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六影相剋――記憶喪失の剣士は、六大勢力の争いの中で世界の歪みと向き合う  作者: いぬぬっこ
第一章 影走

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第二話 一椀の粥に名を預ける

赤霄原(せきしょうげん)を離れると、街道は少しずつ息を吹き返していった。


(わだち)の跡が、乾いた土を何本も裂いている。

荷を積んだ驢馬(ろば)の足音が遠くで鳴り、炭と油、それに香辛料の匂いが風に混じった。

霧の湿り気とは別の、人の暮らしが作る熱の匂いだ。


白黎(はくれい)は歩きながら、何度も無意識に背後を確かめた。

赤霄原に残った霧が、まだ肩にまとわりついている気がする。

足元の石の硬さ、草の擦れる音、空気の冷たさ。

あれらはもう背中側にあるのに、感覚だけが置いていかれない。


隣を歩く男は、街道の流れに自然に溶ける歩幅をしていた。

旅慣れた軽装は派手ではないが、近くで見るほど仕立てが良い。

袖口の補修跡さえ、手馴れた者の几帳面さが出ている。

黒髪を後ろで束ねた首筋が、朝の光に一瞬だけ白く浮き、そこから視線を外すのが難しい。


顔立ちが整っている、という言葉では足りない。

整いすぎているのに、嫌味がない。軽い笑みがあるからだろうか。あるいは、目が笑っていないからかもしれない。


白黎は自分でも理由が分からないまま、その「整い」に引っかかり続けていた。

赤霄原で目覚めた自分の顔もまた、どこか現実から浮いていた。

似ている、というより、同じ種類の違和感だ。


「歩き方、固いね」


男が前を向いたまま言った。


白黎が首だけ動かして見返すと、男は小さく肩をすくめる。


「武の家の者は、歩幅で分かる。剣を帯びている者は、腰で分かる。君は……どちらでもないようで、どちらでもある。だから余計に目立つ。今は、目立つのは得じゃない」


白黎は短く頷いた。

言葉を返したいのに、言葉がまだ上手く形にならない。

頭の奥で、昨夜の感覚が薄い膜のように残っていて、思考がそれに引っかかる。


昨夜の戦いのあと、身体は立っていた。息もできた。

だが、歩き出してしばらくしてから、反動がじわりと来た。

胃の奥が空のはずなのに重い。目の奥が疼く。視界の端が時々、霧に濡れたように霞む。


それを隠すように、白黎は符袋を指でなぞった。

触れると落ち着く。理由は分からない。

だが「分からないもの」に、救われているのは確かだった。


街道の脇に、小さな(ほこら)があった。

石を積んだだけの簡素なものだが、香の焦げた匂いが残っている。誰かが最近まで祈っていたのだろう。


男は足を止め、祠を一瞥してから、白黎の方へ視線を移した。


「その符袋、濡れてない?」


白黎は首を横に振る。濡れてはいない。

けれど、昨夜からずっと、袋の口が微かに温かい気がする。


男はそれ以上は言わず、祠の前でしゃがみ込み、落ちていた枯れ枝を一本拾って、地面に短い線を引いた。

円でも陣でもない。ただの線だ。

だが、その手つきだけが妙に慎重だった。


「……ここは、嫌な道だね」


独り言のように呟いて、男は立ち上がる。


白黎は一歩遅れて歩き出しながら、ようやく口を開いた。


「……あなたは、なぜ赤霄原にいたんですか」


男は少しだけ、笑みの形を変えた。

軽さの裏に、答えるべきか測る間がある。


「理由はいくつか。ひとつは単純。あそこは、噂が湧く」


白黎が黙って聞いていると、男は続ける。


「赤霄原の霧は、ただの霧じゃない。昔、あの地で大きな災いがあった。名を出すと面倒だから言わないけど……あれ以来、霧が濃い夜には、妙なものが寄る。妙なものが寄れば、人も寄る。人が寄れば、争いも寄る」


「……だから、見に行く」


「見に行く者もいるし、拾いに行く者もいる。止めに行く者もいる。私は、その真ん中にいる」


言い切る声は淡々としている。

だが、真ん中に立つ者の目は、思ったより冷たい。

冷たいのに、背を向けたくならない。


白黎は、言葉を選ぶように少し沈黙してから尋ねた。


「……僕を拾った理由は」


男の歩みがわずかに遅くなる。


「君が、そこにいたから」


それだけでは足りない、と白黎の視線が言っているのだろう。

男は軽く息を吐き、少しだけ言葉を増やした。


「昨夜、霧がほどけた。あの瞬間だけ、赤霄原の空気が変わった。普通は逆。霧が濃くなって、目が塞がる。なのに、君が名を受け取った瞬間、霧が道を開いた。……偶然とは言いにくい」


白黎の胸の奥が、微かに冷えた。

自分の知らないところで、自分が何かの仕掛けになっている気がする。


男は白黎の表情の変化を見逃さないまま、声音だけを少し柔らかくする。


「怖がらなくていい。今は推測だよ。ただ、推測だけで捨て置くほど、私は鈍くない」


鈍くない。

そう言いながら、男は街道の先を見た。

行き交う人の影が、点のように動いている。

あの点の中に、危険も混じる。助けも混じる。どれも同じ顔をして歩いている。


昼前、二人は街道沿いの小さな飯館に入った。


板張りの床は擦り減り、歩くたびに低く軋む。

壁には木札の品書きが掛けられ、墨文字がところどころ滲んでいる。

天井から下がる赤い布灯が、白い湯気に揺れていた。


入口をくぐった瞬間、鼻が先に満たされる。

粥の米がほどける匂い。

湯に落ちた葱の青い香り。

炒め油の熱。

干し肉を炙った焦げ。

湯気の奥に、塩の鋭さが薄く立つ。


粥。麺。蒸籠(せいろ)

腹を満たすための最低限の料理。

けれど、その「最低限」に、白黎の身体は今ひどく惹かれていた。

熱いものが欲しい。塩が欲しい。水が欲しい。


白黎は入口から少し奥の席に腰を下ろした。

背後は壁。視線は自然と店内全体を捉える位置だ。

自分がそうしていると気づいて、少しだけ眉が動いた。

誰に教わったわけでもないのに、こうするのが当たり前だと身体が知っている。


客は多くない。

行商が一人。剣を帯びた若者が二人。

酒を前に声を潜めて話す男たちが一卓。

隅には、荷の紐を締め直している老人がいる。

土の匂いのする旅人たちの間に、炭の粉が舞う。


今のところ、危険はない。

そう判断した瞬間、胃の奥がじわりと痛んだ。

安心した反動だろうか。昨夜の余韻が、今になって身体の底から揺り返す。


向かいに、昨夜出会った男が座る。


黒髪を後ろで束ね、旅慣れた軽装。

軽い笑みを浮かべているが、目は常に周囲を測っていた。

笑みのせいで柔らかく見えるのに、視線の動きだけは刃のように鋭い。


女主人が木椀を二つ置き、湯を注ぐ。

湯気が顔の前でほどけ、白黎の頬に熱が当たった。

生きている、という感覚が遅れて追いついてくる。


「腹、減ってる?」


男が聞く。


白黎は短く頷き、品書きを一瞥して答える。


「……はい。粥と、野菜。あと、湯を」


「いいね。今の君には、それが一番ましだ」


男は、女主人に視線を投げるだけで通じさせるように言った。


「蒸し餅も一つ。柔らかいのを」


女主人は無言で頷き、奥へ引っ込む。

鍋の蓋が鳴り、湯気が一段濃くなった。


ほどなくして器が運ばれてくる。

白粥の表面に、かすかに油が浮いている。

葱が少し、刻まれて散っているだけだが、その緑がやけに鮮やかに見えた。

菜は塩だけで炒めた素朴なものだが、湯気が甘い。

蒸し餅は指で押すと戻るほど柔らかく、表面がしっとりしている。


白黎は、すぐには箸を取らなかった。


器の欠け。匂い。湯の温度。燕秋の手元。視線の動き。客の呼吸。床の軋み。戸口の風。

一拍で確認してから、ようやく口に運ぶ。


熱い。

舌の先が痛むほど熱い。

なのに、身体がほっと緩む。

表情は変わらないが、胸の奥が少しだけ温まるのが分かった。

粥が喉を通って落ちるまでの道筋が、内側からほぐれていく。


男はそれを見て、小さく息を吐いた。


「……生き方が出るね」


独り言のように言い、自分も粥をすすった。


挿絵(By みてみん)


しばらく、器の触れ合う音だけが続く。

外の街道のざわめきが、板壁越しに遠く聞こえる。

明け方の霧が嘘みたいだ。


そのとき、酒の卓から、他の客たちの言葉がぽつぽつと落ちてきた。


「この先の橋、昨日から片側通行だとよ。板が抜けたって」

「またか。あの橋は補修より先に銭が抜ける」

「言うな。役人の耳がある」

「役人? ここにいるのは腹の減った耳だけだ」


笑いが一つ起き、すぐに消える。


「……護送を頼むなら、人数は三人は要る。二人だと狙われる」

「腕の話じゃない。道の話だ。数が見えると、面倒は避けて通る」

「面倒が避けて通るなら、最初からこの商売はしてない」

「ならせめて、夜は焚き火を高くするな。火が高いと、寄ってくるのは獣じゃなくて人だ」


別の声が混じった。声の主は年配らしく、喉に砂がある。


「赤霄の方を通ってきた若いのが、朝、ひどい顔してたぞ」

「原? あそこは霧が残るだろ。まだ薄くならんのか」

「薄くなる日があるってよ。妙に、すっと抜ける朝があると」

「へえ。運がいいだけだろ」

「運ならいい。運じゃないなら……お前、そんな朝に原へ入るな。帰り道を忘れる」


それ以上、誰も言葉を増やさなかった。

客たちの会話は、肝心のところだけ、匙で掬って捨てたみたいに落ちる。


白黎は意味を掴めないまま、胸の奥だけが僅かに硬くなるのを感じた。


男は、白黎の視線がほんの一瞬、酒の卓へ滑ったのを見て、何も言わずに粥をすすった。

止めもしないし、促しもしない。道の人間のやり方だ。


「昨日の夜のこと」


男が、前を向いたまま言った。

声は小さい。だが、白黎の耳にははっきり届く。


「尾が返る前に、君は一歩ずらした。爪が落ちる前に、刃が先に動いた。あれは……たまたまじゃない」


白黎の箸が止まる。


「……覚えてません」


「うん。覚えてたら、君はもう少し嫌な顔をする」


男は蒸し餅を半分に割り、湯気を逃がしてから口に入れた。

粥よりも重い熱が、ゆっくりと喉を落ちていく。


白黎もそれを真似るように、餅を小さくちぎって口に運ぶ。

柔らかい。歯が要らないほどだ。

噛むたびに小麦の甘さが滲む。

胃がようやく「食べ物」を受け取ったと分かる。


「でもね」


男が言葉を続ける。


「道では、その手の話を大きくしない方がいい。耳の多い場所ほど、面倒は育つから」


白黎は黙って頷いた。

意味の全部は分からない。

ただ、言ってはいけないことがある、という感覚だけは、身体が先に掴む。


男は白黎を一瞬だけ見て、また視線を外した。


「型はない。だけど、無駄もない。無闇に振り回す剣じゃない」


白黎の胸の奥に、微かな違和感が走った。

知らないのに、手触りだけ知っている言葉が混じる。

湯気が揺れ、視界が白く曇る。


白黎はその白の向こうに、昨夜の霧を思い出しかけて、すぐに思考を止めた。

止めないと、頭の奥が痛む。


白黎は、向かいの男を見た。


昨夜から行動を共にし、剣を見せ合い、こうして食事までしている。

それでも、名を知らない。


白黎の視線に気づいたのだろう。男はふっと笑った。


「名前、だね」


白黎は、静かに口を開いた。


白黎 (はくれい)です」


名を告げると、胸の奥がわずかに軽くなる。

自分がここにいる証が、ようやく一本だけ立った気がした。


男は一拍置いてから言った。


燕秋(えんしゅう)


軽い口調。だが、嘘ではない。

名を投げるのではなく、置くように言う。だから、名が落ちない。


そして、男——燕秋は少しだけ声を落とす。


流雲衆(りゅううんしゅう)の者だよ」


白黎は、その言葉を聞いても、すぐには反応しなかった。


意味は分からない。名に紐づく記憶も浮かばない。

だが——その言い方だけが妙に引っかかった。

「名乗る」と「告げる」の間の、ほんの僅かな間合いが、別の世界の作法みたいだった。


白黎の沈黙を、燕秋は急かさない。

その代わり、白黎の符袋へ一瞬だけ視線をやり、すぐに戻した。


「驚かない?」


「……分かりません」


白黎は正直に言う。


燕秋は笑みを消さず、しかし目だけは真剣にした。


「分からないなら、覚えておいて。流雲衆は、道の上で生きる。門を持たず、旗を立てず、同じ場所に根を張らない。だからこそ、道の噂が集まる。噂が集まる場所には、面倒も混じる」


白黎は、粥を一口飲み下してから尋ねた。


「赤霄原の……霧は」


燕秋は小さく頷いた。


「増える。寄る。消える」


短い言葉で切る。余計な名を足さない。

だが、それだけで背中が冷える。


「消えた者の荷が、道端に残る」


白黎は、さっき聞いた酒の卓の会話を思い出す。

帰り道を忘れる——その言葉だけが、霧の匂いを連れて戻ってくる。


燕秋は粥をすすり、続ける。


「千年も前の話が、今の霧に混じるのはおかしい。普通なら土に還る。還らないのは、還れない理由がある。……私は、その理由が街道に流れ出てくる前に、手の届くところで止めたい」


白黎は視線を落とした。

自分は、その理由のどこにいるのか。

昨夜、霧がほどけた。自分の名が呼ばれた。自分の身体が、勝手に動いた。


あれらが一本の線なら、その線の先にあるものは、きっと優しくない。


「……僕を、どうするんですか」


白黎の問いは短い。だが、その短さに全部が入っている。


燕秋はすぐに答えない。

白黎の顔を見て、その無表情の奥にあるものを計るように、間を置く。


「まず、生かす」


そして、淡々と言う。


「無名で、身元もなくて、剣だけは動く。そういう人はね、街道じゃ面倒事に担がれる。『こいつがやった』って言い張るための背中にされたり、揉め事の真ん中に置かれたりする」


白黎の眉が、僅かに動く。


燕秋は蒸し餅を指で押し、まだ熱いのを確かめてから、もう一口だけ口に入れた。


「だから最低限だけ覚えて。宿で部屋を取るときの言い方。銭の出し方。人に名を聞かれたときの返し方。それと飯。熱いものを先に入れる。脂は後。水は一気に飲まない。道では、そういう順が命を拾う」


「……僕は、そんなのを覚える必要があるんですか」


白黎が言うと、燕秋は笑みを消さず、しかし目だけは真面目だった。


「あるよ。剣が強くても、腹を壊したら歩けない。歩けなければ、次の夜が来る。剣だけで江湖は渡れない」


白黎は言い返せなかった。

反論の言葉が出ない、というより、反論する場所がない。


熱い粥が身体に落ちていくにつれて、自分がどれだけ空っぽだったかが分かる。

空っぽの身体に、まず飯が入り、次に言葉が入る。順がある。

燕秋の言う「順」は、説教じゃなく段取りだ。


「……代わりに、僕は何を」


白黎が問う。


燕秋は少しだけ目を細めた。

笑みは薄いまま、芯だけが残る。


「借りを作るのが嫌いな顔をしてる」


白黎は否定も肯定もしない。

そもそも自分が何を嫌うのかさえ、まだ掴めていない。


燕秋は肩をすくめ、しかし言葉は誤魔化さない。


「代わりに、今は余計なことをしない。自分で危ない場所に首を突っ込まない。黙るときは黙る。言うときは、短く言う。……それだけでいい」


白黎の指先が、符袋をかすかに押さえる。


昨夜から、身体の奥が時々空っぽになる。

力が戻るほど、代わりに何かが削れる感じがする。

削れたものが何かは分からない。だが、削れているのだけは分かる。


白黎は、その感覚を飲み込み、静かに言った。


「分かりました」


燕秋は頷く。


「じゃあ、行き先を決めよう。君がどこへ行くべきか、今は分からない。だから、まずは人の多い場所へ行く。人が多ければ面倒も増えるけど、情報も増える。流雲衆は、その情報で生きる」


白黎は「情報」という言葉を口の中で転がした。

意味は分からないのに、必要だと分かる。


燕秋は勘定を置いて立ち上がる。

銭の出し方は早い。見せびらかさない。だが足りない気配もない。

女主人も余計な言葉を挟まない。道の作法が、そこにある。


「名を交わした以上、縁はできた」


外に出ると、昼の街道は眩しかった。

人の声。荷車の軋む音。乾いた笑い。商いの呼び声。


江湖は、何事もなかったかのように動いている。


白黎は、その「何事もなかったか」に少しだけ息が詰まる。

明け方、霧の中で死にかけたのに、誰も知らない。誰も気にしない。

だからこそ、自分はここに立っていられるのかもしれないし、だからこそいつでも消えるのかもしれない。


燕秋が振り返り、軽く手を上げた。


「行き先は同じだろう。しばらく、同行しよう。君が嫌になったら、そのときは言って。無理に縛る趣味はない。ただ――言わずに消えるのはやめて。探す手間が増える」


軽い言い方の中に、妙に真剣な芯がある。


白黎は一瞬だけ迷い——それから、後を追った。


剣の重さ。

腹に残る温かさ。

喉に残る湯の熱。

名を知った男の背中。


背中の線はすっと伸びている。

旅装なのにどこか品がある。

歩き方には迷いがない。

なのに、置き去りにする冷たさもない。


街道飯館に立つ湯気の向こうで、二人の道は静かに重なり始めていた。


そして白黎の胸の奥では、昨夜の一瞬の感覚が、まだ小さく疼いている。


次に同じことが起きたら、自分の身体はまた動くのか。

動いた代わりに、自分は何を削るのか。


その答えは、まだ霧の中にある。

赤霄原の霧の、もっと深いところに。


白黎は符袋を握り直し、何も言わずに歩いた。

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