第二話 一椀の粥に名を預ける
赤霄原を離れると、街道は少しずつ息を吹き返していった。
轍の跡が、乾いた土を何本も裂いている。
荷を積んだ驢馬の足音が遠くで鳴り、炭と油、それに香辛料の匂いが風に混じった。
霧の湿り気とは別の、人の暮らしが作る熱の匂いだ。
白黎は歩きながら、何度も無意識に背後を確かめた。
赤霄原に残った霧が、まだ肩にまとわりついている気がする。
足元の石の硬さ、草の擦れる音、空気の冷たさ。
あれらはもう背中側にあるのに、感覚だけが置いていかれない。
隣を歩く男は、街道の流れに自然に溶ける歩幅をしていた。
旅慣れた軽装は派手ではないが、近くで見るほど仕立てが良い。
袖口の補修跡さえ、手馴れた者の几帳面さが出ている。
黒髪を後ろで束ねた首筋が、朝の光に一瞬だけ白く浮き、そこから視線を外すのが難しい。
顔立ちが整っている、という言葉では足りない。
整いすぎているのに、嫌味がない。軽い笑みがあるからだろうか。あるいは、目が笑っていないからかもしれない。
白黎は自分でも理由が分からないまま、その「整い」に引っかかり続けていた。
赤霄原で目覚めた自分の顔もまた、どこか現実から浮いていた。
似ている、というより、同じ種類の違和感だ。
「歩き方、固いね」
男が前を向いたまま言った。
白黎が首だけ動かして見返すと、男は小さく肩をすくめる。
「武の家の者は、歩幅で分かる。剣を帯びている者は、腰で分かる。君は……どちらでもないようで、どちらでもある。だから余計に目立つ。今は、目立つのは得じゃない」
白黎は短く頷いた。
言葉を返したいのに、言葉がまだ上手く形にならない。
頭の奥で、昨夜の感覚が薄い膜のように残っていて、思考がそれに引っかかる。
昨夜の戦いのあと、身体は立っていた。息もできた。
だが、歩き出してしばらくしてから、反動がじわりと来た。
胃の奥が空のはずなのに重い。目の奥が疼く。視界の端が時々、霧に濡れたように霞む。
それを隠すように、白黎は符袋を指でなぞった。
触れると落ち着く。理由は分からない。
だが「分からないもの」に、救われているのは確かだった。
街道の脇に、小さな祠があった。
石を積んだだけの簡素なものだが、香の焦げた匂いが残っている。誰かが最近まで祈っていたのだろう。
男は足を止め、祠を一瞥してから、白黎の方へ視線を移した。
「その符袋、濡れてない?」
白黎は首を横に振る。濡れてはいない。
けれど、昨夜からずっと、袋の口が微かに温かい気がする。
男はそれ以上は言わず、祠の前でしゃがみ込み、落ちていた枯れ枝を一本拾って、地面に短い線を引いた。
円でも陣でもない。ただの線だ。
だが、その手つきだけが妙に慎重だった。
「……ここは、嫌な道だね」
独り言のように呟いて、男は立ち上がる。
白黎は一歩遅れて歩き出しながら、ようやく口を開いた。
「……あなたは、なぜ赤霄原にいたんですか」
男は少しだけ、笑みの形を変えた。
軽さの裏に、答えるべきか測る間がある。
「理由はいくつか。ひとつは単純。あそこは、噂が湧く」
白黎が黙って聞いていると、男は続ける。
「赤霄原の霧は、ただの霧じゃない。昔、あの地で大きな災いがあった。名を出すと面倒だから言わないけど……あれ以来、霧が濃い夜には、妙なものが寄る。妙なものが寄れば、人も寄る。人が寄れば、争いも寄る」
「……だから、見に行く」
「見に行く者もいるし、拾いに行く者もいる。止めに行く者もいる。私は、その真ん中にいる」
言い切る声は淡々としている。
だが、真ん中に立つ者の目は、思ったより冷たい。
冷たいのに、背を向けたくならない。
白黎は、言葉を選ぶように少し沈黙してから尋ねた。
「……僕を拾った理由は」
男の歩みがわずかに遅くなる。
「君が、そこにいたから」
それだけでは足りない、と白黎の視線が言っているのだろう。
男は軽く息を吐き、少しだけ言葉を増やした。
「昨夜、霧がほどけた。あの瞬間だけ、赤霄原の空気が変わった。普通は逆。霧が濃くなって、目が塞がる。なのに、君が名を受け取った瞬間、霧が道を開いた。……偶然とは言いにくい」
白黎の胸の奥が、微かに冷えた。
自分の知らないところで、自分が何かの仕掛けになっている気がする。
男は白黎の表情の変化を見逃さないまま、声音だけを少し柔らかくする。
「怖がらなくていい。今は推測だよ。ただ、推測だけで捨て置くほど、私は鈍くない」
鈍くない。
そう言いながら、男は街道の先を見た。
行き交う人の影が、点のように動いている。
あの点の中に、危険も混じる。助けも混じる。どれも同じ顔をして歩いている。
昼前、二人は街道沿いの小さな飯館に入った。
板張りの床は擦り減り、歩くたびに低く軋む。
壁には木札の品書きが掛けられ、墨文字がところどころ滲んでいる。
天井から下がる赤い布灯が、白い湯気に揺れていた。
入口をくぐった瞬間、鼻が先に満たされる。
粥の米がほどける匂い。
湯に落ちた葱の青い香り。
炒め油の熱。
干し肉を炙った焦げ。
湯気の奥に、塩の鋭さが薄く立つ。
粥。麺。蒸籠。
腹を満たすための最低限の料理。
けれど、その「最低限」に、白黎の身体は今ひどく惹かれていた。
熱いものが欲しい。塩が欲しい。水が欲しい。
白黎は入口から少し奥の席に腰を下ろした。
背後は壁。視線は自然と店内全体を捉える位置だ。
自分がそうしていると気づいて、少しだけ眉が動いた。
誰に教わったわけでもないのに、こうするのが当たり前だと身体が知っている。
客は多くない。
行商が一人。剣を帯びた若者が二人。
酒を前に声を潜めて話す男たちが一卓。
隅には、荷の紐を締め直している老人がいる。
土の匂いのする旅人たちの間に、炭の粉が舞う。
今のところ、危険はない。
そう判断した瞬間、胃の奥がじわりと痛んだ。
安心した反動だろうか。昨夜の余韻が、今になって身体の底から揺り返す。
向かいに、昨夜出会った男が座る。
黒髪を後ろで束ね、旅慣れた軽装。
軽い笑みを浮かべているが、目は常に周囲を測っていた。
笑みのせいで柔らかく見えるのに、視線の動きだけは刃のように鋭い。
女主人が木椀を二つ置き、湯を注ぐ。
湯気が顔の前でほどけ、白黎の頬に熱が当たった。
生きている、という感覚が遅れて追いついてくる。
「腹、減ってる?」
男が聞く。
白黎は短く頷き、品書きを一瞥して答える。
「……はい。粥と、野菜。あと、湯を」
「いいね。今の君には、それが一番ましだ」
男は、女主人に視線を投げるだけで通じさせるように言った。
「蒸し餅も一つ。柔らかいのを」
女主人は無言で頷き、奥へ引っ込む。
鍋の蓋が鳴り、湯気が一段濃くなった。
ほどなくして器が運ばれてくる。
白粥の表面に、かすかに油が浮いている。
葱が少し、刻まれて散っているだけだが、その緑がやけに鮮やかに見えた。
菜は塩だけで炒めた素朴なものだが、湯気が甘い。
蒸し餅は指で押すと戻るほど柔らかく、表面がしっとりしている。
白黎は、すぐには箸を取らなかった。
器の欠け。匂い。湯の温度。燕秋の手元。視線の動き。客の呼吸。床の軋み。戸口の風。
一拍で確認してから、ようやく口に運ぶ。
熱い。
舌の先が痛むほど熱い。
なのに、身体がほっと緩む。
表情は変わらないが、胸の奥が少しだけ温まるのが分かった。
粥が喉を通って落ちるまでの道筋が、内側からほぐれていく。
男はそれを見て、小さく息を吐いた。
「……生き方が出るね」
独り言のように言い、自分も粥をすすった。
しばらく、器の触れ合う音だけが続く。
外の街道のざわめきが、板壁越しに遠く聞こえる。
明け方の霧が嘘みたいだ。
そのとき、酒の卓から、他の客たちの言葉がぽつぽつと落ちてきた。
「この先の橋、昨日から片側通行だとよ。板が抜けたって」
「またか。あの橋は補修より先に銭が抜ける」
「言うな。役人の耳がある」
「役人? ここにいるのは腹の減った耳だけだ」
笑いが一つ起き、すぐに消える。
「……護送を頼むなら、人数は三人は要る。二人だと狙われる」
「腕の話じゃない。道の話だ。数が見えると、面倒は避けて通る」
「面倒が避けて通るなら、最初からこの商売はしてない」
「ならせめて、夜は焚き火を高くするな。火が高いと、寄ってくるのは獣じゃなくて人だ」
別の声が混じった。声の主は年配らしく、喉に砂がある。
「赤霄の方を通ってきた若いのが、朝、ひどい顔してたぞ」
「原? あそこは霧が残るだろ。まだ薄くならんのか」
「薄くなる日があるってよ。妙に、すっと抜ける朝があると」
「へえ。運がいいだけだろ」
「運ならいい。運じゃないなら……お前、そんな朝に原へ入るな。帰り道を忘れる」
それ以上、誰も言葉を増やさなかった。
客たちの会話は、肝心のところだけ、匙で掬って捨てたみたいに落ちる。
白黎は意味を掴めないまま、胸の奥だけが僅かに硬くなるのを感じた。
男は、白黎の視線がほんの一瞬、酒の卓へ滑ったのを見て、何も言わずに粥をすすった。
止めもしないし、促しもしない。道の人間のやり方だ。
「昨日の夜のこと」
男が、前を向いたまま言った。
声は小さい。だが、白黎の耳にははっきり届く。
「尾が返る前に、君は一歩ずらした。爪が落ちる前に、刃が先に動いた。あれは……たまたまじゃない」
白黎の箸が止まる。
「……覚えてません」
「うん。覚えてたら、君はもう少し嫌な顔をする」
男は蒸し餅を半分に割り、湯気を逃がしてから口に入れた。
粥よりも重い熱が、ゆっくりと喉を落ちていく。
白黎もそれを真似るように、餅を小さくちぎって口に運ぶ。
柔らかい。歯が要らないほどだ。
噛むたびに小麦の甘さが滲む。
胃がようやく「食べ物」を受け取ったと分かる。
「でもね」
男が言葉を続ける。
「道では、その手の話を大きくしない方がいい。耳の多い場所ほど、面倒は育つから」
白黎は黙って頷いた。
意味の全部は分からない。
ただ、言ってはいけないことがある、という感覚だけは、身体が先に掴む。
男は白黎を一瞬だけ見て、また視線を外した。
「型はない。だけど、無駄もない。無闇に振り回す剣じゃない」
白黎の胸の奥に、微かな違和感が走った。
知らないのに、手触りだけ知っている言葉が混じる。
湯気が揺れ、視界が白く曇る。
白黎はその白の向こうに、昨夜の霧を思い出しかけて、すぐに思考を止めた。
止めないと、頭の奥が痛む。
白黎は、向かいの男を見た。
昨夜から行動を共にし、剣を見せ合い、こうして食事までしている。
それでも、名を知らない。
白黎の視線に気づいたのだろう。男はふっと笑った。
「名前、だね」
白黎は、静かに口を開いた。
「 白黎 です」
名を告げると、胸の奥がわずかに軽くなる。
自分がここにいる証が、ようやく一本だけ立った気がした。
男は一拍置いてから言った。
「燕秋」
軽い口調。だが、嘘ではない。
名を投げるのではなく、置くように言う。だから、名が落ちない。
そして、男——燕秋は少しだけ声を落とす。
「流雲衆の者だよ」
白黎は、その言葉を聞いても、すぐには反応しなかった。
意味は分からない。名に紐づく記憶も浮かばない。
だが——その言い方だけが妙に引っかかった。
「名乗る」と「告げる」の間の、ほんの僅かな間合いが、別の世界の作法みたいだった。
白黎の沈黙を、燕秋は急かさない。
その代わり、白黎の符袋へ一瞬だけ視線をやり、すぐに戻した。
「驚かない?」
「……分かりません」
白黎は正直に言う。
燕秋は笑みを消さず、しかし目だけは真剣にした。
「分からないなら、覚えておいて。流雲衆は、道の上で生きる。門を持たず、旗を立てず、同じ場所に根を張らない。だからこそ、道の噂が集まる。噂が集まる場所には、面倒も混じる」
白黎は、粥を一口飲み下してから尋ねた。
「赤霄原の……霧は」
燕秋は小さく頷いた。
「増える。寄る。消える」
短い言葉で切る。余計な名を足さない。
だが、それだけで背中が冷える。
「消えた者の荷が、道端に残る」
白黎は、さっき聞いた酒の卓の会話を思い出す。
帰り道を忘れる——その言葉だけが、霧の匂いを連れて戻ってくる。
燕秋は粥をすすり、続ける。
「千年も前の話が、今の霧に混じるのはおかしい。普通なら土に還る。還らないのは、還れない理由がある。……私は、その理由が街道に流れ出てくる前に、手の届くところで止めたい」
白黎は視線を落とした。
自分は、その理由のどこにいるのか。
昨夜、霧がほどけた。自分の名が呼ばれた。自分の身体が、勝手に動いた。
あれらが一本の線なら、その線の先にあるものは、きっと優しくない。
「……僕を、どうするんですか」
白黎の問いは短い。だが、その短さに全部が入っている。
燕秋はすぐに答えない。
白黎の顔を見て、その無表情の奥にあるものを計るように、間を置く。
「まず、生かす」
そして、淡々と言う。
「無名で、身元もなくて、剣だけは動く。そういう人はね、街道じゃ面倒事に担がれる。『こいつがやった』って言い張るための背中にされたり、揉め事の真ん中に置かれたりする」
白黎の眉が、僅かに動く。
燕秋は蒸し餅を指で押し、まだ熱いのを確かめてから、もう一口だけ口に入れた。
「だから最低限だけ覚えて。宿で部屋を取るときの言い方。銭の出し方。人に名を聞かれたときの返し方。それと飯。熱いものを先に入れる。脂は後。水は一気に飲まない。道では、そういう順が命を拾う」
「……僕は、そんなのを覚える必要があるんですか」
白黎が言うと、燕秋は笑みを消さず、しかし目だけは真面目だった。
「あるよ。剣が強くても、腹を壊したら歩けない。歩けなければ、次の夜が来る。剣だけで江湖は渡れない」
白黎は言い返せなかった。
反論の言葉が出ない、というより、反論する場所がない。
熱い粥が身体に落ちていくにつれて、自分がどれだけ空っぽだったかが分かる。
空っぽの身体に、まず飯が入り、次に言葉が入る。順がある。
燕秋の言う「順」は、説教じゃなく段取りだ。
「……代わりに、僕は何を」
白黎が問う。
燕秋は少しだけ目を細めた。
笑みは薄いまま、芯だけが残る。
「借りを作るのが嫌いな顔をしてる」
白黎は否定も肯定もしない。
そもそも自分が何を嫌うのかさえ、まだ掴めていない。
燕秋は肩をすくめ、しかし言葉は誤魔化さない。
「代わりに、今は余計なことをしない。自分で危ない場所に首を突っ込まない。黙るときは黙る。言うときは、短く言う。……それだけでいい」
白黎の指先が、符袋をかすかに押さえる。
昨夜から、身体の奥が時々空っぽになる。
力が戻るほど、代わりに何かが削れる感じがする。
削れたものが何かは分からない。だが、削れているのだけは分かる。
白黎は、その感覚を飲み込み、静かに言った。
「分かりました」
燕秋は頷く。
「じゃあ、行き先を決めよう。君がどこへ行くべきか、今は分からない。だから、まずは人の多い場所へ行く。人が多ければ面倒も増えるけど、情報も増える。流雲衆は、その情報で生きる」
白黎は「情報」という言葉を口の中で転がした。
意味は分からないのに、必要だと分かる。
燕秋は勘定を置いて立ち上がる。
銭の出し方は早い。見せびらかさない。だが足りない気配もない。
女主人も余計な言葉を挟まない。道の作法が、そこにある。
「名を交わした以上、縁はできた」
外に出ると、昼の街道は眩しかった。
人の声。荷車の軋む音。乾いた笑い。商いの呼び声。
江湖は、何事もなかったかのように動いている。
白黎は、その「何事もなかったか」に少しだけ息が詰まる。
明け方、霧の中で死にかけたのに、誰も知らない。誰も気にしない。
だからこそ、自分はここに立っていられるのかもしれないし、だからこそいつでも消えるのかもしれない。
燕秋が振り返り、軽く手を上げた。
「行き先は同じだろう。しばらく、同行しよう。君が嫌になったら、そのときは言って。無理に縛る趣味はない。ただ――言わずに消えるのはやめて。探す手間が増える」
軽い言い方の中に、妙に真剣な芯がある。
白黎は一瞬だけ迷い——それから、後を追った。
剣の重さ。
腹に残る温かさ。
喉に残る湯の熱。
名を知った男の背中。
背中の線はすっと伸びている。
旅装なのにどこか品がある。
歩き方には迷いがない。
なのに、置き去りにする冷たさもない。
街道飯館に立つ湯気の向こうで、二人の道は静かに重なり始めていた。
そして白黎の胸の奥では、昨夜の一瞬の感覚が、まだ小さく疼いている。
次に同じことが起きたら、自分の身体はまた動くのか。
動いた代わりに、自分は何を削るのか。
その答えは、まだ霧の中にある。
赤霄原の霧の、もっと深いところに。
白黎は符袋を握り直し、何も言わずに歩いた。




