第28話 それでも、選ばない
翌日の会合は、前日よりも短かった。
条件のすり合わせは順調に進み、残る論点は細部だけだ。互いに譲るべき場所と、譲らない場所が明確になったことで、空気に無駄な緊張はなかった。
セラは資料を確認しながら、静かに思っていた。
――終わる。
この交渉も、
そして、この距離も。
休憩に入ったとき、商会代表が声をかけてきた。
「帝国側から、個別に話があるそうだ」
視線の先に、エルヴィスが立っている。昨日と同じ、曖昧な距離。だが、今日は彼の方から歩み寄ってきた。
「業務の続きだろうか」
セラがそう言うと、エルヴィスは首を振った。
「別件だ」
二人は建物の奥、小さな応接室へ通された。扉が閉まる。今度は、明確に二人きりだった。
「先に言っておく」
エルヴィスが口を開く。
「これは命令でも、要請でもない」
セラは黙って頷いた。
「帝国に戻らないか」
唐突だが、回りくどさはなかった。
「正式な地位を用意する。政務補佐としてだ。
中立都市での経験も、評価されている」
条件は悪くない。
いや、むしろ破格だ。
「生活の保証もする。安全も、名も」
名、という言葉に、胸が一瞬だけ反応する。
――呼ばれる名前。
与えられる立場。
かつて、喉から手が出るほど欲しかったもの。
「……なぜ、私に」
セラは、静かに問い返した。
「能力がある」
即答。
「そして、今の君は、帝国にとっても有益だ」
感情は混じっていない。
だが、昨日までとは違う重みがあった。
セラは、視線を落とした。
頭の中で、二つの風景が重なる。
帝国公爵邸の執務室。
与えられた机。
役割を果たす安堵。
そして、
中立都市の雑踏。
名もなき契約。
自分で立った場所。
「……お断りします」
答えは、迷いなく口をついて出た。
エルヴィスの目が、わずかに見開かれる。
「理由は」
「戻れば、私はまた“居場所を与えられる側”になります」
セラは顔を上げ、はっきりと彼を見る。
「それは、もう選ばないと決めました」
沈黙が落ちる。
拒絶ではない。
だが、退路もない。
「ここで築いた立場は、不安定です。保証もありません」
「分かっています」
「それでもか」
「それでも、です」
言葉は短いが、揺れはなかった。
エルヴィスは、しばらく何も言わなかった。視線を外し、窓の外を一度見る。そして、再びセラに向き直る。
「……変わったな」
「ええ」
セラは、小さく頷いた。
「あなたに教わりましたから」
それは皮肉ではない。
事実だった。
人は、役割で判断される。
だが、役割に縛られる必要はない。
「私は、あなたの提案を軽んじてはいません」
セラは続ける。
「ただ……もう、戻れないだけです」
戻れば、楽になる。
だが、楽になることと、前に進むことは違う。
エルヴィスは、深く息を吐いた。
「分かった」
短い言葉。
「この話は、ここまでだ」
強要はしない。
それが、彼の矜持なのだろう。
扉を開ける前、彼は一度だけ立ち止まった。
「……後悔はしないか」
セラは、少しだけ考え、そして答えた。
「後悔は、します」
正直な答え。
「でも、選ばなかった後悔より、
選ばなかった“自分”を嫌いになる方が、ずっと怖い」
エルヴィスは、何も言わなかった。
扉が開き、光が差し込む。
二人は再び、公の場へ戻った。
それぞれの役割へ。
それぞれの場所へ。
セラは歩きながら、胸の奥に確かな感覚を抱いていた。
選ばなかった。
けれど、逃げてもいない。
それは、初めて自分で下した、
揺るぎのない選択だった。
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