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婚約を外された私は、敵国公爵に拾われました  ―役目を失った令嬢の、静かな逆転劇―  作者: 月岡紬


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第20話 帝国の噂

翌朝、リュネスの空気はざわついていた。


宿の一階に降りると、普段は必要最低限しか話さない商人たちが、珍しく声を潜めて集まっている。言葉の端々に、同じ単語が混じっていた。


――帝国。


「国境がきな臭いらしい」


「大規模な動きはないが、使節が増えている」


「中立都市にも、目を向け始めたとか」


セラは、黙って聞いていた。


噂は噂だ。

だが、こうして複数の口から同じ話が出るとき、何かは確実に動いている。


倉庫街へ向かう途中、掲示板の前に人だかりができていた。


〈帝国関連取引・事務補助募集〉

〈短期・高条件〉


条件は、今まで見てきたものより明らかに良い。賃金も高く、保証についての記載もある。視線が自然と集まるのも無理はなかった。


セラは、一歩引いた位置から、それを見ていた。


――楽な道だ。


帝国の名を出せば、説明は早い。

自分の経歴も、一気に価値を持つ。


「帝国公爵の下で働いていた」


その一言で、多くは片付くだろう。


喉の奥が、微かに熱を持つ。


思い浮かぶのは、濃紺の外套と、淡々とした声。

合理的で、冷静で、正しい判断。


――助けてはくれないが、無駄に傷つけもしない人。


「……だめね」


小さく呟く。


ここで帝国に寄りかかれば、

今まで積み上げてきたものが、すべて歪む。


それは、自立ではない。


午前、以前帳簿を整理した商人のところへ顔を出す。


「何か、仕事はありますか」


「今日はない」


即答。


「だが」


一拍。


「最近、帝国絡みの話が増えている。

あんたも、誘われるだろう」


「……そうでしょうね」


商人は、じっとセラを見る。


「断るつもりか」


問いに、迷いはなかった。


「はい」


商人は、鼻で笑った。


「損な性分だ」


「そうかもしれません」


それでも、声は揺れなかった。


午後、街の広場で、帝国の使節団を見かけた。


軍装の者、事務官、護衛。整った列。

その中心に――彼はいない。


それに、安堵する自分に気づく。


――今、会うべきではない。


会えば、立場が揺らぐ。

せっかく立ち直した足元が、また不安定になる。


夕方、宿に戻る途中、酒場の前で会話が聞こえた。


「帝国公爵が来るらしい」


その言葉に、心臓が跳ねる。


「誰だ」


「アルドレイン家だとか」


一瞬、呼吸が止まった。


――来る?


だが、すぐに続く言葉で現実に戻る。


「噂だ。

本当に来るかは分からん」


噂。

そう、噂だ。


セラは、歩みを止めなかった。


部屋に戻り、窓辺に立つ。


帝国の噂は、確実にこの街へ近づいている。

そして、それは彼女の過去とも繋がっている。


だが。


「……私は、もう戻らない」


誰に言うでもなく、呟いた。


噂に心を引かれない。

過去に足を取られない。


ここで築いた立場は、まだ不安定だ。

それでも、自分の足で立っている。


帝国の影が伸びても、

私は、その影に隠れない。


夜のリュネスは、今日も変わらず騒がしい。


その中で、セラは静かに決めていた。


次に帝国と向き合うときは、

選ばれる側ではない。


――選ぶ側として、だ。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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