第8話 役割を与えられる
帝国公爵邸での日々は、音もなく積み重なっていった。
朝、書類室へ向かい、黙々と紙に目を通す。昼は簡素な食事を取り、午後も同じ作業を続ける。夜になれば部屋に戻り、眠る。それだけの繰り返しだ。
だが、その単調さは、セラにとって苦ではなかった。
――考えなくていい時間が、増えた。
王城にいた頃は、常に気を張っていた。言葉一つ、表情一つで評価が変わる世界。だがここでは、求められるのは結果だけだ。できるか、できないか。それだけ。
書類の山を前に、セラは指先で紙を揃えながら、自然と集中していた。
「……この取引、期日がずれています」
隣で作業していた書記官が顔を上げる。
「ずれている?」
「はい。こちらの記録では、三年前に完了したことになっていますが、付随文書が存在しません」
「……確かに」
書記官は眉を寄せ、別の棚から資料を引っ張り出した。
「よく気づいたな。ここ、誰も見ていなかった」
その言葉に、セラは小さく首を振る。
「王城では、こういう確認ばかりでしたから」
それは事実だった。補佐役候補として、彼女に与えられていた仕事は、表に出ない調整と確認だ。誰も気づかない違和感を拾い上げる。それが、唯一の価値だった。
書記官は感心したように息を吐く。
「閣下に報告しておこう。これは助かる」
その一言が、胸の奥に静かに落ちた。
助かる。
役に立った。
それ以上の評価はいらなかった。
その日の午後、セラは呼び出された。
応接室に入ると、エルヴィス・アルドレインが机に向かっていた。書類の量は相変わらず多い。だが、彼の視線はすぐにこちらへ向けられた。
「座れ」
促され、セラは静かに腰を下ろす。
「君が見つけた不整合だが」
話は前置きなく始まった。
「調査の結果、過去の管理者の怠慢が原因だった。損失は小さいが、放置すれば拡大していた」
セラは息を詰めた。
「……そう、ですか」
「評価する」
短い言葉。だが、それははっきりとした評価だった。
エルヴィスは、机の引き出しから一枚の書類を取り出し、こちらに差し出す。
「これからは、書類室の補助ではなく、私直属の事務補佐として動いてもらう」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……直属、ですか」
「正式な役職名は与えない」
即座に続けられる。
「立場を固定すれば、君の存在が目立つ。今は避けたい」
なるほど、とセラは心の中で頷いた。
守るための昇格ではない。
使うための配置だ。
「仕事の範囲は、政務書類の整理、交渉記録の要約、必要に応じて意見を出すこと」
意見、という言葉に、セラはわずかに目を見開いた。
「……私が、意見を?」
「判断材料としてだ。採用するかどうかは、私が決める」
それでも。
「分かりました」
断る理由はなかった。
エルヴィスは、セラの返答を聞き、視線を細める。
「君は、自分の価値を低く見積もりすぎる」
唐突な言葉だった。
「だが、だからこそ、無駄な自己主張をしない。それは利点だ」
評価は冷静で、感情がない。
「今日から、この机を使え」
彼の机の横、少しだけ離れた場所に、小さな作業机が置かれていた。距離はあるが、同じ空間だ。
セラは、喉が少しだけ詰まるのを感じた。
――近すぎない。
――遠すぎない。
その距離が、今の彼女にはちょうどよかった。
「期待はしない」
エルヴィスは最後にそう言った。
「だが、結果は見る」
それは、この屋敷で最大級の信頼表現だった。
応接室を出た後、セラは深く息を吐いた。
廊下の窓から差し込む光が、床に細い線を描いている。
役割を与えられた。
正式な名も、立場もないまま。
それでも、昨日までより、足元は確かだった。
夜、机に向かい、渡された書類に目を通す。内容は難解だが、読み取れないものではない。王城で学んだ知識が、静かに噛み合っていく。
ふと、エルヴィスの横顔が視界に入った。
彼は書類から目を上げることなく、淡々と仕事を続けている。こちらを気にする様子はない。
――この人にとって、私は道具だ。
それは、分かっている。
だが。
道具としてでも、選ばれた。
その事実が、胸の奥を静かに満たしていた。
役割を与えられる。
それは、救いではない。
けれど、今のセラにとっては、生きる理由として十分だった。
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