プロローグ
夕餉どきの酒楼は、湯気と脂と笑い声で満ちていた。
炙り串の煙が鼻をくすぐり、卓を叩く手が景気をつける。
杯をあおる喉がごくりと鳴り、箸の先で小さな喧嘩が走る。
皿が鳴り、椅子がきしみ、店主の怒鳴り声が飛ぶ――江湖の夜は、だいたいこんな調子だ。
「おい、語り部! 来てるぞ!」
店主が大きな手で呼ぶと、入口の布がふわりと揺れ、ひとりの男が入ってきた。
四十を過ぎたあたりか。肩幅は広くも狭くもないが、背はすっと伸びている。
旅の塵が袖口に残り、髭の手入れはほどほど。目だけが妙に生きていた。
「お待ちどうさま。今宵も、耳を貸してくださる方がいるようで」
男はそう言うと、畳んだ扇子をひとつ、卓の上に置いた。
ぱちん、と乾いた音がする。それだけで店のざわめきが、半歩ひいた。
「さあさあ、杯が空になる前に。江湖の話をいたしましょう。
役人の耳にゃ届かぬ、刃と義と銭の話。――もっとも、義だけで飯は食えず、銭だけじゃ夜は越せぬ。
だから江湖は面白い」
笑いが起きる。語り部は扇子をひらりと回し、口上を続けた。
「江湖というのはね。地図に書けない場所のことです。
朝廷の外、役所の外、家の外。水辺にあるわけでも、湖の上にあるわけでもない。
世間の外側に、勝手に名がついた。名がついたから人が集まった。人が集まったから道ができた。
道ができたから、噂が走った」
扇子で卓を軽く叩く。
「ここで一つ、間違えちゃいけない。
江湖の人間は、みな剣を振るうと思われがちだが――違う。
振るう者もいれば、振るえぬ者もいる。だが、誰もが武の匂いを知っている。
喧嘩の匂い、逃げ道の匂い、銭の匂い。嗅ぎ分けるのだけは、やけに早い」
「早いのはお前の口だ!」と誰かが笑う。
語り部は涼しい顔で、指を一本立てた。
「武には二つある。内と外。内功、外巧。
言葉は難しく聞こえますが、要はこうだ。内功は、息を整えて腹の底に力を溜める稽古だ。
息が乱れにくくなる。踏ん張りが利く。長く動ける。
外巧は、拳や剣や歩法。どう動けば当たるか、どう避ければ生き残るか――身体の使い方だ」
客のひとりが「なるほど」と頷く。
「内功は持ち、外巧は当てるための筋。――どっちが欠けても死ぬ。
内が弱けりゃ、剣が上手くても長くは戦えない。息が切れる。足が止まる。手が震える。
外が拙けりゃ、息が強くても当たらない。届かない。倒せない。
強い者は、内と外が噛み合っている。――噛み合わん者は、噛み合わんまま突っ込む。
運が悪けりゃ墓へ、運が良けりゃ酒楼で昔話になる」
どっと笑いが起きる。店主がすかさず怒鳴った。
「昔話の前に勘定だ!」
笑いがもう一度、転がった。
語り部は二本目の指を立てる。
「もうひとつ。江湖には門派がある。師がいて弟子がいて、教える武がある。
武を教え、名を守り、掟で縛る。門派に入れば、食いっぱぐれは減る。背中も増える。
だが勝手は減る。口も減る。道も減る。
守られる代わりに、勝手な真似はできない。救われる代わりに、戻れなくなる」
その時、酒楼の隅で杯が卓に置かれる音がした。
かちり、と小さいのに妙に響く音だった。
語り部は一瞬だけ目をやり、すぐ客の方に戻した。隅の男は顔を上げない。影のように静かに座っている。
笑いの波が来ても、その男は笑わない。杯の温度だけを測るように、指が縁をなぞった。
「千年前、この江湖は一度だけ、形を変えました。
最初は荒れた土地に、拳ひとつで生きる者がいただけ。
だが武が教えられるようになり、師が弟子を取り、門派ができると、争いにも順番がついた。
名が立ち、名を守るためにまた争う。こうして江湖は千年続いてきた。続いてしまった」
語り部はわざと大げさに、ため息をついた。
「正しさを盾にする者がいる。速さで黙らせる者がいる。救いの言葉で縛る者がいる。
道を読んで銭に換える者がいる。縛られぬと笑って、誰より縛られている者がいる。
奪われた傷を磨いて、刃にする者がいる。――ほら、もう六つだ。
こういう連中が隣り合って、同じ道を歩いている」
酒楼が少し静まる。客は笑いを引っ込め、続きを待った。
「さて。ここまでが前置きでございます。……だがね、皆さま。
その前置きが、一夜でひっくり返った日がある」
語り部の声が、ふっと低くなった。
「衡崩の夜」
火のはぜる音が、やけに大きい。
「千年前。赤霄原という赤い原で、禁忌の法が行われました。
名を帰虚の法と言う。虚に帰す。言葉だけは綺麗だ。だが、やることは綺麗じゃない」
扇子が、卓に置かれる。もう回らない。
「輪があった。六人が輪になった。立場の違う六人です。
互いに憎みながら、互いの力を必要とした。
輪の中心に、子どもがひとり置かれた。器と呼ばれました。
内功を流し込む器。力を受け止める器」
語り部は、少しだけ間を置いた。
「……本当は、人です」
酒楼の湯気が遠い。
「六人は子どもに内功を流し込んだ。息が、血が、骨が、つぎ込まれた。
器は耐えた。耐えすぎた。身体が受け止めるほど、心が削れた。
人格が薄くなり、目が遠くなり、声が消えた。
名もあったでしょう。泣き声もあったでしょう。けれどその夜、誰も名を呼ばなかった」
誰も、口を挟まない。
「その時です。天地が裂けた。裂けたように見えた。
原の奥、地の底から霧が這い出した。白い霧じゃない。
匂いがある。湿り気がある。喉の奥に引っかかる、嫌な甘さがある。
妖の匂いを孕んだ霧です」
語り部は息を吸い、吐く。
「霧はその場に留まらなかった。江湖へ流れた。道へ、村へ、山へ。
霧の濃い場所では、獣が変わり、人が変わり、時に――人が消えた。
争いと噂が、それを育てた。恐れと欲が、それを太らせた」
静けさの中で、杯の底が小さく鳴る。
「爆風が来た。轟音が来た。輪は吹き飛び、赤霄原はえぐれ、やがて穴になった。
六人がどうなったかは、今宵の肴には重すぎる」
語り部は、視線を落としたまま続ける。
「ただ一つ。器にされた子どもだけが、深い穴の最奥で眠り続けた。千年、眠った。
霧が濃くなる朝を待つように」
語り部は顔を上げた。ここだけ、声を少し戻す。
「さあ、ここで今の話をしましょう。近頃、赤霄原の霧が濃くなっている。
濃くなると何が起きる? 妖が出る。人が消える。噂が育つ」
隅の男が、杯の縁を指でなぞった。語り部はそれを見た。
ほんの一瞬、目が合った気がした。男は視線を上げない。だが、聞いている。
「……さて。ここまで聞いて、皆さまは思うでしょう。どうすればいい? 誰が止める?」
語り部は扇子を、ぱちん、と開いた。
「江湖はね、強い者が守るんじゃない。名を持つ者が守るんでもない。
江湖は、名を呼ぶ者が守る。
忘れられた者に名を与え、器ではなく人として扱い、戻れぬ者に戻る道を示す」
語り部は笑った。芝居がかった笑みだ。だが目の奥だけが笑っていない。
「今度は誰かが、名を呼ばねばならない。……そういう話でございます」
酒楼がざわめきを取り戻そうとして、戻れないまま揺れた。
誰かが咳払いをし、誰かが席を立つ。
語り部は最後に、隅の男へ視線を投げた。
「――お客人。あんた、やけに静かだ。名は?」
男は杯を置いた。
そして、答えない。
ただ、闇の中で呼吸だけが、わずかに深くなった。
語り部はそれ以上追わず、扇子を畳んだ。
「さあさあ、今宵の話はここまで。続きは――霧の濃い朝、赤い原で」




