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婚約を外された私は、敵国公爵に拾われました  ―役目を失った令嬢の、静かな逆転劇―  作者: 月岡紬


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第27話 名前を呼ぶ権利

会議棟を出ると、夕方の風がリュネスの街路を抜けていった。


石畳の上を行き交う人々の声は雑多で、商人の呼び声、馬車の軋む音、酒場から漏れる笑い声が混じり合っている。中立都市らしい、どこにも属さないざわめきだ。


セラは、会議用の資料を抱えたまま、建物の外階段を下りていた。


――終わった。


交渉はまだ続く。だが、今日の山場は越えた。自分の役割も、十分に果たした。そう整理しながら歩いていた、そのときだった。


「少し、時間はあるか」


聞き覚えのある低い声。


振り向くと、エルヴィス・アルドレインが数歩後ろに立っていた。随員はいない。だが、完全な私的空間でもない。人の行き交う、曖昧な距離。


「業務の範囲でしたら」


セラは、慎重に答えた。


「それでいい」


短い返事。


二人は、会議棟の脇にある回廊へ移動した。柱が並び、外からの視線を程よく遮る場所。声を潜めれば、会話は成立する。


沈黙が、先に落ちた。


それは気まずさではなく、言葉を選ぶための間だった。


「……君は」


エルヴィスが口を開き、そして止まる。


その一瞬の躊躇に、セラは気づいた。


――呼ぼうとした。


名前を。


だが、彼は続けなかった。


「今日の交渉だが」


話題を切り替える。


「条件の整理が早かった。あの場で感情を挟まなかったのも、正解だ」


「仕事ですから」


セラは淡々と答えた。


「そうだな」


彼は頷いた。


「だが、以前の君なら、あの位置には立てなかった」


以前。

その言葉が、過去を連れてくる。


帝国公爵邸。

執務室。

名前を呼ばれなかった別れ。


セラは、そのどれもを顔に出さなかった。


「人は、立場で変わる」


エルヴィスが続ける。


「だが、君は……立場を作った側だ」


それは、はっきりとした認識だった。


セラは、わずかに目を伏せ、すぐに視線を戻す。


「私は、与えられた場所に適応しただけです」


「違う」


即答だった。


「適応しただけなら、ここまで前には出ない」


その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。


「……では」


セラは、静かに問い返す。


「今の私は、どう見えていますか」


エルヴィスは、少し考えるように沈黙した。


「対話が成立する相手だ」


管理対象ではない。

保護すべき存在でもない。


対話の相手。


それだけで、十分だった。


再び、沈黙。


通りの向こうで、鐘の音が鳴る。

夕刻を告げる、短い音。


「……一つ、聞いてもいいか」


今度は、エルヴィスの方が慎重だった。


「はい」


「君は、どう呼ばれたい」


その問いは、突然で、そして重かった。


セラは、息を止めた。


――名前を呼ぶ権利。


それは、相手を個人として認める行為だ。

かつての別れで、彼が行使しなかったもの。


「今まで、どう呼ばれていましたか」


セラは、逆に尋ねた。


「君、だ」


「そうですね」


小さく、しかしはっきりと。


「それで、十分です」


エルヴィスの眉が、わずかに動いた。


「だが」


セラは続ける。


「もし、あなたが“名前”を呼ぶなら」


一拍、置く。


「それは、立場ではなく、個人として向き合う覚悟がある時にしてください」


その言葉は、拒絶ではない。

線引きだった。


エルヴィスは、しばらく彼女を見ていた。


そして、ゆっくりと頷く。


「……分かった」


それだけ。


名は呼ばれない。

だが、避けられたわけでもない。


この距離が、今の二人には正しい。


セラは、軽く一礼した。


「次の会合で」


「……ああ」


踵を返し、歩き出す。


背中に視線を感じたが、振り返らなかった。


名前を呼ぶ権利は、

与えられるものではない。


互いに、相応の位置に立ったときにだけ、

初めて生まれるものだ。


セラは、夕暮れの街を歩きながら、静かに思った。


――私は、もう呼ばれなくても立てる。


そして、だからこそ。


呼ばれる価値を、

自分で選べる場所にいるのだと。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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