第29話 対等な条件
交渉最終日の朝、空は低く曇っていた。
雨が降るほどではないが、湿った風が街路を撫で、石畳を鈍く光らせている。リュネスの街は、いつも通りの顔をしていた。誰かの決断など、知りもしないというように。
セラは、会議棟へ向かう途中で足を止め、深く息を吸った。
――今日で終わる。
交渉も、
この曖昧な距離も。
会議は滞りなく進み、正午前には最終合意が確認された。署名は午後。形式だけの時間だ。誰もが、次の仕事のことを考え始めている。
休憩に入ったとき、商会代表が近づいてきた。
「帝国公爵が、もう一度話したいそうだ」
その声に、驚きはなかった。
「業務ですか」
「……業務外だな」
代表は、察したように目を逸らした。
用意されたのは、会議棟の上階にある小さな部屋だった。窓が一つ、簡素な机と椅子が二脚。ここでは、立場を誤魔化すことができない。
エルヴィス・アルドレインは、すでに部屋にいた。
外套は着けていない。だが、軍装のまま。公爵であり、帝国の代表であることを、隠すつもりはないらしい。
「時間を取らせる」
「構いません」
扉が閉まる。
沈黙が落ちる。
昨日のやり取りが、互いの中にまだ残っているのが分かった。だからこそ、どちらもすぐには口を開かなかった。
「昨日の提案だが」
先に話し出したのは、エルヴィスだった。
「撤回はしない」
セラは、静かに彼を見る。
「だが、条件を変える」
その言葉に、眉がわずかに動いた。
「帝国に戻れ、とは言わない」
一拍。
「ここに来い、とも言わない」
さらに一拍。
「選択肢を、並べる」
セラは、無意識に背筋を伸ばしていた。
「私は帝国の公爵だ。立場は捨てられない」
それは、事実の確認。
「君は、中立都市で立場を作った。
それを手放せと言う権利は、私にはない」
静かな声だった。だが、言葉は重かった。
「それでも、君と共に動く道はある」
セラの心臓が、一拍だけ強く鳴る。
「どういう意味でしょうか」
「協力関係だ」
即答。
「帝国と中立商会。
公的には、ただの連携だ」
彼は一歩、距離を詰めた。だが、踏み込みすぎない位置で止まる。
「だが、私的には……並ぶ関係だ」
上下ではない。
管理でも、庇護でもない。
対等。
セラは、すぐには答えなかった。
頭の中で、いくつもの感情が交差する。
――甘い話ではない。
――だが、逃げ道でもない。
「条件があります」
セラは、はっきりと言った。
エルヴィスは、驚いた様子もなく頷く。
「言え」
「一つ」
指を一本、立てる。
「私は、あなたの所有物にも、部下にもなりません」
「当然だ」
即答。
「二つ目」
指を二本。
「去る自由を、互いに持つこと」
エルヴィスの目が、わずかに細くなる。
「それは……危険だ」
「だからです」
セラは、視線を逸らさない。
「自由がなければ、対等ではありません」
短い沈黙。
やがて、エルヴィスは頷いた。
「受け入れる」
三つ目、と言おうとして、セラは一瞬だけ迷った。
だが、逃げないと決めた。
「最後に」
声が、少しだけ低くなる。
「名前で呼ぶこと」
エルヴィスの動きが、止まった。
「役職でも、立場でもなく」
一拍。
「個人として」
その条件は、書類には書けない。
だが、二人にとっては、何よりも重い。
エルヴィスは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと、しかし確実に言った。
「……それが、一番難しいな」
「承知しています」
セラは、静かに息を吐く。
「だからこそ、条件です」
長い沈黙の後。
エルヴィスは、小さく息を吐き、頷いた。
「分かった」
短い言葉。
だが、そこに迷いはなかった。
「対等な条件だ」
それだけで、十分だった。
扉が開く音がする。
外では、署名の準備が始まっている。
「……今日の署名が終われば」
エルヴィスが言う。
「関係は、白紙から始まる」
「ええ」
セラは、わずかに口角を上げた。
白紙。
それは、怖くて、自由な場所。
二人は並んで部屋を出た。
肩は触れない。
だが、距離は同じだった。
それでいい。
選ばれるのではない。
縋るのでもない。
――並ぶ。
それが、セラが選んだ条件だった。
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