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婚約を外された私は、敵国公爵に拾われました  ―役目を失った令嬢の、静かな逆転劇―  作者: 月岡紬


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第7話 帝国公爵邸

帝国公爵邸での生活は、静かに、しかし確実にセラを囲い込んでいった。


朝は決まった時刻に起こされ、簡素だが栄養の行き届いた食事が用意される。華やかさはないが、無駄もない。王城で過ごした日々よりも、ずっと実務的で、ずっと冷たいはずなのに――不思議と息苦しさはなかった。


「……ここでは、誰も期待しないのね」


小さく呟いた声は、誰にも拾われない。


書類室での仕事は、淡々と続いた。内容は主に過去の取引記録や領地管理の報告書、帝国内の行政文書だ。王城のそれと比べると、言葉は簡潔で、感情が入り込む余地がない。


だからこそ、セラは集中できた。


「この数値、前年と計算方法が変わっています」


「本当だな……」


書記官が感心したように唸る。その反応が、胸の奥を微かに温める。


役に立つ。

必要とされる。


それだけで、今日一日を生き延びられる気がした。


だが、その感覚が危ういものであることを、セラ自身も理解していた。


――ここは、仮の場所だ。


誰も「居ていい」とは言わない。

誰も「出ていけ」とも言わない。


その曖昧さが、逆に彼女を縛っていた。


昼過ぎ、廊下で数人の侍女とすれ違った。彼女たちは一瞬だけ視線を向け、すぐに逸らす。その動きには、明確な距離があった。


「……あの方、公爵閣下が拾ってきた方でしょう」


「そうらしいわ。身元がはっきりしないとか」


「だから、客扱いじゃないのね」


囁き声は小さいが、耳に入る。


セラは足を止めなかった。振り返りもしない。慣れている反応だった。王城でも、似たような視線を何度も浴びてきた。


違うのは、ここでは同情すら向けられないことだ。


――同情される立場ですらない。


それが、少しだけ楽だった。


夕方、書類室を出ると、屋敷の中庭が目に入った。石畳に囲まれた簡素な空間で、装飾は最低限。訓練用だろうか、武器棚が壁際に並んでいる。


その中央に、エルヴィス・アルドレインがいた。


外套を脱ぎ、剣を手に、黙々と動いている。型を確認するような動きで、一切の無駄がない。


セラは、思わず足を止めた。


初めて見る、仕事以外の彼の姿だった。


汗を流しながらも、呼吸は乱れていない。感情を排した動き。人を斬るためではなく、常に備えるための剣。


――この人は、ずっとこうして生きてきたのだろう。


気配に気づいたのか、エルヴィスがこちらを見た。


「何か用か」


「……いえ。通りがかっただけです」


それだけのやり取り。


エルヴィスは剣を収め、短く息を吐いた。


「慣れたか」


問いは、唐突だった。


「……何に、でしょうか」


「この屋敷に」


セラは少し考え、正直に答えた。


「慣れようとしている、というのが正しいかと」


エルヴィスは、ふっと鼻で笑った。


「賢い」


それは褒め言葉だった。


「慣れすぎると、離れる時に鈍る」


その言葉に、胸がひくりとする。


――やはり、ここも永遠ではない。


「君は、自分の立場を理解している」


エルヴィスはそう言って、中庭を見渡した。


「ここにいる者たちは、全員、役割を持っている。持てなくなれば、去るだけだ」


セラは黙って頷いた。


それは、王国と何も変わらない。

ただ、嘘が少ないだけだ。


「……一つ、伺ってもよろしいですか」


「簡潔に」


「私が、役に立たなくなったら」


言葉が、少しだけ震えた。


「どうなりますか」


エルヴィスは、迷いなく答えた。


「去る」


それだけ。


「だが」


一拍置いて、続ける。


「去るまでの選択肢は、王国よりは多い」


その言葉に、セラは少しだけ救われた気がした。


選択肢がある。

それだけで、人は立てる。


「ありがとうございます」


礼を言うと、エルヴィスは怪訝そうに眉を寄せた。


「感謝する場面ではない」


「……そうですね」


それでも、セラは小さく笑った。


夜、部屋に戻ると、窓の外に帝国の夜空が広がっていた。星の配置が、王国のものと微妙に違う。


――本当に、別の世界に来たのだ。


ベッドに腰掛け、今日一日を思い返す。


仕事。視線。距離。

そして、エルヴィスの言葉。


ここは居場所ではない。

だが、無意味な場所でもない。


その曖昧さの中で、セラは初めて、自分が「考える余裕」を持っていることに気づいた。


生き延びるためだけではなく、

どう生きるかを。


帝国公爵邸の夜は、静かに更けていく。


この場所が、彼女にとって何になるのか。

答えは、まだ遠い。


だが確かに、物語は前に進んでいた。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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