第六話 黄昏の迎撃
夕暮れは、思ったより早く訪れた。
村を覆っていた緊張は、ゆっくりと解け始めている。
包帯を巻かれた男が立ち上がり、子どもたちが家の陰から顔を出す。泣き声は止み、低く抑えた会話が戻ってきた。
井戸のそばで、男は手を止めていた。
治療はすでに終わっている。香も焚かれていない。それでも、場に漂うのは、静かに内功が残した余韻。深く呼吸を整え、心の動揺を抑えることで、場を穏やかに保っているのだ。
白黎は静かに頷いた。剣を握らずとも、体の芯に溜まった感覚でそれを理解している。
燕秋は村の外れを見つめる。
沈みかけた夕日、地面に伸びる影が不自然に長い。
「……妙だな」
独り言のように呟く。
「静かすぎる」
その言葉が終わる前だった。
――ズン。
地面の奥で、鈍い振動。
一度ではない。遅れて、また一つ。
白黎の視線が即座に外へ向く。
音はばらけている。だが、方向は同じ。
「……来る」
白黎の声は低く、短い。
月衡が顔を上げる。
「妖、ですか」
答える代わりに、燕秋が息を吐いた。
「数を隠さない連中だな」
夕闇の向こう、草原の起伏に沿って影が滲む。
一体、二体ではない。だが、種類は一つ。
暮妖。
獣に近い形。目はなく、裂けた口だけがある。意思は薄く、群れの流れだけで動く低位の妖。
「……引き寄せられてる」
燕秋が言う。
「血と残り香だ。体に残った気の流れは、特に目立つ」
月衡は短く息を吐いた。
「治療の代償、ですね」
その瞬間、村の方から悲鳴が上がった。
白黎は、一歩前に出る。
考えるより早く、体が反応する。焦りはない。
「囲まれる前に割る」
燕秋が言った。
「白黎、前。俺は流れをずらす」
月衡はすでに地に膝をつき、気を集中させる。
場を安定させ、恐怖の増幅を抑え込む。流れに干渉し、群れの動きを乱す――治療で培った内功が、今は防御に転用されている。
白黎は踏み込む。
剣は大きく振らない。最短、最小、無駄のない斬撃で進む。
意図は一つ。進路を断ち、流れを崩すこと。倒すことは目的ではない。
暮妖が音を立てる。その反応に別の個体が引き寄せられる。
「……増えるな」
燕秋が舌打ちする。
彼は走る。村と草原の境目を斜めに切るように進む。
足取りを意図的に不規則にし、位置を曖昧にする――敵の感覚を撹乱する軽功。瓦礫を踏み、石を投げ、音をばら撒くことで群れの集中を分散させる。
「今だ!」
白黎は内功を巡らせ、身体の軸を定める。
感覚は研ぎ澄まされ、動作に迷いはない。
剣が走る。斬り、止め、また斬る。連続するが、欲張らず正確に。
群れの中央に割り込み、流れを二つに裂く。
その瞬間、月衡の気配が、静かに場に広がる。
恐怖を与えず、支配もしない。
意思のない流れを――止めるだけ。
暮妖の動きが揃わなくなる。群れとしての機能は崩れた。
燕秋がその隙を逃さない。
「白黎、左を潰せ!」
声と同時に動き、地に伏せさせる。殺さない。だが、群れはもはや“群れ”ではない。
やがて――暮妖たちは、寄る理由を失い、夕闇の奥へ散っていく。
音が消える。
風が戻る。
しばらく、誰も動かなかった。
白黎は剣を下ろす。呼吸が少し遅れて荒くなる。
燕秋は肩を回し、空を見上げる。
「……やっぱりな。数だけの連中だ」
月衡は立ち上がり、村を振り返る。
灯りが戻り始めている。
「今日は……越えさせませんでした」
静かな声だった。
白黎は、何も言わない。
武功だけでは足りない。内功だけでも、守れない。
だが、重なれば――夜を退かせることはできる。
黄昏は、数を隠さない。
けれど、人が重ねた意思までは喰えない。
白黎は、その事実を、まだ言葉にできないまま胸に刻む。
――江湖の夜は、まだ、長い。




