第3話 守る優先順位
馬車の揺れが、少し荒くなった。
舗装された道を外れ、車輪が土と石を噛む音が増える。窓の外に流れる景色は、森と草地が交互に現れ、遠くに低い丘が見え隠れしていた。王都の端正な景観とは別世界だ。
セレスティア・エルフォードは膝の上で両手を組み、揺れに合わせて呼吸を整えていた。護衛の男たちは向かいの座席に二人。鎧の擦れる音だけが、淡々と馬車の中に落ちている。
「この先、少し速度を落とす」
年上の護衛が言った。声は必要最低限で、情緒がない。
「……道が悪いのですね」
セレスティアが返すと、護衛は短く頷いただけだった。
会話が続かないことに、もう慣れ始めている自分がいた。王城にいた頃、彼女の周りには常に人がいて、礼儀や媚びや牽制が飛び交っていた。今は、誰も“興味”を見せない。その空白が、妙に冷たく、同時に楽でもある。
――私は今、何者なのだろう。
誰かの婚約者候補。補佐役候補。将来の王妃を支えるための教育を受けた娘。
そう呼ばれた肩書は、昨日で終わった。
今はただ、静養に向かう女。
それだけだ。
馬車が森へ入る。枝が窓を掠め、葉擦れの音が近くなる。光がまだらに差し込み、車内の空気が薄暗く見えた。
不意に、外で馬のいななきが上がった。
続いて、車体が大きく揺れる。
「止まれ!」
護衛の声が鋭くなる。馬車が急停止し、セレスティアの体が前に投げ出されそうになった。咄嗟に座席の端を掴む。心臓が跳ねる。
「何が……」
言いかけた瞬間、外で金属がぶつかる音がした。刃が抜かれる音。怒鳴り声。獣じみた笑い声。
「伏せて!」
護衛の一人が扉を押さえながら叫ぶ。セレスティアは反射的に身を低くした。耳の奥が熱くなる。世界が急に近く、狭くなる。
――襲撃。
その言葉が頭の中で冷たく鳴った。
王都の外は危険だと教えられてきた。盗賊、反乱分子、密輸団。どれも遠い物語のようだったのに、今はすぐそこにいる。
「金を出せ! 馬車を開けろ!」
低い声が外から響く。複数人。数は分からないが、護衛二人より多いのは確実だった。
「黙れ。王家の――」
護衛の言葉が途中で途切れ、鈍い音が続く。殴打か、蹴りか。呻き声。
セレスティアは息を殺し、膝を抱えた。頭の中が異様に冷静だった。
――王家の、とは言えない。
私はもう、王家の人間じゃない。
護衛にとっても、私は“守るべき人物”ではなくなっている。
その理解が、恐怖より先に来ることが、いちばん怖かった。
扉が叩かれる。何度も。木が軋み、金具が悲鳴を上げる。護衛が内側から押さえ、必死に耐えているのが分かった。
「女が乗ってるんだろ! 売れるぞ!」
下卑た笑い声。言葉が皮膚を這うように耳に入る。
セレスティアの喉がきゅっと縮んだ。吐き気が上がる。だが、声は出ない。出したところで、誰が助けてくれるのか。
――誰も、助けない。
そう思った瞬間、頭の中に王城の応接室がよぎった。丁寧な言葉で終わりを告げた高官。優しく見えた眼差し。あの時感じた「音もなく落ちる何か」。
今、この瞬間も、同じだ。
切り捨てられるのは、いつだって静かだ。
「……隊長、数が多い。退くぞ」
護衛の片方が、低い声で言った。
「馬車を捨てるか?」
「荷物は――」
「いい。命が先だ」
短い会話。だが、セレスティアには十分だった。
――捨てる。馬車を。荷物を。
そして、私を?
息が止まりそうになった。
そのとき、外で護衛の一人が叫んだ。
「おい、お嬢! 動け!」
扉が少しだけ開く。護衛が腕を伸ばし、セレスティアを引っ張り出そうとする。だが、その動きには、守るための必死さがない。避難誘導というより、邪魔な荷物をどかす手つきに近かった。
「早く! こっちだ!」
セレスティアはよろめきながら外へ出た。森の空気が冷たく肺に刺さる。視界の端で、粗末な装備の男たちが数人、木陰から躍り出てくるのが見えた。
護衛は彼女の腕を掴み、林の奥へ走り出す。
――逃げる。
でも、どこへ。
足元の土が滑る。枝が頬を掠める。息が苦しい。セレスティアの喉が焼けるように痛む。
背後で、別の護衛の呻き声が聞こえた。遅れている。追いつかれているのかもしれない。
「はぁ、はぁ……」
セレスティアは息を吐きながら必死に走った。だが、体力の差は歴然だった。ドレスではないとはいえ、旅装のスカートは動きづらい。足がもつれる。
「……っ!」
つまずいて膝をついた。土が掌に食い込む。
護衛が振り返った。その目が、ほんの一瞬だけ、計算するように揺れた。
「立て!」
腕を掴まれ、引き上げられる。だが次の瞬間、護衛はセレスティアを木の陰に押し込んだ。
「ここにいろ。声を出すな」
言い捨てて、護衛は走り去った。
セレスティアはその場に固まった。
――今、置いていった?
耳が熱い。心臓が速すぎて痛い。周囲の音が膨張する。遠くで叫び声。金属音。木々のざわめき。
護衛は戻ってこない。
戻る理由がない。
セレスティアは唇を噛んだ。血の味がした。
「……そう」
声にならない声で呟く。
守る優先順位。
私の順位は、最初から低かったのだ。
背後から、足音が近づく。
セレスティアは息を止めた。枝を踏む音。荒い呼吸。男の笑い声。
「いたぞ。こっちだ」
終わりだ、と思った瞬間。
別方向から、風を裂くような鋭い音が走った。
――矢?
男が短く悲鳴を上げ、倒れる音がした。
「……何だ!」
二人目の男が振り向く。闇のような森の奥から、馬の蹄の音が迫ってくる。規則正しく、迷いがない。
木々の間から現れたのは、黒に近い濃紺の外套を纏った騎士だった。鎧は無駄がなく、装飾も少ない。だが、その存在感は異様に冷たい。
背後に二、三名。統制の取れた動き。盗賊たちの空気が一瞬で変わった。
「帝国の……?」
誰かが呟く。
騎士は言葉を発さず、ただ手を上げた。次の瞬間、部下が滑るように動き、盗賊を囲い込む。剣が抜かれる音が一斉に鳴り、森が刃の光で瞬いた。
セレスティアは木の陰から動けずにいた。喉が震える。涙が出るより先に、現実味のない光景が目の前で展開されている。
盗賊の一人がこちらに向かって逃げようとした。その進路を、濃紺の外套の騎士が塞ぐ。
剣が一度だけ閃いた。
男は倒れ、土に沈む。
騎士は血を払うこともせず、視線だけを動かし、木陰のセレスティアを見つけた。
目が合った。
冷たい、という印象だけが全身を貫いた。
怒りでも憐れみでもない。
ただ“評価”する視線。
セレスティアは息を呑んだ。
この人は――助けに来たのではない。
助けた上で、何かを決める人だ。
騎士が一歩近づく。足音が静かで、逆に怖い。
「……名は」
短い声。低く、乾いた響き。
セレスティアは答えられなかった。喉が固まっている。
騎士は眉一つ動かさず、繰り返す。
「名を聞いている」
その言葉で、ようやく現実が戻ってきた。セレスティアは唇を開き、しかし、本名が喉の手前で止まった。
――本名を言えば、王国に繋がる。
――今の私には、それが危険かもしれない。
数秒。永遠のように長い沈黙。
セレスティアは視線を落とし、かすれた声で言った。
「……セラ、と」
偽名。
そして、自分を切り離すための名前。
騎士は小さく頷いた。
「セラ。――ここは帝国領だ」
その一言で、世界がひっくり返るような感覚がした。
帝国。敵国。
王都で何度も教わった“警戒すべき国”。
騎士は、淡々と言う。
「立てるか」
問いは優しさではなく、確認だった。
セレスティアは膝の震えを堪え、ゆっくり立ち上がった。足がふらつく。だが、倒れるわけにはいかない。倒れた瞬間、価値を失う気がした。
騎士は彼女の様子を見て、短く息を吐いた。
「……運がいい。死ぬには惜しい」
それは慰めではなく、判定だった。
セレスティアはその言葉に、胸が締めつけられるのを感じた。
守る優先順位。
今度は、別の場所で、別の人に――また順位を付けられる。
騎士は外套を翻し、背を向けた。
「来い。話は後だ」
セレスティアは一歩踏み出し、森の闇の中を進むその背中を追った。
追うしかない。
戻る場所はもうないのだから。
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