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婚約を外された私は、敵国公爵に拾われました  ―役目を失った令嬢の、静かな逆転劇―  作者: 月岡紬


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第14話 信用は名前では買えない

翌朝、リュネスの街は霧に包まれていた。


湿った空気が石畳にまとわりつき、遠くの建物は輪郭を曖昧にしている。セラは宿の小さな部屋を出て、階段を下りた。女将と目が合い、軽く会釈する。


それ以上のやり取りはない。


ここでは、顔見知りになることと、信用されることは別だ。


通りに出ると、すでに商人たちが店を開け始めていた。木箱を運ぶ音、値段を叫ぶ声、異国語の罵声。活気はあるが、そこに秩序はない。


セラは、掲示板の前で足を止めた。


〈短期帳簿整理〉

〈翻訳補助・帝国語可〉

〈交渉同席経験者優遇〉


目に入る文言は、どれも自分に当てはまる。だが、その下に小さく書かれている条件が、いつも同じだった。


――保証人要。

――身元確認あり。


一枚ずつ、紙を見つめ、そして離れる。


最初の商会では、応接用の簡素な椅子に座らされた。


「名前は?」


「セラです」


「姓は?」


一瞬、間が空く。


「……名だけで通しています」


男は、そこで眉を寄せた。


「それは、名前とは言わない」


それ以上、話は進まなかった。


次の商会では、逆に詳しく聞かれた。


「前はどこで働いていた」


「帝国領内で、事務補佐を」


「誰の下だ」


セラは、ほんの一瞬だけ迷い、答えた。


「……公爵家です」


男の目が、わずかに光る。


「ほう」


期待の色。


だが、その直後。


「紹介状は?」


「ありません」


空気が、冷えた。


「それは困るな」


男は、申し訳なさそうでも、残念そうでもなかった。ただ、条件が合わないと言っているだけだ。


「うちは信用第一なんだ」


信用。


その言葉が、胸に刺さる。


王国では、家名が信用だった。

帝国では、役職が信用だった。


だが、ここでは違う。


昼前、酒場の裏手で、帳簿整理の短期仕事を探しているという男に声をかけられた。


「名前は」


「セラです」


「……それだけ?」


「はい」


男は、鼻で笑った。


「信用は、名前じゃ買えない」


はっきりと、言われた。


「悪いが、初めて見る顔に金は払えない」


そう言って、背を向けられる。


セラは、何も言い返さなかった。


正しいのだ。

この街では。


昼食を取る余裕もなく、街を歩き続ける。足は疲れ、喉が渇く。だが、立ち止まる理由もない。


午後、倉庫街の端で、小さな商会の前に人だかりができていた。


「金が合わないんだ!」


「昨日まで合ってた!」


聞き覚えのあるやり取り。


セラは、また足を止めた。


昨日と同じだ。

首を突っ込めば、面倒事に巻き込まれる。

礼も、仕事も、約束されない。


それでも。


「……帳簿、見せてもらえますか」


自分でも驚くほど、自然に声が出た。


商会主と思しき男が、怪訝そうにこちらを見る。


「何だ、あんた」


「通りすがりです」


昨日と同じ答え。


帳簿を覗き込み、指で行をなぞる。


「ここです。数量は合っています。でも、単価が一度だけ違う」


男たちが覗き込む。


「……本当だ」


原因は単純だった。入力時の換算ミス。だが、見逃せば揉め続ける。


「助かった」


初めて、そう言われた。


ただし、それだけだった。


「礼は?」


と聞かれることもなく、

「仕事を頼みたい」と言われることもない。


セラは軽く頭を下げ、その場を離れた。


夕暮れの街路で、立ち止まる。


――信用は、買えない。

――名前では、通じない。


だが。


「……ゼロじゃない」


小さく呟く。


感謝はされた。

役に立ったことは、否定されなかった。


それだけで、昨日より一歩進んでいる。


宿へ戻る途中、掲示板の前で再び足を止める。


同じ張り紙。

同じ条件。


セラは、紙を睨むのをやめ、背を向けた。


「条件を満たすんじゃない」


自分に言い聞かせる。


「信用を、作る」


時間はかかる。

遠回りだ。


それでも、この街では、それしかない。


部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。


空腹はある。

不安もある。


それでも、胸の奥に、昨日より確かな感覚が残っていた。


誰も、私を知っていない。

だからこそ――

誰にでもなれる。


信用は、名前では買えない。

だが、積み重ねることはできる。


セラは、ゆっくりと目を閉じた。


明日もまた、この街を歩く。

それが、今の彼女の選択だった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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