第30話(最終話) 私が選んだ名前で
署名の場は、静かだった。
会議棟の最上階、窓から差し込む光が長机の上を均等に照らしている。華美な装飾はなく、集まっているのは必要最低限の人間だけ。中立都市リュネスらしい、実務のための空間だった。
セラは、商会代表の隣に立っていた。
末席ではない。
だが、前に出すぎる位置でもない。
自分で選び、守ってきた場所。
書類が回され、各代表が順に署名していく。名前と肩書きが、淡々と記されていく中で、ペンがセラの前に置かれた。
「お願いします」
代表が、短く言う。
セラはペンを取った。
一瞬だけ、紙の上の空白を見る。
ここに書くのは、
立場を示す肩書きではない。
誰かに与えられた役割でもない。
名前だけだ。
ゆっくりと、しかし迷いなく、ペンを走らせる。
――セレスティア・エルフォード。
本名。
追放されたときに、
名乗ることをやめた名前。
守られなかった過去を背負う名前。
それでも、今は違う。
これは、選ばれた名前ではない。
私が、選び直した名前だ。
署名を終え、ペンを置く。
室内に、わずかなざわめきが走った。
中立都市では珍しい、貴族名。
だが、誰も異を唱えない。
今の彼女は、
その名に耐えうる立場に立っている。
「次に、帝国代表」
声がかかる。
エルヴィス・アルドレインが前に出る。
軍装のまま、迷いのない足取り。
彼は書類を確認し、視線を上げた。
そして、初めて。
「――セレスティア・エルフォード」
名を呼んだ。
役職でも、立場でもない。
条件でも、評価でもない。
ただ、個人として。
セラの胸の奥で、何かが静かにほどけた。
「確認を」
「問題ありません」
声は、驚くほど落ち着いていた。
エルヴィスは頷き、署名を済ませる。
合意は成立した。
書類が回収され、人々が立ち上がる。
形式的な挨拶が交わされ、次の仕事の話が始まる。
だが、セラは一歩だけ、その場に留まった。
エルヴィスも、同じだった。
視線が合う。
「……これで」
エルヴィスが、低く言う。
「並んだな」
「ええ」
セラは、はっきりと答えた。
「上下ではなく」
「管理でもなく」
「対話として」
短い言葉の応酬。
だが、それで十分だった。
窓の外では、リュネスの街がいつも通りに息づいている。
誰もが、自分の場所を探し、守り、失い、また作り直している。
セラは、ふと空を見上げた。
ここは、どこにも属さない街。
そして今の彼女も、
どこかに縛られてはいない。
「これから、どうする」
エルヴィスが問う。
問いに、答えは一つではない。
だからこそ、彼は“命令”ではなく“質問”を選んだ。
セラは、少しだけ考え、微笑んだ。
「仕事を続けます」
「それだけか」
「それだけで、十分です」
歩み寄ることも、
立ち去ることも、
どちらも選べる距離。
それが、対等ということ。
二人は並んで、会議室を出た。
肩は触れない。
だが、歩調は同じだった。
その名を呼ばれたとき、
私は初めて、
どこにも属さないまま、
誰かの隣に立っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、
「選ばれること」よりも
「選ぶこと」に重きを置いた物語です。
セラは、特別な力を得たわけでも、
誰かに劇的に救われたわけでもありません。
むしろ、何度も静かに切り捨てられ、
そのたびに立ち止まり、考え、選び直してきました。
名前を呼ばれなかった別れ。
役割だけで繋がっていた関係。
居場所を与えられることの、心地よさと危うさ。
それらは決して異世界だけの話ではなく、
現実でも多くの人が一度は経験する感覚だと思います。
だからこそ、この物語では
「恋愛=救済」にはしませんでした。
エルヴィスはセラを救わないし、
セラも彼に縋らない。
二人が最後に並んだのは、
依存の先ではなく、選択の先です。
名前を名乗ること。
名前を呼ばれること。
それは、
「ここにいていい」と許されることではなく、
「私はここに立つ」と宣言することなのだと、
この物語を書きながら、私自身も改めて考えました。
もし、この物語を読み終えたあとに、
少しだけ背筋が伸びたような気がしたり、
自分の立ち位置を見直してみようと思えたなら、
それ以上に嬉しいことはありません。
最後までお付き合いいただき、
本当にありがとうございました。
またどこかで、
物語の中でお会いできたら幸いです。




