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婚約を外された私は、敵国公爵に拾われました  ―役目を失った令嬢の、静かな逆転劇―  作者: 月岡紬


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第6話 名前を名乗らない選択

朝の光は、王都のそれとはまるで違っていた。


帝国公爵邸の客間――いや、「客間」と呼ぶにはあまりにも簡素な部屋に、淡い陽射しが差し込んでいる。厚手のカーテンはなく、窓は高く、外の景色も最低限しか見えない。だが、閉じ込められているという印象はなかった。


必要なものだけが、必要な分だけある。


それが、この屋敷の在り方なのだろう。


セラはベッドに腰掛け、両手を膝の上で組んでいた。夜は、思った以上に眠れた。夢も見なかった。身体はまだ重いが、頭は驚くほど冴えている。


――ここでは、泣く暇もない。


扉が軽くノックされ、侍女が入ってきた。年は三十前後だろうか。動きは静かで、視線は必要以上にこちらを見ない。


「お目覚めですね。身支度を」


差し出されたのは、帝国風の簡素な服だった。装飾はなく、色も落ち着いている。貴族の令嬢が着るには質素だが、動きやすそうだ。


「……ありがとうございます」


そう言いながら、セラは一瞬だけ迷った。


この服を着るということは、王国の令嬢としての外見を、ここで捨てるということだ。


だが、迷いは一瞬だった。


「こちらで、お願いします」


侍女は無言で頷き、手際よく支度を整える。髪も、飾り気のない形にまとめられた。鏡に映る自分は、王城にいた頃より、ひどく地味に見えた。


――でも、これでいい。


呼び出されたのは、昨日と同じ応接室だった。


エルヴィス・アルドレインはすでに席についており、書類に目を通していた。こちらに気づくと、ちらりと視線を上げる。


「体調は」


「問題ありません」


「そうか」


それだけで会話は終わる。


セラは、促されるまま向かいに座った。机の上には、いくつかの書類と、白紙の用紙が一枚置かれている。


「今日から、君の扱いを正式に決める」


エルヴィスは淡々と言った。


「まず、確認だ。君は王国の人間だな」


「……はい」


「だが、今の君は王国に属していない」


事実だった。


「帝国に亡命するつもりはあるか」


唐突な問いに、セラは言葉を失った。


亡命。

その言葉の重さは、よく知っている。


「……今は、ありません」


正直な答えだった。覚悟が足りない、と言ってもいい。


エルヴィスはそれを否定しなかった。


「ならば、君は“どこにも属さない存在”だ」


紙の上にペンを置く。


「その状態で、本名を名乗るのは危険だ」


セラの指先が、わずかに震えた。


――やはり、気づいていた。


「王国の貴族名は、身分と同時に情報だ。特に君の立場ならなおさら」


エルヴィスは、視線を紙から外し、セラを見る。


「セラ。これは偽名だな」


問いではなく、断定だった。


「……はい」


「続けるつもりか」


その問いに、セラは一瞬、迷った。


本名を名乗らないことは、過去を切り捨てることに等しい。エルフォード家の娘であった自分。王太子の傍に立つために生きてきた自分。


それらすべてを、ここで否定する行為だ。


だが。


――否定しなければ、生き残れない。


「……続けます」


声は小さかったが、揺れはなかった。


エルヴィスは、ほんの一瞬だけ、目を細めた。


「合理的だ」


評価とも、感想ともつかない一言。


「では、当面の間、君の名は“セラ”だ。姓は不要」


「……よろしいのですか」


「姓を持たない者は、立場が曖昧だ。今の君には、都合がいい」


それは、守りであり、檻でもある。


「次だ」


エルヴィスは別の書類を引き寄せた。


「君に、屋敷の仕事を一部手伝ってもらう」


「仕事……ですか」


「書類整理、記録の確認、来客対応の補助。能力を見たい」


試用期間、ということだ。


「拒否権は」


「ない」


即答だった。


セラは、思わず小さく笑った。


「……分かりました」


エルヴィスは、その反応を見て、少しだけ眉を上げた。


「何か可笑しいか」


「いえ。ただ……役割が与えられるのは、久しぶりだと思いまして」


その言葉に、エルヴィスは何も言わなかった。だが、視線が一瞬、セラの表情を掠めた。


「役割があるうちは、ここに居られる」


それは、約束ではない。条件だ。


「理解しています」


セラは、深く頷いた。


応接室を出た後、侍女に案内され、書類室へ向かう。分厚い扉の向こうには、整然と並ぶ棚と、膨大な記録があった。


――懐かしい。


王城で過ごした日々と、重なる光景。


「こちらを、まず」


渡された書類に目を通した瞬間、思考が自然と切り替わる。誤字、矛盾、時系列。頭が勝手に整理を始める。


時間の感覚が、消えた。


気づけば、昼を過ぎていた。


「……ここ、数字が合いません」


思わず口にした言葉に、隣にいた書記官が目を見開く。


「本当だ……よく気づいたな」


その反応に、胸の奥が少しだけ温かくなる。


役に立てた。

それだけで、呼吸が楽になる。


夕方、書類室を出ると、廊下の向こうにエルヴィスの姿が見えた。彼は立ち止まり、こちらを見ている。


「問題は」


「ありません。……いえ、一点だけ」


セラは、勇気を出して言った。


「私の名前は、いつまで“セラ”のままでしょうか」


エルヴィスは、しばらく考えるように沈黙した。


「君が、自分で名乗ると決めるまでだ」


意外な答えだった。


「誰かに与えられる名ではない」


そう言って、彼は踵を返す。


セラはその背中を見送りながら、胸の奥に小さな決意が生まれるのを感じていた。


名前を名乗らない選択。

それは、逃げではない。


――選ぶための、準備だ。


そう思えたのは、この場所に来て、初めてだった。

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