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婚約を外された私は、敵国公爵に拾われました  ―役目を失った令嬢の、静かな逆転劇―  作者: 月岡紬


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第23話 呼ばれる名前

商会での仕事は、思っていた以上に厳しかった。


帳簿整理だけでは終わらない。取引先との細かな調整、条件のすり合わせ、曖昧な言葉の裏を読む作業。判断を誤れば、損失が出る。誰かが守ってくれるわけでも、責任を引き取ってくれるわけでもない。


それでも、セラは淡々と机に向かい続けた。


「ここ、もう一度確認してください」


「この条件、文言を変えた方がいいです」


指摘は簡潔に。

感情は挟まない。


最初は半信半疑だった周囲の視線が、少しずつ変わっていくのが分かった。


ある日の午後、倉庫街の商人が商会を訪れた。


「帳簿を見てほしい」


応対に出た職員が、迷うようにこちらを見る。


女性の代表が、短く言った。


「セラに」


その一言に、胸の奥が小さく震えた。


名前で、呼ばれた。


倉庫街の商人は、帳簿を広げながら言った。


「この前、整理してくれたのが、あんたか」


「はい」


「助かった。

おかげで、取引が一つ流れずに済んだ」


感謝の言葉は多くない。

だが、具体的だった。


「次も、頼みたい」


条件の話が続く。短期だが、前より少しだけ良い。保証はないが、信用はある。


「検討します」


そう答えた自分の声が、落ち着いていることに気づく。


選ぶ側に、なっている。


商人が帰ったあと、代表がふと口を開いた。


「最近、外でこう言われてるの」


「?」


「あの帳簿のセラ、って」


思わず、瞬きをした。


「姓も肩書きもない。

でも、分かる人には分かる」


それは、ここで初めて得た評価だった。


役職でも、家名でもない。

仕事の中で、積み重ねた名前。


夕方、商会を出ると、路地で声をかけられた。


「セラさん」


振り向くと、以前帳簿を直した運搬人だった。


「この前は、助かりました」


「いえ」


短いやり取り。

それだけで、十分だった。


宿へ戻る途中、石畳を踏みしめながら、セラは思う。


――私は、もう匿名じゃない。


それは、重たいことでもある。

失敗すれば、同じだけ名が傷つく。


だが、それ以上に。


自分で立ち、自分で積み上げた証だった。


部屋に戻り、灯りを点ける。


机の上には、商会で使っている書類の控えと、いくつかの依頼メモ。すべて、自分宛てだ。


「……呼ばれる、か」


小さく呟き、息を吐く。


名前を呼ばれることは、

誰かに所有されることではない。


ここでは、

「責任を持って、任される」という意味だった。


セラは窓を開け、夜の街を見下ろす。


騒がしく、無秩序で、優しくもない街。

それでも、この場所で、彼女は初めて――


「私は、ここにいる」


と、胸を張って言えるようになっていた。


呼ばれる名前。


それは、

自分で作り上げた居場所の、確かな証だった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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