第16話 それでも、手放さないもの
朝の空気は、昨日より少しだけ冷えていた。
セラは宿を出ると、無意識に背筋を伸ばした。今日も、特別な予定はない。呼ばれる場所も、与えられた役割もない。それでも、昨日とは違う感覚があった。
――何もしなくても、立っていていい。
そう思えるだけで、足取りがわずかに軽い。
市場を抜け、倉庫街へ向かう。理由はない。昨日も来た場所だから、というだけだ。人の流れ、荷の積み下ろし、声の調子。眺めているだけで、頭が勝手に情報を拾っていく。
それは、長年の癖だった。
「おい、ちょっと待て!」
突然、荒い声が響いた。
倉庫街の一角で、商人と運搬人が言い争っている。布袋が積まれた荷台の前で、帳簿を手にした男が顔を赤くしていた。
「数が合わねえって言ってるだろ!」
「昨日確かに運んだ!」
昨日も見た光景。
違う顔、同じ構図。
セラは、足を止めた。
――首を突っ込む理由はない。
昨日のように、礼も仕事も得られないかもしれない。それでも、視線が帳簿の数字に吸い寄せられる。
「……失礼します」
声をかけたのは、ほんの衝動だった。
二人がこちらを振り向く。
「何だ、あんた」
「関係ないだろ」
警戒の色。
「通りすがりです」
セラは昨日と同じ言葉を使った。
「ですが、その帳簿……数量は合っています」
「は?」
帳簿を指し示す。
「問題は、袋の重さです。昨日の雨で、布が湿っています。その分、重量が増えている」
一瞬の沈黙。
運搬人が袋を持ち上げ、舌打ちする。
「……確かに、重いな」
商人が顔をしかめ、帳簿を見直す。
「数じゃなくて、重さか……」
原因は単純だった。だが、気づかなければ、揉め続けていた。
「……あんた、何者だ」
商人が、じっとセラを見る。
「ただの通行人です」
嘘ではない。
男はしばらく黙っていたが、やがて短く言った。
「助かった」
それだけ。
礼も、金も、仕事の話もない。
それでも、セラは胸の奥に、昨日とは違う感覚を覚えていた。
――私は、これを手放せない。
誰かに与えられなくても。
誰かに求められなくても。
状況を見て、考えて、整える。
それが、自分の核なのだと。
倉庫街を離れ、街路を歩く。
「役に立つ」ことと、「必要とされる」ことは違う。
そして、「役に立った」事実は、消えない。
それに、名前も、契約も、関係ない。
午後、広場の掲示板の前で足を止めた。
昨日と同じ紙。
同じ条件。
だが、今日は、紙を睨まなかった。
「……今じゃない」
小さく呟き、背を向ける。
信用は、積み重ねるもの。
そして、積み重ねるために必要なのは、
“続けること”だ。
宿に戻る途中、倉庫街で会った商人とすれ違った。
一瞬、視線が合う。
彼は、ほんの少しだけ顎を引いた。
挨拶でも、感謝でもない。
だが、確かに――認識された。
それで、十分だった。
部屋に戻り、ベッドに腰掛ける。
今日も、仕事はない。
金も、増えていない。
それでも、胸の奥に、確かなものが残っている。
役割は、与えられるものじゃない。
名前がなくても、
立ち位置がなくても。
手放さないものが一つあれば、
人は、立っていられる。
セラは、静かに息を吐いた。
明日もまた、街を歩く。
同じように見て、考えて、整える。
それが、今の彼女にできる、
唯一で、確かな選択だった。
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