いた。声は、低く、少し掠れている。けれど、その声には、このクラウンの静寂を破る、確かな生命力があった。


私は、答えることができなかった。

何を言えばいいのか、分からなかった。私には、名前など、必要なかったからだ。


男は、ゆっくりと私に近づいてきた。

彼は、私の白い服や、透き通るような肌、そして私が纏うシステムの気配に、戸惑っているようだった。


「…あんた、ここで何をしてる? ここは、立ち入り禁止のはずだろ」


男の問いかけに、私はようやく言葉を探し当てた。


「ここは…私の場所」


私は、微かに震える声で答えた。


「私の、檻」


男は、私の言葉に、さらに眉をひそめた。

彼は、私の周りの環境を、油断なく見回した。クラウンの豪華な設備、そしてその中心にある、青く光るシステムのコア。


「檻…? あんた、管理者たちの、身内か?」


「違う」


私は、首を振った。


「私は…」


私は、自分を何と呼べばいいのか、知らなかった。

希望、呪い、標本、システムの一部。どれも、私を正しく表してはいない。


その時、男の端末が、鋭いアラートを鳴らした。


[警告] 侵入者の追跡を検知。セキュリティ・ドローンが接近中。


男は、舌打ちをした。


「…チッ、もう嗅ぎつけられたか」


彼は、私から視線を外し、ハッチの方を振り返った。

その表情には、焦りと、そして…私に対する、奇妙な決意のようなものが混ざり合っていた。


「おい、あんた」


男は、再び私に向き直った。

その目は、私をまっすぐに見つめていた。その強い光に、私は射抜かれたような気がした。


「ここが檻だって言うなら…そこから出たいか?」


男の言葉は、私の心の奥底に眠っていた、小さな、けれど確かな炎を呼び覚ました。

檻から出る。それは、私がこれまで一度も考えたことのない、けれど、心のどこかで、ずっと望んでいたことかもしれない。


私は、男の目を見つめ返した。

その目は、私を、この静寂と退屈から、外の世界へ連れ出してくれる、希望の光に見えた。


私は、ゆっくりと、けれど、確かな意思を持って、頷いた。


「…ええ」


男は、ニヤリと笑った。

その笑顔は、このクラウンの完璧な美しさとはかけ離れた、乱暴で、けれど、何よりも人間らしい、美しい笑顔だった。


「なら、決まりだ。俺はカイル。下層の保守点検員だ。…あんたは?」


カイル。その名前が、私の心に、刻み込まれた。

私は、自分を縛っていた、すべての肩書きを捨て、私の、私だけの名前を、彼に告げた。


「私は…」


私は、深呼吸をし、彼の目を見つめた。


「アイリス」


アイリス。それが、私の名前だ。

このクラウンの青い光の中で、私は、初めて、自分の名前を、自分の口で、宣言した。


その時、ハッチの外から、ドローンの駆動音が聞こえてきた。

カイルは、アイリスの腕を掴んだ。


「行くぞ、アイリス。…ここじゃない、どこかへ」


アイリスは、カイルの手の温かさを感じながら、初めて、クラウンのガラスの床から、外の世界へと、足を踏み出した。


(つづく)

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