プロローグ
赤霄原の霧には、古い血の匂いが沈んでいる。
千年前、この荒野の地面は、霧ではなく、もっと重いもので濡れていた。
夜が、深い夜が、この原を押し潰していた。
月は雲に隠れ、星は出ない。
空が地上を見ないふりをしているのは、その夜も同じだった。
ただ一つ違うのは、霧ではなく熱があったことだ。
冷えたはずの荒野が、内側から煮え立っていた。
地面に刻まれた巨大な陣。
削られた石。
乾ききらない血で描かれた線。
内功の流れを無理やり歪め、天地の理をこじ開ける禁忌。
帰虚の法 。
陣の周囲には、六人が立っていた。
淡い青灰の道衣を纏い、袖口の紋だけが静かに揺れる男。
立っているだけで場が静まり、呼吸の一つで空気の重さが変わる。
紫紺の剣装束の男は、夜の色を溶かしたような衣をまとっていた。
革ではない。絹でもない。
光を吸い、返さない布。
袖は長く、手首を隠し、剣の柄に添えられた指はまるで筆を置く前のように整っている。
視線は鋭いが、荒れてはいない。
怒りではなく、斬るために冷え切った目だった。
白を基調とした法衣の者は、香の匂いをまとい、穏やかな目をしている。
だが穏やかさの底に、譲らぬ芯が沈んでいた。
旅装の者は懐に文書を忍ばせ、周囲を一歩引いた位置から眺めている。
情がある顔をして、情に溺れない目をしている。
粗末な衣の老いた者は、笑っているのに底が見えない。
どこにも属さぬ匂いがする。
黒革の戦装束の者は、ひと目で分かるほど重かった。
革が鳴り、金具が擦れ、血と汗の乾いた匂いが衣の奥に残っている。
肩は張り、身体には古傷が多い。
拳を握るたび、盛り上がった傷跡が白く浮く。
目に宿るのは怒りだけではない。
正義に刈られ、それでも生き残った者の疲れが沈んでいた。
彼らの間には、供物が並べられていた。
金でも玉でもない。
血の入った器。
折れた剣。
焼けた符。
泣き声を上げられなくなるほど口を塞がれた生きもの。
奪われたもの、捨てられたもの、救われなかったもの。
江湖が見ないふりをしてきたものが、そこに集められていた。
青灰の道衣の男が、低い声で言った。
「もう一度だけ確認する。戻れない。戻らない。ここで天地に手を入れる」
紫紺の剣装束の男が吐き捨てる。
「確認などいらん、 衡 の御仁。
剣は既に抜けないところまで来ている。迷うのは弱さだ」
白い法衣の者が、穏やかに言葉を重ねた。
「迷いは弱さではありません。
迷いは、人が人である証です。
けれど……今夜は、迷いを抱えたまま進むしかないのでしょう」
黒革の戦装束の者が、笑うでもなく唸るでもなく言った。
「進めば力が手に入る。
進まねば奪われる。
奪われるくらいなら、先に奪うだけだ」
旅装の者が、指を組んで小さく息を吐く。
「大丈夫だ。皆、同じものを見ている。
欲しいものも、怖いものも。
……だからこそ、壊れやすい。
均衡が一度崩れたら、戻らない」
粗末な衣の老いた者が、くつくつと喉を鳴らした。
「壊れたものは、元には戻らんよ。
だが、壊れたからこそ見えるものもある。
江湖とは、そういうものじゃ」
紫紺の剣装束の男が睨む。
「戯れ言を言うな。今夜は勝つ夜だ」
白い法衣の者が静かに視線を落とす。
「勝つ、とは何にですか。
天にですか。人にですか。自分にですか」
青灰の道衣の男が、言葉を切った。
「器を出せ」
その一言で、空気が変わった。
陣の中心。
血で描かれた線の交点に、一人の子どもが立たされた。
泣き声は出ない。
目だけが大きく開かれている。
恐怖があるのに、叫べない。
叫べないようにされた器。
紫紺の剣装束の男が、一瞬だけ視線を逸らす。
「……まだ子どもだ」
黒革の戦装束の者が、冷たく返す。
「だからだ。
余計な意思がない。
余計な過去もない。
壊れるなら、壊れるだけだ」
白い法衣の者が、ほんの僅かに眉を寄せた。
「あなたは、救いを語りながら、救いを捨てるのですか」
「救いを語っているのはそっちだ」
黒革の戦装束の者は、目を逸らさない。
旅装の者が、静かに言った。
「やるなら、手順を守れ。
皆の内功を同時に流し込めば、陣は暴れる。
順を踏めば、制御できる。
……少なくとも理屈の上ではな」
青灰の道衣の男が、頷いた。
「私がまず流す。続け。
刃の人、香の人、道を読む人、縛られぬ老い、
そして……生き残りの革。
流れを乱すな。意地も恐れも内に収めろ」
紫紺の剣装束の男が鼻で笑う。
「内に収めろなど、できるか。
剣は外へ出るものだ」
「なら剣で整えろ。
斬り散らすな。揃えろ」
青灰の道衣の男の声は低いが、拒めない力があった。
彼らがそれぞれ、内功を起こす。
青灰の道衣の男の呼吸は、凪のように静かだ。
だが静かな呼吸が、陣の線を確かに点火していく。
遅い。
けれど遅さは崩さないための遅さだった。
紫紺の剣装束の男の内功は、鋭く、細い。
刃が鞘の中で震えるように、空気が静かに裂ける。
陣の線が紫がかった光を帯び、均一に走る。
白い法衣の者は、香の匂いの奥で息を整え、
痛みを呑み込むように内功を流す。
救いを語る手が、救いにならぬ夜のために震えを殺す。
旅装の者は、流れを読み、足りないところに補うように送る。
派手な力ではない。
だが歪みを見つける目が、最も鋭い。
粗末な衣の老いた者は、笑いながらも、
底の見えぬ深い内功をわずかに放つ。
古い古いものが、陣の奥に触れる。
黒革の戦装束の者は、怒りと疲労を、そのまま燃料にして流し込んだ。
生き残るための力。
奪われた者の力。
陣が唸った。
地面が鳴る。
血の線が脈打ち、空気が沈む。
呼吸が苦しい。
肺が押し潰される。
子どもの身体へ、世界の歪みが押し込まれていく。
骨が軋む。
魂が裂ける。
けれど叫べない。
叫べない器は、ただ目だけを見開き、世界を受け止める。
誰かが呟いた。
「成功だ」
その瞬間だった。
世界が、反転した。
轟音。
爆風。
光と闇が入り混じり、すべてを飲み込む。
山が崩れ、大地が裂ける。
剣も、法も、旅も、救いも、怒りも、等しく吹き飛ばされる。
叫び。
笑い。
祈り。
そして消失。
後に史書は、この出来事を 帰虚禍 と記した。
またある者は、 衡崩の夜 と呼んだ。
だが、その名をどう呼ぼうと、事実は一つだけだった。
あの夜から、江湖は変わった。
正義でも、道でもない。
より強い力を求める時代が始まった。
そして誰も知らないまま、
器にされた子どもだけが、深い穴の最奥で眠り続けた。
千年の時を越え、霧が戻る朝まで。




