第9話 必要とされる居場所
エルヴィス・アルドレインの執務室に机を与えられてから、時間の流れが少し変わった。
朝、書類室ではなく執務室へ向かう。扉を開けると、すでに彼は席に着いていることが多かった。挨拶は不要。視線を交わすことも、ほとんどない。ただ、そこに「同じ空間で働く者」としての位置が用意されている。
それだけで、胸の奥が静かに落ち着いた。
――私は、ここに必要だからいる。
そう思えることが、思っていた以上に大きかった。
「……この条項、交渉時点では想定されていなかったのでは」
ある日の午前、セラは書類から顔を上げ、控えめに言った。
エルヴィスはペンを止め、書類に視線を落とす。
「理由は」
「こちらの記録では、当時の帝国側代表が急遽交代しています。文言が変わったのは、その直後です」
一瞬の沈黙。
エルヴィスは、ゆっくりと息を吐いた。
「……正しい」
それだけ言って、修正を指示する。
否定も、賞賛もない。だが、意見が通ったという事実が、胸に小さく灯をともした。
午後になると、自然と質問が増えた。
「この地方税の扱いですが」
「前例は?」
「三件あります。いずれも――」
会話は短く、必要最低限。それでも、確実にやり取りは成立している。
ふと気づく。
ここでは、黙っていてもいい。
無理に笑わなくてもいい。
期待されすぎることもない。
それなのに、役割だけははっきりしている。
――危険だわ。
夜、部屋に戻り、セラはベッドに腰掛けた。
今日も一日、問題なく終わった。誰にも責められず、誰にも見下されず、必要な仕事をして、必要なだけ評価された。
それが、こんなにも心地よいなんて。
「……慣れちゃいけない」
口に出して言ってみる。
だが、言葉とは裏腹に、身体はこの生活に馴染み始めていた。食事の時間。廊下の歩き方。執務室の空気。すべてが、日常になりつつある。
翌日、執務室での作業中、不意にエルヴィスが口を開いた。
「君は、王城で何年いた」
唐突な質問だった。
「……十年以上です」
「長いな」
それだけ言って、彼は書類に視線を戻す。
続きはない。だが、その一言に、胸の奥がわずかに揺れた。
――興味を持たれた?
そんな期待を抱いてしまう自分に、すぐ気づく。
違う。
これは、ただの情報収集だ。
それでも、問いかけられたこと自体が、特別に感じてしまう。
危険だ。
「……公爵閣下」
自分から声をかけるのは、珍しかった。
「何だ」
「もし、私がここを去ることになったら」
言葉を選びながら、続ける。
「代わりの方は、すぐに見つかりますか」
エルヴィスは、わずかに眉を動かした。
「探せばいる」
即答だった。
「だが、君と同じ条件の人間は、そう多くない」
その言葉に、心臓が跳ねた。
――同じ条件。
必要とされているのは、私個人ではなく、条件。
それでも。
「……そうですか」
それ以上、何も言えなかった。
昼休憩の時間、廊下で書記官とすれ違う。
「最近、助かってる」
不意にそう言われ、セラは足を止めた。
「あなたがいると、確認が早い」
「……ありがとうございます」
言葉は短いが、真っ直ぐだった。
胸の奥に、じんわりとした熱が広がる。
その日の夕方、執務室を出るとき、エルヴィスがふとこちらを見た。
「無理はするな」
言葉はそれだけ。
命令でも、忠告でもない。状況確認に近い声音だった。
だが、その一言が、胸に深く残った。
――この人は、私が“壊れる”ことも計算に入れている。
それは優しさではない。管理だ。
それでも。
部屋に戻り、窓の外の帝国の夜を見ながら、セラは思ってしまう。
ここに、居続けたい。
必要とされる居場所。
役割がある場所。
それが、どれほど脆いものか分かっているのに。
――もし、これを失ったら。
その先を想像し、胸がきゅっと縮んだ。
セラは目を閉じ、深く息を吸う。
これは仮の場所。
私は滞在者。
そう何度も自分に言い聞かせながら、
それでも心が、この場所に根を張り始めていることを、否定できずにいた。
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