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婚約を外された私は、敵国公爵に拾われました  ―役目を失った令嬢の、静かな逆転劇―  作者: 月岡紬


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第18話 名前のない契約

三日間の仕事は、静かに終わった。


倉庫の奥、簡素な机に向かい、セラは最後の帳簿を閉じる。紙の端は擦り切れ、数字の並びも美しいとは言えない。それでも、取引の流れは整理され、次に揉める場所も明確になった。


「……ここまでで十分だ」


背後から、あの商人の声がする。


振り返ると、彼は腕を組み、帳簿の束を眺めていた。満足とも、不満とも言い切れない表情。だが、否定はなかった。


「助かった」


短い言葉。


それだけで、三日分の評価としては十分だった。


「続きの仕事は」


セラが尋ねると、男は少し考え込む。


「今すぐはない」


正直な答えだ。


「だが、帳簿を触れる人間は貴重だ。

また声をかける」


約束ではない。

だが、社交辞令でもない。


「承知しました」


セラは静かに頷いた。


賃金が支払われる。

前回と同じ、控えめな額。


「契約書は?」


セラがそう問うと、男は肩をすくめた。


「この規模じゃ作らん。

信用が先だ」


信用。


その言葉が、以前より少しだけ違って聞こえる。


「……名前は」


男が、ふと尋ねた。


「帳簿に記す。誰が整理したか、後で分かるようにな」


一瞬、迷いが生まれる。


偽名「セラ」。

それで通してきた名。


だが、この街で、

この仕事で、

残る記録に書く名前としては――


セラは、ゆっくりと口を開いた。


「姓は、ありません」


それだけ言った。


男は、特に追及しなかった。


「そうか」


帳簿の余白に、短く記す。


〈セラ〉


それだけ。


肩書きも、保証もない。

ただの名前。


だが、その文字を見た瞬間、胸の奥が静かに熱を持った。


――逃げじゃない。


これは、まだ選びきれていないだけだ。


宿へ戻る道すがら、倉庫街で何人かに声をかけられた。


「この前の件、助かった」


「帳簿、見てくれた人だろ」


名前は呼ばれない。

だが、存在は認識されている。


夜、部屋で銅貨を数える。


多くはない。

だが、確実に増えた。


そして、帳簿の余白に残った名前。


「……名前のない契約、か」


呟いて、息を吐く。


これは、まだ途中だ。

本名を名乗るには、早い。

だが、何も名乗らないほど、弱くもない。


私は、今の自分の位置を知っている。


役割を与えられたわけではない。

居場所を保証されたわけでもない。


それでも。


自分の手で整え、

自分の仕事で、

名を残した。


小さくても、確かな一歩。


セラは、灯りを落とし、ベッドに横になった。


この街で、

私はまだ仮の存在だ。


けれど――

仮のままでは、終わらせない。


名前のない契約は、

いつか自分で選んだ名前へと、

繋がっていく。


そう信じて、

目を閉じた。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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