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彼女はどこにも行かない

作者: 花竜
掲載日:2026/01/11

彼女は、いつも同じ場所にいた。

人通りは多いのに、彼女自身はどこにも行かない。

それでも、世界中の話をよく知っていた。

遠い国の青い海。

朝焼けに染まる街並み。

路地裏の小さな食堂で出される、素朴な料理の匂い。

彼女はそれらを、自分の体験のように語る。

実際に行ったことがあるのかどうかは、誰にも分からない。

ただ、その言葉には温度があった。

彼女は待つのが得意だった。

何時間でも、何日でも、黙ってそこにいる。

特定の誰かではなく、

ただ「次の人」を待つ。

触れられることにも慣れていた。

乱暴な手つきも、

大切そうに扱われる指先も、

どちらも知っている。

若い人も、年配の人も、

疲れた顔の人も、少し浮き立った人も、

一度は彼女の前で足を止める。

そして、しばらくのあいだ、

彼女の話に耳を傾ける。

別れはいつも突然だった。

何も言わずに去っていく人がほとんどで、

振り返る人は少ない。

それでも彼女は気にしない。

また次が来ることを、知っているから。

その日、彼女の前に立ったのは、

少し疲れた顔の男だった。

目の奥に、どこか行き場のない影を宿している。

男は黙ったまま、彼女に触れた。

何かを壊さないような、慎重な手つきで。

しばらくのあいだ、

男は彼女の話を聞いていた。

静かな空間に、ページをめくる音だけが響く。

やがて男は、深く息を吐いた。

「……ありがとう」

小さな声だった。

彼女に向けられたのか、

それとも旅そのものに向けられたのか、

彼女には分からない。

男は立ち去り、

彼女は元の場所に戻される。

決まった番号。

決まった高さ。

背中に貼られた、小さな白いラベル。

彼女は今日も、

図書館の棚の一角で、

旅行雑誌として静かに並んでいる。

次に誰かが、

彼女を手に取るその瞬間まで。

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