彼女はどこにも行かない
彼女は、いつも同じ場所にいた。
人通りは多いのに、彼女自身はどこにも行かない。
それでも、世界中の話をよく知っていた。
遠い国の青い海。
朝焼けに染まる街並み。
路地裏の小さな食堂で出される、素朴な料理の匂い。
彼女はそれらを、自分の体験のように語る。
実際に行ったことがあるのかどうかは、誰にも分からない。
ただ、その言葉には温度があった。
彼女は待つのが得意だった。
何時間でも、何日でも、黙ってそこにいる。
特定の誰かではなく、
ただ「次の人」を待つ。
触れられることにも慣れていた。
乱暴な手つきも、
大切そうに扱われる指先も、
どちらも知っている。
若い人も、年配の人も、
疲れた顔の人も、少し浮き立った人も、
一度は彼女の前で足を止める。
そして、しばらくのあいだ、
彼女の話に耳を傾ける。
別れはいつも突然だった。
何も言わずに去っていく人がほとんどで、
振り返る人は少ない。
それでも彼女は気にしない。
また次が来ることを、知っているから。
その日、彼女の前に立ったのは、
少し疲れた顔の男だった。
目の奥に、どこか行き場のない影を宿している。
男は黙ったまま、彼女に触れた。
何かを壊さないような、慎重な手つきで。
しばらくのあいだ、
男は彼女の話を聞いていた。
静かな空間に、ページをめくる音だけが響く。
やがて男は、深く息を吐いた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
彼女に向けられたのか、
それとも旅そのものに向けられたのか、
彼女には分からない。
男は立ち去り、
彼女は元の場所に戻される。
決まった番号。
決まった高さ。
背中に貼られた、小さな白いラベル。
彼女は今日も、
図書館の棚の一角で、
旅行雑誌として静かに並んでいる。
次に誰かが、
彼女を手に取るその瞬間まで。




