第4話 敵国の貴族
森を抜けるまで、どれほど歩いたのか分からなかった。
夜が深まり、空気はひんやりと冷えている。枝葉の間から覗く月は細く、道らしい道もない。それでも、濃紺の外套の騎士――否、騎士であることは間違いないが、彼は一度も迷うそぶりを見せなかった。
セレスティア――今は“セラ”は、必死にその背中を追っていた。
足は痛い。膝は震えている。喉は渇き、肺が焼けるように苦しい。だが、止まるという選択肢はなかった。止まった瞬間、この人は振り返らずに去るだろうという確信があった。
「……」
声をかけようとして、やめる。
何を言えばいいのか分からない。助けてくれてありがとう? ここはどこですか? 私はどうなるのですか?
どれも、この人に向ける言葉として、ひどく的外れな気がした。
やがて、森の奥に淡い灯りが見えてきた。焚き火だ。数張りの簡易的な幕舎と、繋がれた馬。少人数の野営地だった。
騎士が手を上げると、周囲にいた者たちが即座に動いた。警戒を解く者、周囲を確認する者、焚き火を整える者。統制が取れている。即席の集団ではない。
「戻った」
騎士が短く告げる。
「お疲れさまです、閣下」
その呼びかけに、セラの心臓が跳ねた。
――閣下。
それは、ただの騎士に向ける呼び名ではない。
騎士――いや、男は軽く頷いただけで、こちらを振り返った。
「座れ」
焚き火の近くを指示され、セラは言われるまま腰を下ろした。熱が頬に当たり、ようやく身体の感覚が戻ってくる。
男は彼女の向かいに立ったまま、無言で観察していた。視線は鋭いが、刺すような敵意はない。ただ、測るような冷静さだけがある。
「……改めて聞く。名はセラ。それ以外は?」
質問は簡潔だった。
「……それ以外、とは」
「出身。立場。追われる理由」
セラは唇を噛んだ。
どこまで話すべきか分からない。正直に言えば、王国と繋がる。嘘をつけば、見抜かれる気がする。
数秒の沈黙の後、彼女は言葉を選びながら口を開いた。
「……王都に、いました。役目を終えて、静養に向かう途中でした」
男の眉が、ほんのわずかに動いた。
「役目?」
「はい。……もう、必要とされなくなった役目です」
それ以上は、語らなかった。
男はしばらく黙っていたが、やがて焚き火の側に腰を下ろした。剣を外し、無造作に置く。その仕草には、隙がない。
「護衛は?」
「……途中で、はぐれました」
事実だ。置いていかれた、とは言わなかった。
男はそれで察したらしく、それ以上は追及しなかった。
「ここは帝国領だ。王国の人間が一人で歩く場所じゃない」
「……分かっています」
分かっていて、ここにいる。選択肢がなかったから。
焚き火がぱちりと音を立てる。火の粉が舞い、夜気に消えた。
「私は、エルヴィス・アルドレイン」
男は淡々と名乗った。
「帝国の公爵だ」
セラは、一瞬、言葉を失った。
公爵。
しかも、帝国の。
王国で教えられてきた“警戒すべき存在”の中でも、最上位に位置する人物だ。
「……そんな方が、なぜこんな場所に」
「視察だ」
即答だった。
だが、それが全てではないと、本能が告げている。政治。軍事。境界。理由はいくらでも考えられた。
エルヴィスは、焚き火越しにセラを見る。
「君は運がいい」
また、その言葉だ。
「このまま森に残っていれば、盗賊に捕まるか、獣に食われるか、どちらかだった」
慰めでも、脅しでもない。ただの事実。
「……助けていただいたことは、感謝します」
セラは深く頭を下げた。
エルヴィスはそれを一瞥し、すぐに視線を外す。
「感謝は不要だ。私は、必要なことをしただけだ」
必要なこと。
その言葉に、胸が小さくざわめいた。
「君は、教育を受けている」
不意に言われ、セラは顔を上げた。
「言葉遣い。姿勢。質問への答え方。どれも、平民のそれじゃない」
逃げ場のない指摘だった。
「……はい」
「帝国にとって、敵国の情報は価値がある」
エルヴィスは淡々と続ける。
「だが、今の君からは、逃亡者の臭いしかしない」
その言葉に、セラは息を詰めた。
「売るには中途半端。捕らえるには、手間がかかる」
焚き火が、二人の間で揺れる。
「……では、私はどうなりますか」
恐る恐る、セラは尋ねた。
エルヴィスは少しだけ考えるように目を伏せ、それから結論を出す。
「しばらく、私の管理下に置く」
管理下。
保護ではない。
「帝国公爵の庇護を期待するな。君は“客”ではない」
はっきりと、線を引く言葉。
「だが、無意味に切り捨てるつもりもない」
セラは、その言葉をどう受け取ればいいのか分からなかった。
守られるわけでもない。
捨てられるわけでもない。
宙に浮いた状態。
――それでも。
森に一人残されるよりは、ずっとましだ。
「……分かりました」
セラは、静かに頷いた。
エルヴィスはそれを見て、わずかに視線を細めた。
「いい判断だ」
それは評価だった。
彼は立ち上がり、部下に指示を出す。
「この者を連れて行く。屋敷までだ」
「閣下、身元確認は――」
「道中でいい。今は休ませろ」
指示は簡潔で、迷いがない。
セラは焚き火の熱を背に感じながら、立ち上がった。
敵国。
帝国。
公爵。
どれも、本来なら近づいてはいけない存在だ。
だが今、彼女にとって唯一の“行き先”が、そこだった。
エルヴィス・アルドレインは、振り返らずに歩き出す。
セラは一歩遅れて、その背中を追った。
この出会いが、自分の人生をどこへ連れていくのか。
まだ、考える余裕はなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
ここはもう、王国ではない。
そして――彼は、優しさで人を助ける男ではない。
それでも。
セラは、足を止めなかった。
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