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婚約を外された私は、敵国公爵に拾われました  ―役目を失った令嬢の、静かな逆転劇―  作者: 月岡紬


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第15話 役割を持たない一日

朝、目が覚めても、急ぐ理由がなかった。


それに気づいた瞬間、胸の奥がわずかにざわつく。王都でも、帝国公爵邸でも、起きればやるべきことがあった。誰かに求められ、決められた役割が、必ず用意されていた。


だが、ここにはない。


セラはゆっくりと身支度を整え、宿を出た。通りはすでに動き出しているが、その流れに自分の居場所は見当たらない。


掲示板の前に立つ。

昨日と同じ張り紙。

昨日と同じ条件。


指先で紙の端を押さえ、すぐに離した。


――今日は、行くところがない。


その事実が、じわじわと効いてくる。


市場を歩く。

倉庫街を通る。

商会の裏口を覗く。


どこにも、呼ばれていない。


昼前、広場の端にある噴水の縁に腰を下ろした。人々は行き交い、誰かと誰かが用事を交わし、金が動き、約束が結ばれていく。


セラだけが、止まっている。


「……何をしているんだろう」


思わず、声が漏れた。


役割を失った自分が、こんなにも空虚だとは思わなかった。恐怖でも、絶望でもない。ただ、輪郭のない不安。


――私は、役割がないと、ここにいてはいけないのか。


自分に問いかけてみる。


答えは、返ってこない。


昼を過ぎ、空腹に耐えかねて簡素な食堂に入る。硬いパンと薄いスープ。それだけで、銅貨が減っていく。


食べ終えても、行き先はない。


午後、街の外れまで歩いた。倉庫街と居住区の境目。人通りが少なく、空気が少し冷たい。


ふと、帝国公爵邸の執務室が脳裏に浮かぶ。


机。

書類。

静かな時間。


――あの場所には、私の役割があった。


それを思い出した瞬間、胸が締めつけられた。


依存していたのだと、はっきり分かる。


仕事があったから落ち着いていたのではない。

役割を与えられていたから、安心していた。


「……危ないわね」


自嘲気味に呟く。


もし、あのまま戻っていたら。

もし、また誰かに役割を与えられていたら。


私は、考えることをやめていたかもしれない。


夕方、街路の影が長く伸びる。


何もしなかった一日。

役に立たなかった一日。


それでも、日は暮れる。


宿へ戻る途中、子どもたちが路地で遊んでいるのを見かけた。笑い声が響き、転んでもすぐに立ち上がる。


役割など、持っていない。

それでも、ここにいる。


その光景が、胸に静かに落ちた。


部屋に戻り、ベッドに腰掛ける。


「……役割がなくても、私は消えない」


小さく、しかしはっきりと言った。


今日一日、何も得られなかった。

だが、失ったわけでもない。


役割を持たない時間。

それは、怖い。


けれど同時に、

誰にも使われていない時間でもある。


セラは、深く息を吸い、吐いた。


明日も、仕事はないかもしれない。

それでも、街を歩く。


役割がないまま立つことに、

慣れるために。


この街で生きるには、

まず――

何者でもない自分を、受け入れる必要があった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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